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教師の権威が失われた時代に、教師は何の専門家になるのか

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従来の学校では、教室の座席配置・教師の立ち位置というヒドゥンカリキュラムと、「先生とは素晴らしい職業だ」という社会的承認が、教師に権威を付与してきた。しかしその前提は崩れつつある。権威を振りかざすことも、権威を捨てて何もしないことも、どちらも活路にはならない。これからの教師は、教科知識を前提としながら、学び方・考え方・自分を動かす方法に詳しい専門家として再定義される必要がある。自由進度学習やけテぶれは放任の免罪符ではなく、子どもが自ら学ぶ力を獲得するために自由度を上げる実践として位置づけられる。そして教師の仕事は、集団を一方向に統制することから、子どもたちの主体性の波を見極めながら学びの場を整えることへと移っていく。

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「権威性のゲーム」という前提の崩壊

学校という空間には、独特の構造があります。30人の子どもたちが一斉に前を向いて座り、一段高い位置に年齢的にも体格的にも大きな大人が一人立つ。その構造そのものが、前に立つ教師に権威を付与するように設計されています。これをヒドゥンカリキュラムと呼びます。教室のデザインという「見えないカリキュラム」が、黙ったままでも教師に一定の権威を与えてきた、ということです。

さらに、「先生とは素晴らしい職業なのだから」という社会からの承認が、その権威をさらに補強してきました。教室という物理的な装置と、社会的承認という二重の支えによって、学校教育はある程度、誰が担っても失敗しにくい構造として成立してきた側面があったと言えます。

ところが今、その構造が揺らいでいます。社会からの教師への承認は、かつてほど確かではなくなってきました。権威付与の構造の中に入った教師が、その権威を振りかざすように振る舞えば、社会からそれが承認されない。集団に対して高圧的に何かをつけたり否定したりするような存在としては、もう認められなくなってきているのです。

これが、今の教師が直面している最初の問いです。教室という場が長年支えてきた「権威性のゲーム」のルールが、変わってしまっているということです。

権威を捨てた後に、何をすればいいのか

問題は、その先にあります。

権威性のゲームではないと気づいた教師が増えています。けれども、「権威を振りかざしてはいけない」と分かった後、では自分は何をすればいいのか分からない、という状況に陥ることがあります。怒れない、厳しくできない、かといって従来の一方向の指導も受け入れられにくい。この現在地で立ち止まってしまっている教師が、決して少なくないのではないでしょうか。

さらに、職員室の中でも変化は起きています。かつての教育を支えてきた先輩方が若手にアドバイスしようとしても、今の正解と過去の正解が違ってしまっているために声をかけにくい。若手が自信を持ってやっていることが本当に正しいのかも、実はよく分からない。若手自身も、自分のやり方が正しいと言い切れるかどうか曖昧なままでいる。「世界はどうとでも説明できる」が誰にも分からない、という状況が、今の学校の現場で本当に繰り広げられていると感じます。

そこに登場してきたのが、自由進度学習という考え方です。しかし、ここに大きな落とし穴があります。

自由進度学習やけテぶれを「逃げ道」にしてはいけない

自由進度学習は、今の学校現場にとって「相性のいい言葉」として受け取られている側面があります。「子どもを信じる」「子どもに任せる」「強く指導しない」──こうした言葉は、指導のしにくさや立ち振る舞いの窮屈さを感じている教師にとって、ある種の安堵をもたらします。「自由進度と言えば、何もしないことが正当化される」という感覚で取り入れられているケースも、残念ながらあるのではないでしょうか。

けテぶれも、同じ危機から免れることができません。「けテぶれを導入しさえすれば、子どもが勝手に勉強するのだから指導はしなくていい」という理解は、典型的な誤読です。

権威性のゲームを放棄した後、何をすべきか分からなくなった教師が、けテぶれや自由進度を「何もしないことの肯定」として使う。それが「近所の優しいおじさん化」と言える状態です。つながりはあるが専門性はない、穏やかだが何かを鍛えているわけではない。その状態が静かに広がっているとすれば、問い直さなければなりません。

学校は、子どもに何かを教え、学ばせ、鍛えるための場です。 その前提を外してしまえば、学校そのものの存在意義が問われることになります。「ただ預かればいい」という機能だけが残るのであれば、それで本当によいのか。そこは踏み外してはいけない一線です。

