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自由進度学習の始め方と、教師に求められる自然な人間性

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自由進度学習は、150年間積み上げられてきた系統主義の教育や教材研究・指導技術を捨てることではなく、それらを土台にして「教師が握ってきたものを子どもに渡す」実践です。一斉指導の技術はあって損はないものの、それより先に必要なのは、自分で学ぶ価値を教師が自分の言葉で語れること。そして、その語りが子どもに響くのは文脈が熟した瞬間です。さらに、教師の人間性は特定のパーソナリティを演じることではなく、仮面をかぶらず自然体でいること。子どもと良い関係を築きたいという願いが、仕事の土台になります。けテぶれQNKSのような汎用的な学び方を全教科に通すことで、偶発的な学習転移に頼らない構造が生まれます。

なぜ自由進度学習へ踏み出せないのか

自由進度学習への移行を考えているのに、なかなか踏み出せないという現場の感覚があります。これをうまく表す比喩があります——「右足をちょんちょんしている」状態、というものです。

系統主義という安定した左足に重心を置いたまま、経験主義という右足を地面にそっとふれてみる。でも体重がかからない。なぜかといえば、右足側に地盤がないからです。踏み出せばそこに沈んでしまう、「活動はあるけれど学びがない」状態になってしまうことが見えている。だから踏み出せないのです。

これは決して勇気がないのではありません。現場の眼には、確かにそのリスクが映っています。足場・土台がないまま勢いよく踏み出せば、子どもたちは活動に流れるだけになってしまう——そういう現実的な懸念を持っているからこそ、ちょんちょんしたままで終わっている状態です。

では、どうすればその右足に体重を乗せられるのか。その答えが、系統主義の側に積み上げられてきたものを正当に「踏まえる」ことにあります。

自由進度学習への移行とは、今までの教育を捨てることではなく、150年間の蓄積を踏まえた上で次へ歩み出すことです。

左足である系統主義の蓄積は、全く無駄ではありません。その中で、子どもたちに深い学びをもたらすために教科世界を分解し、再構築し、分かりやすく整えてきたノウハウが蓄積されてきました。それが結実しているのが教科書です。日本の教育が150年間積み上げてきたものが、教科書にほぼすべて詰まっていると言えます。

けテぶれとQNKSをボタンとして、自分の学びをコントロールする構造を示す図
けテぶれとQNKSをボタンとして、自分の学びをコントロールする構造を示す図

教師が握ってきたものを子どもに渡す

150年間の蓄積を踏まえた上で、自由進度学習の合言葉があります。それは「今まで教師がやってきたことを子どもたちに渡す」ということです。

教科書を教師が握っている場合ではない、子どもたちに渡しましょう——というのが、その合言葉の核心です。教科書の中に詰まった教材研究の集積も、指導技術も、それらを教師が独占して使うのではなく、子どもたちが見て使える形で提示していく。そうすることで初めて、150年間の蓄積の上に次の世界を築くことができます。

教材研究的な知識集積だけではありません。先人たちが築いてきた指導技術の蓄積も膨大にあります。こうした蓄積を背景・足場として、子どもが使える形に変換していくことが、自由進度学習の実質的な一歩です。

「教師がやってきたことを子どもに渡す」という合言葉を軸に据えることで、従来の教育技術は否定すべき障害ではなく、次の実践を支える土台に変わります。

なお、自由進度学習は「放任」ではありません。必要な時の一斉指導はもちろん必要です。自由進度の場においても、「自由に学びを進めるスタイル」を全員に共有する場面はあり、それは一種の一斉指導的な側面を持っています。自由に進めましょうというスタイルそのものを一斉に共有するわけですから、一斉指導と自由進度は切り離せるものではありません。任せっぱなしにするということとは、全く異なります。

努力と自律、信じて思いやることなど心の状態を整理する心マトリクスの図
努力と自律、信じて思いやることなど心の状態を整理する心マトリクスの図

小手先の技術より先に必要な語り

一斉指導の技術——発問の工夫、板書の整え方、意見のつなぎ方——は、あって全然損はありません。使えるものは存分に使えばよい。しかしその前に、もっと根本的に必要なものがあります。

それは「語り」です。

どうやって教えるかという手法の前に、「何を信じているか」「それをどこまで自分の言葉で語れるか」が、まずもって大切です。

自分で学ぶことの価値を、どれだけ自分の頭の中で構造化し、言語化できているか。これが語りの源泉になります。板書がきれいにできるに越したことはないし、発問も子どもたちと対話的に進めながらメッセージを伝える技術があれば存分に活かせばよい。ただ、それはあくまでも「語りを届けるための手段」であり、先に来るものではありません。

ただし、いくら語る内容が準備されていても、文脈なしにいきなり語っても響きません。朝の会の冒頭から何の脈絡もなく「自分で学ぶことの大切さ」を語っても、子どもたちの心には届きにくいのです。

語りが響くのは、子どもたちの文脈が熟した瞬間です。けテぶれなどを実践していると、子どもたちが迷う瞬間があります。サボる瞬間があります。そして大成功する瞬間もある。悔しがる瞬間もある。子どもたちの振動数が高まっているその瞬間に、こちらも同じ熱量で語ることで、はじめてメッセージが届くわけです。この瞬間の見極めが、語りの実践における大切な眼目です。

子どもが大成功したとき、「すごい」「よく頑張ったね」だけで終わらせないことが大切です。その子の学びの何がどのように素晴らしいのか、どういう文脈の中でそれが生まれてきたのか、そして人生の構造上どのような意義があるのかまで、その瞬間に熱く語る。子どもが熱くなっている瞬間に、こちらも熱くなる——この温度の一致が、語りを届ける核心です。失敗して悔しがっているときも同様で、その悔しさの意味をきちんと受け取って語ることが、子どもたちの自立への歩みを支えます。

