「教えない時代」という言葉が教育界に浸透するにつれ、教師の指導技術や教材研究は古いものとして排除されるべきだという誤解が生まれています。しかしこの捉え方は本質を見誤っています。今起きているのは「教えることを禁じる時代への転換」ではなく、「子どもたち自身が自分の学習を支えられるようにする」という視野の拡張です。150年かけて積み上げてきた教育技術は否定されるべきものではなく、子どもに渡せる知識・ツールとして再配置される財産です。そして子どもに任せるだけでは学びは成立しません。学習空間の設計・学び方の技術・しんどさを乗り越えるための知識の整備——その先駆的な実践知として、けテぶれ・QNKS・心マトリクスは位置づきます。
「教えない時代」という言葉の本意
あるとき、教育技術を研究する学会で「教えない時代に教育技術はどうあるべきか」というテーマが設定されました。
この問いには、現場の教師が感じているある戸惑いが凝縮されています。子ども主体・自由進度・個別最適……そうした言葉があふれる中で、「では教師はいったい何をすればよいのか」という不安です。
「教師が教えてはいけない」ということはありえません。
子どもたちが自分で学ぶという瞬間を確実に保証すること、そして「自分で学べる」という状態を最終ゴールとして見失わないこと——これが「教えない時代」という言葉の本意です。教師が一切教えてはならないという話ではなく、「子どもが自ら学べるようになる」という到達点を視野の中心に据え直しましょう、というパラダイムの転換なのです。
教師主導に寄りすぎた授業のバランスを修正しようというムーブメントであって、教師の専門性を否定するものではありません。子どもたちに自分で学ぶ瞬間を保証しながら、そのゴールに向かって指導・支援をどう設計するか——そこが問われています。
150年の蓄積は「財産」である
日本の教育は、長い年月をかけて指導技術・教材研究を積み上げてきました。逆上がりができるように、作文が書けるように、筆算のくり上がりを理解できるように——各教科・各領域における細かく深い指導技術の蓄積は、今もなお教室の至るところに生きています。
この蓄積を教師の研究として整理すると、頂点に「教材研究・指導技術の向上」が位置する三角形として捉えることができます。

この頂点に集中してきた150年間は、確かに意味のある歴史でした。そしてそれだけ研究を重ねてきたということは、その範囲における実践知はほぼ成熟段階に達していると言ってよいのです。
だからこそ「次の段階に進みましょう」というムーブメントが生まれています。これは既存の蓄積を捨てるのではなく、「その土台の上に、もう一段視野を広げる」というパラダイムシフトです。これまで蓄積されてきた教育技術の否定は必要ありません。 それを子どもたちに届けるかたちを変える、という提案なのです。
教育技術を「子どもに渡す」という発想
ここで重要な問いが生まれます。150年間蓄積されてきた指導技術や教材知識は、いつまで教師だけが保有するものなのか、ということです。
指導案、指導書、教科ごとの発問の型、板書計画——これらは、形式化され方法論として確立された知識の集積です。5・6年生の子どもたちは、タブレットで指導案を調べ、「こういう流れで考えたらいいんじゃないか」と自分で実行することが実際にできます。教室に指導書を置いておけば、子どもたちは普通にそれを読み、学習の手がかりとして活用できるのです。
これはまさに「情報民主化」です。教師の専有物として閉じていた教育技術を、子どもたちが自分の学びに使えるものとして開いていく発想。そのデータベースにアクセスし、必要な情報を取り出して自分で実行する——そういう力の育成が、次の教育の課題になります。

この観点から捉え直すと、これまでに蓄積されてきた教育技術のアーカイブは、子どもたちにとっての「学びのコントローラー」の素材庫として意味を持ちます。膨大な実践知の集積は、教師のためのものというより、子どもたちにとって有益な知識の集積として位置づけることができるのです。そう捉えれば、150年かけて積み上げてきた技術はひとつも無駄になりません。教育技術を研究してきた歴史は、子どもたちへ渡すための財産を築いてきた歴史として、次の段階の土台になります。
「任せれば学ぶ」は幻想である
しかし、子どもに任せさえすれば自然に学ぶという楽観は危険です。
子どもたちに丸投げしたとき、何が起きるか。最初の開放感で前向きに取り組む姿が一時的に見えることはあります。しかしそれは長続きしません。学びの技術がなければ、意欲の管理ができなければ、子どもたちは止まってしまいます。
図書館に子どもを連れていけば本を読むかといえば、そうではありません。本の読み方を知らない、本を読む楽しさを知らない子は本を読みません。学校でいくら読ませても、「自分で読む」という経験が育っていなければ、義務教育を終えた後に自分から図書館に向かうことにはならないのです。学び方そのものを学んでいない子どもは、場所や素材だけ与えられても動けません。
学ぶことには、しんどさが伴います。「勉強する」とは「勤めを強いる」こと——その現実から目を逸らしてはいけません。苦しみながら、それでも自分の学習を一つずつ進めていくことを支えるためには、整えなければならないものがあります。
どのような学習空間を作るか。どのような知識・技術を子どもたちに授けるか。いつでも自分の現在地(自分の学習の位置・状態)を認識できるツールが整っているか。そしてモチベーションが落ちたときにそれを管理し直す手立てが機能するか。これらの設計なしに「子どもに任せる」だけでは、学びは生まれません。
この「学びを支える空間・知識・環境・ツールの設計」こそが、今の教育研究において最も遅れている領域です。教科の指導技術には150年の蓄積がある一方で、学習力を育てる方法論についての研究は、まだ発展途上にあります。
新大陸の研究として——けテぶれ・QNKS・心マトリクス
教育という歩行を前に進めるためには、左足(学びを支える力・環境の設計)に体重を移していく必要があります。右足(教科の指導技術)に体重をかけすぎた期間が長かったからこそ、引き抜くのが難しく、左足に体重を乗せる方法が分からずにこける——今の教育界はそのような状況です。
この「左足」の領域こそが、研究の新大陸です。

けテぶれとQNKSは、この新大陸を支える知識として開発されてきた実践ツールです。学習力を育てるための具体的な手立てとして、子どもたちが「自分の学びを自分でコントロールする」ための方法論が体系化されています。心マトリクスは、子どもが自分自身の状態を把握し、学習の中で現在地を認識するための枠組みを提供します。
学習指導要領においても「学びに向かう力」は評価の観点として明記されています。しかし、その力をどう育てるかの研究は、十分に蓄積されてきませんでした。けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、その問いに向き合ってきた先駆的な実践知です。これらに関わる学習科学的な知識——学習の進め方、自分の状態の認識方法、モチベーションの管理——を子どもたちに授け、それを支える学習空間を設計すること。それが、このパラダイムにおける教育技術の新しいかたちです。
葛原学習研究所のミッションとして
全国各地の教師が「学年まるごとでけテぶれに取り組んでいる」「子どもたちが自分で学び方を選んでいる」という実践を積み重ね始めています。認知が広がる一方で、先駆的な研究はその分だけ現場に届くまでに時間がかかります。理解されにくいと感じる部分もまだあります。
「全国の子どもたちが自ら考え、自ら学び、自ら生きられるようになるために」——これが葛原学習研究所のミッションです。教科学習を支える新しい実践知の構築、学習力を育てる環境の設計、そして子どもたちに渡せる学びのコントローラーの開発。それが、未来の教育課題を受け止めるための研究の核心です。
150年の蓄積の上に立って、その財産を子どもたちへ届けながら、次の時代の教育を切り拓く。そのための研究と実践を、これからも続けていきます。