コンテンツへスキップ
サポーターになる

中教審資料から考える、多様性を本当に包摂する教育

Share

中央教育審議会の論点資料が「多様性を包摂し、一人ひとりの意欲を高め可能性を開花させる教育の実現が喫緊の課題」と述べています。問題は、私たちがその「多様性」をどう読んでいるかです。特定の子への支援の話として読むのか、35人学級全体に連続的に広がる熱の広がりとして読むのか。資料を読む目線によって、教室に必要な変化はまったく異なります。制度や授業時数の調整より前に、教師自身の教育観・子ども観を更新することが先です。そして子どもに本当の学びの自由を渡すためには、けテぶれ・QNKS・心マトリクスのような「学びの見方・考え方」を先に手渡す必要があります。

🎧 この記事を聴く

「0.8人」の数字を、どう読むか

中教審の論点資料には、35人学級を想定したとき、次のような数値が並んでいます。学習面・行動面で著しい困難を示す子どもが約3.6人(10%程度)、不登校傾向が約4.1人(11%程度)、日本語を家庭ではあまり話さない児童が約1人(2.9%程度)。得意な才能を持つ子どもが約0.8人(2.3%程度)——つまり、いる年もあればいない年もある、という割合です。

こうした数値を見たとき、「0.8人以外は普通の子」として教室を見てしまうことが、実は最も危険です。

多様性は、特定の子に宿るのではなく、教室全体に連続的に広がっています。

けテぶれを例に取れば、初日に渡した瞬間からめちゃくちゃ熱中して取り組む子、全く現在地が見えない子、その間に幅広いグラデーションの子どもたちがいます。学力も、行動も、感情の表れ方も、全部そうです。得意な才能を持つ子が正規分布のひとつの端にいるなら、その隣にも、またその隣にも、それぞれの「その子らしさ」を持った子どもたちが連続して広がっています。

「困難を示す3.6人を引いた残りの31.4人は普通」ではありません。困難を示さない側の端——自分を学校の正解に当てはめすぎる子——は、高校・大学に進んで初めて「自分が何者か分からない」という状態に至ることがあります。それは別の意味で深刻な困難です。

熱の広げ方
熱の広げ方

教室を熱の広がりとして見るならば、教師の仕事は「特定の子を支援する」ことの前に、「その連続した広がりを丸ごと前提として授業をデザインする」ことです。そのためにまず必要なのは、教師自身の見方を変えることです。

困難の裏側を見る

もうひとつ重要な視点があります。困難に見える姿を「ネガティブ」として確定させてしまう前に、その裏側を見ることです。

学習面・行動面で著しい困難を示すとされる子は、言い換えれば「やりたくないものはやりたくないと、即座に正直に示せる子」とも言えます。自分の生き方・スタンスを持って反応できるということは、これからの社会において非常に頼もしい特性でもあります。

世界は、どうとでも説明できます。

困難という指標はネガティブですが、その裏を返せばポジティブな特性が出てきます。この「世界はどうとでも説明できる」という感覚を教師が持てるかどうかが、多様性を包摂できるかどうかの分水嶺です。「学校文化に適応することが困難なだけで、その子がその子として生きることに関してはめちゃくちゃ得意」という見方ができるかどうか。これは技術より先に、教師の内側にある価値の基準の問題です。

多様性を包摂するために必要なのは、教師自身の更新

授業時数を増減させても、教育課程を柔軟に組み替えても、教師の目線が「昭和・平成の単線型授業」のままであれば、制度の変更は形骸化します。多様性を包摂するための本質的な問いは、「どうやって自分を開いていくか」という教師自身の哲学の問いです。

ここで鍵になるのが教師の研究三位一体という考え方です。教師が多様性を前提とした教育を展開するためには、哲学(私たちは何を良いとしてきたか、価値の基準はどこにあるか)・学習研究・教材研究の三つが互いに絡み合いながら深まっていく必要があります。