教師の新しい専門性──「学びの専門家」として立つ

では、権威でも放任でもない教師の活路はどこにあるのか。

注目したいのが、中教審の資料でも言及されている「教師の研究三位一体」という概念です。教師が研究する者・実践する者・学ぶ者として一体的に自らを捉え直す考え方であり、その方向が指し示すのは「学ぶという行為に詳しい人」としての教師像です。学び方について詳しい人、考え方について詳しい人、自分自身に向き合って自分を動かす方法に詳しい人──それが、これからの教師に求められる専門性の核心ではないかと考えます。

教師の研究三位一体
教師の研究三位一体

ここで、一つ明確にしておきたいことがあります。教科知識が不要になるという話では、まったくありません。 国語・算数・理科・社会の知識は、前提中の前提です。教科書レベルの知識が頭に入っていること、その教科の学びをひとつながりのものとして捉えていること──これなくして、学び方の専門家にはなれません。難しい仕事になってきているというのはまさにここで、教科書を教えることがゴールという認識では立ち行かなくなってきているのです。

その前提の上に、さらに「学びをいかに積み上げるか」という方法論・技術論への深い造詣が加わる。学び方の見方・考え方と知識技能を備えた教師が、目の前の子どもたちから「先生の言っていることは受け取る価値がある」という納得を得られるとき、そこに本当の意味での承認が生まれます。

自由度を上げる理由は「流行」ではなく「獲得」のため

「学び方を学ぶ」ための専門性を備えた教師が実践を展開しようとするとき、必然的に子どもたちに学びを任せる場面が増えます。なぜなら、子どもたちが自分で学んでみるという経験なくして、自ら学ぶ力は育たないからです。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

学びに向かう力は、今や評価の対象となっています。評価するためには指導しなければならない。指導するためには、子どもたちが実際にやってみる場面が必要です。だから、自由度は上げざるを得ない。これが、学習力の獲得を目指す実践における、自由度上昇の論拠です。

「子どもを縛るのは良くないから自由にする」「流行だから自由進度を取り入れる」ではありません。子どもが自ら学ぶ経験を積み重ねる中で学習力が身につく。その文脈において、信じて、任せて、認めるというスタンスが意味を持つのです。任せることは放任ではなく、学びの場を整えながら子どもの主体性を引き出すための、専門的な行為です。

単線型から複線型へ──持続可能な職業観の転換

全授業を教師がデザインし、チョーク&トークで子どもたちを毎日引き上げ、集団を走り切る──これが、単線型の授業における従来の職業観でした。しかしこれは、今の社会状況の中ではほぼ不可能に近い。教室という構造的支援があったからこそ「なんとなく成立していた」だけで、冷静に見れば非常に難しいことだったのです。

では、良い教師のコアにあるものは変わるのか。そうではないと思います。良い指導者の本質的な資質は、今も昔も変わらないのではないか。変わるのは、それを表現する形です。

教員歴20年を超えるベテランの先生が、自らの指導に自信を持ちながらも、けテぶれ的な学びを展開した時に「明らかにこういう形で学習させた方が力がつく」という実感を持ったという声があります。それだけの指導力を持つ先生でも、表現形式を変えることでさらに場の質が高まると感じた。良い教師の良さを最も発揮できるフィールドとして、複線型の授業が機能し得るという考え方が、ここに宿っています。

子どもたちを1から10まで統制して走り切る職業観から、子どもたちの主体性の波を乗りこなしながら、そのベクトルを少しずつ良い方向に向けていく職業観へ。主役は子どもたちであり、教師は一人ひとりの波を見極めながら集団の場を整えていく存在になっていく。このシフトは、持続可能性という観点でも、1年を完走できる確率という観点でも、現実的な選択肢として見えてきます。

公教育の自由進度学習という軸足の移動

これが、「公教育の自由進度学習」という考え方の本質だと思っています。今までの軸足から次の軸足へ移るということは、ゲームのルールを変えることです。

権威性のゲームではなく、学び方の見方・考え方を子どもたちと共に深める専門家としてのゲームへ。疑い、管理し、否定するのではなく、信じて、任せて、認めながら伴走するゲームへ。集団をまとめて引き上げる単線型だけでなく、それぞれの学びに寄り添う複線型も選択できるゲームへ。

そのベーシックな指導のあり方を変えていくことが、今の公教育への提案として立ち上がっています。けテぶれも自由進度学習も、こうした論理の中に位置づけたとき、初めてその意味が正確に受け取れると思います。

権威を手放した後に何をすべきか、その現在地で立ち止まっている先生方にとって、「学びの専門家」という軸足は、一つの確かな手がかりになるのではないでしょうか。教科知識という前提の上に、学び方の専門性を積み上げること。それが、これからの教師としての活路です。

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