子どもたちの多様な価値を裏表しながら「それでいいね」と認められること。そして、そう認められた子が「もっと良くなりたい」という方向に歩み出そうとするとき、教室の熱の広がりをうまく活用できること——これが教師の仕事の核心です。単線型の授業の「先生が教えたから、みんなできるでしょ」という前提は、ここと真逆にあります。

「子どもたちの見方・考え方」とよく言うのに、教師自身の見方・考え方が昭和・平成から一ミリも動いていないとすれば、仕組みを変えても何も変わりません。仕組みを変える前に、教師の教育観を変える。 これが多様性を本当に包摂するための最初の一歩です。

コントローラーを子どもに渡すということ

教師が全てのコントローラーを握り、子どもたちを自分のストーリーラインに乗せると、何が起きるでしょうか。

「勉強が得意なチーム」「できないチーム」というセグメントが固定化され、子どもたちはそこから出ることができなくなります。「自分は勉強できないんだ」「あいつは得意ですごいな、自分には関係ない」——こういった固定化が、静かに進みます。教師が丁寧に教えようとするあまり、子ども同士が混ざり合う余地をなくしてしまうのです。

子どもたちが子ども同士で関われると、自分の現在地から一歩先の背中を見つけることができます。

少しだけ先を歩いている仲間の存在によって引き出される学びは、教師が直接届けるものとは異なります。子ども同士の横の繋がりが生まれる教室では、熱がじわじわと伝播していきます。

子どもたちの熱分子を自由にさせると、それぞれが活動して結果的にエネルギーが均等化されていく——これは熱力学的な比喩ですが、教室で実際に起きていることと重なります。教師が全てを握って管理すると、「冷えた部屋は冷えたまま、暑苦しい部屋は暑苦しいまま」で、横の繋がりが断たれてしまいます。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

もちろん、ただ混ぜれば良いわけではありません。全体のエネルギーレベルをどこに向かって伸ばしていくかを考えるのが、教師の仕事です。そのためにも、教師自身が「どういうエネルギーを注入するか」を問い続ける必要があります。

語りは、最初から全員には届かない

教師が子どもたちに語りかけるとき、その語りは最初から全員に届くでしょうか。そうではないと、経験が教えてくれます。

教師の思考や価値判断にたまたま近い子が、3人ほどいます。教室の端の子が深くうなずいていることも少なくありません。精神的な近さと遠さは物理とは違います。距離が近い席に座っていることと、価値判断の近さは別の話です。その3人ほどに語りが届き、そこからじわじわと熱が伝わっていく——これが語りのリアルな伝播の姿です。

だからこそ、「できない子にどう直接届けるか」と教師が一人で抱え込むより、まず語りに共鳴した子たちが他の子と関われる環境を整えることが有効です。弱火にした熱をいきなり遠くの子にぶつけてしまうと、あふれてしまうこともある。調節しながら、熱が順々に繋がっていく教室をデザインすることがプロとしての仕事です。

一方で注意が必要なのは、語りが浅かったり自己満足的になったりすると、子どもたちの中に意図しない「別の熱」が生まれることです。「先生の言ってること、よく分からないよね」という熱が、学級の中でじわじわと広がっていきます。教師も子どもたちも同じ目線で、あるべき姿を見定めながら進んでいくために、心マトリクスのような共通の地図を持つことが助けになります。

自由進度学習で本当に見るべきもの

論点資料の文脈で、自由進度学習の話が展開されます。授業時数の柔軟化、学年区分にとらわれない教育課程の編成——これらは一見、子どもの多様性に応えようとしているように見えます。しかし、その発想が「教師が子どものために編成してあげる」にとどまっている限り、本質は変わりません。

「深い学びが働いているか」「見方・考え方が機能しているか」という教科内容の目線だけで自由進度学習を評価するなら、単線型の授業の方がよほど効率的です。教えたいことがそんなにはっきりあるなら、単線型の授業をすべきです。

自由進度学習で本当に見るべきは、任せた結果に何が育ったかです。

自分で学んで自分の特性を知り、自分をコントロールできるようになって、自分の人生を自分で歩んでいく——という主体感・自己調整の力。この力は、任せないと生まれません。失敗も成功も、自分で判断して動くことの繰り返しの中でしか育たないのです。「任せた結果、任せないとこの学びは生み出さなかった」という学びを生み出せてこそ、任せる意味があります。

学習の基盤となる資質能力
学習の基盤となる資質能力

自分で学んで自分の人生を歩んでいく力——これが「生きる力」であり、「人格の完成」の実装です。自由進度学習は、その力を育てるための環境設計として意味を持ちます。自己調整学習や主体性の育ちに目を向けてこそ、自由進度学習の価値が見えてきます。

任せるためには、見方・考え方の「ひな形」が要る

「任せればいい」という話ではありません。ここが大切なところです。

何も持たないまま「好きに学んでいいよ」と渡しても、「何をどう見ていいか分からない」という状態になるだけです。広大な砂漠に放り込まれた状態では、どこにも歩いていけません。

子どもたちが自分の現在地を見つけ、学び方を選び、進んでいくためには、学びの見方・考え方のひな形が必要です。けテぶれ(計画・テスト・分析・練習)は、学びのサイクルを自分で回すための型です。QNKS(問い・抜き出し・組み立て・整理)は、思考を言語化・外在化するための型です。心マトリクスは、自分の内側と外側を同時に見るための地図です。

これらは「先生が管理するための道具」ではなく、「子ども自身が自分の学びを見るための道具」です。子どもに渡してこそ意味があります。

また、自由進度学習においても「基盤の時間割」があるように、全てを自由にするのではなく、最初の骨格を示した上で「あなたなりに改変することは全く構わない」という余白を開けることが、実践の現実的な姿です。骨格があってこそ、子どもたちは自分なりの学び方を試し始めることができます。自由の根拠は、現在地・目標・方法の見通しを自分で持てることにあります。

「子どもがやること」という逆転

論点資料の中に、次のような記述があります。「学年区分にとらわれず、柔軟に教育課程を編成したり指導を展開しやすくする方向で検討してはどうか」——ここで気になるのは、主語が「教師」になっていることです。

「自分は2年生の学習で止まっているから、2年生に戻ります」ということを、子ども自身が考えられるようになることが本来の姿です。教師が柔軟に編成してあげるのではなく、子どもが自分の現在地を見て、必要な学びを自分で組み替えていく。その力を育てることが目的であるはずです。

これを体現した具体的な場面があります。算数が苦手だと感じていたある3年生の子どもが、自分の得意な図工を徹底的に早く仕上げました。「余らせた図工の時間を算数に使う」と自分で決め、3〜4時間分の算数をまとめて取り組みました。その単元のテストで、学年でも最高得点を取った——という話です。

教師がやってあげたのではなく、その子が考え、決め、動きました。 これが、多様性を包摂する教育の一つの姿です。3年生の子どもにも、これはできます。教師がその余白と、学びの見方・考え方のひな形を渡していれば。

系統主義と経験主義をめぐる議論は、数十年を経てまた同じ場所に戻ってきています。ゆとりや余白を生み出すことは大切です。しかしその余白で何が育つかを問わない限り、「渡したあとどうなったか」を見ない限り、同じ失敗を繰り返します。

教師の目線が変わるところから始まる

多様性の包摂は、制度の問題より先に、教師の見方の問題です。

35人学級に広がる多様性を連続する熱の広がりとして見ること。困難に見える姿の裏にある強さを見ること。語りが届く子からじわじわと熱を広げていくこと。コントローラーを子どもに渡し、子ども同士が混ざり合う環境をつくること。そして、任せるからこそ育つ力を信じて、その力を育てるひな形(けテぶれ・QNKS・心マトリクス)を渡すこと。

「子どもたちの見方・考え方」とよく言います。それと同じように、教師自身の見方・考え方が更新されていくことが、多様性を本当に包摂する教育の出発点です。

この記事が参考になったらシェア

Share