そのために必要な準備があります。自分の頭の中に、「自分で学ぶ価値」というロジックを、あらゆるパターンで言語化しておくことです。その瞬間が来たときに大量に語れるくらいの準備をしておく。一斉指導のスキルより以前に、思想としての語りの蓄積こそが、自由進度学習を支える基盤になります。

けテぶれシートのテンプレート例
けテぶれシートのテンプレート例

教師に求められる人間性とは何か

語りを届ける自分とはどういう存在なのか——この問いが、教師の人間性の話につながります。

まず前提として、教師としての基本があります。心マトリクスで言えば「いい・悪い」のベクトル、つまり「自分に熱く努力すること」と「人に優しくすること」の二軸です。これは当たり前のように聞こえますが、当たり前だからこそ外してはいけない。この土台は、教師として働いている限り、ほぼクリアできているはずです。ですからまず、そこはクリアされているという前提で次へ進んでよいと言えます。

大切なのはその先——教師が仮面をかぶりすぎず、自然体でいることです。

教師という役割を過度に演じようとすると、仮面をかぶった自分が教室に立つことになります。しかし教師が仮面をかぶると、子どもたちも仮面をかぶります。これは連鎖として出ていくものです。

たとえば、家族といるときの自分と教室にいるときの自分がほとんど変わらない——そういう感覚があります。クラスの子どもたちが家族の中に入ってきても、全く同じ雰囲気で過ごせるくらい、仮面のない状態で関わっていく。これが安心感につながり、温かく響き合える関係の土台になります。

思っていないことを変に言わない、思っているなら言う。ただし人と人との自然な関係の中での配慮や調整はもちろんします。「言うべきではないかな」と判断して言わないでおくことも自分であり、それは仮面ではなく自然な人間の調整です。そこに「教師だから」「相手は子どもだから」というフィルターを挟みすぎないこと——そこが自然体の実質です。深い腹の底で信じていることと、表面に出てくる言葉・感情・表情がなるべく同期するような関係を、子どもたちとつくっていく。それが温かな響き合いの土台です。

また、「俺って最高だろ」「私って最高でしょ」と自然に言える大人が目の前にいることは、子どもたちにとっての安心感につながります。自分を卑下し続ける大人が1年間目の前にいると、それはテンションが下がります。心マトリクス上の努力・優しさという根本が満たされていれば、あとは自分らしくあることが、子どもたちへの最大の贈り物になるわけです。

そして人間性の根っこには、願いがあります。子どもと良い関係を築きたいとずっと願い続けること——話しかけられたら手を止めて聞く、遊びに誘われたら断らない、一緒に笑う、笑顔でいる、我が子のように愛する——こういったことが仕事の土台です。子どもと一緒に笑うことが仕事として大切だということ、それは本当に豊かな仕事だと言えます。

全教科に汎用的な学び方を通す

けテぶれやQNKSのような汎用的な学び方を手渡し、各教科はそれを試す「フィールド」にする——この構造が、小学校における学習転移の現実的な解決策です。

ある教科で身につけた見方・考え方・学び方を、別の教科でも使ってほしいと願っても、自然な学習転移はほとんど起こりません。これは「ほぼ無理」と言われるほど難しいことです。偶発的に起こることはあっても、それを意図的に全員に対してもたらそうとするのは、構造上困難だということが指摘されています。

文脈を拡大して「何を教えるのか」を問い直すことが必要です。けテぶれを教えて、それをやってみる場として算数があり、社会があるという構造をつくることで、教科横断的な学びが意図的に設計できます。

今まで教育界には、けテぶれのような汎用的なスキルを渡して全教科で試すというアプローチと、各教科の見方・考え方を獲得させて文脈を拡張するというアプローチの、どちらを選ぶかという選択肢すら存在しませんでした。汎用的な学び方が言語化・構造化されていなかったために、選択そのものができなかったのです。今、その選択肢が示され、実践した教師たちも増えてきています。

教材研究をしっかりやってきた過去が「小手先だったかもしれない」と感じたとしても、その蓄積は無駄ではありません。それを踏まえ、乗り越えることが次の一歩です。10年間やってきた教材研究や一斉指導の積み重ねは、自由進度学習へ移行する際の背景になり、その先の一歩を支える土台になります。

道徳教育も同じ構造を持っています。核となる道徳の授業と、全教育活動での実践という二重の構造があり、全教科が同じ方向を向くことで、統合的な学びが保証されます。汎用的な学び方を全教科に通すという考え方は、この構造と通じるものがあります。どの教科でも「自分で学ぶ」という方向を共有することで、教育全体の一貫性が生まれてくるのです。

けテぶれシートと大計画シートの保管例

実際にけテぶれシート大計画シートをどのように管理するか、一つの実践例を紹介します。ただし、これは唯一の正解ではありません。それぞれの学級のリズムや子どもたちの使いやすさに合わせて、柔軟に工夫していただければよいものです。

けテぶれシートについては、全シートを1ファイルにためるというやり方があります。膨大な量になりますが、全部まとめておく。大分析の際には、算数なら算数で書いたシートをまとめて取り出し、そこから分析する——そういう形で整理していくわけです。大分析のたびにちょっとずつ整理しながら使っていく形式です。

大計画シートは、導入当初は教科ごとにファイルを分けるというやり方があります。算数の大計画シートのファイル、国語の大計画シートのファイル、というように管理する形です。実践が進むと、けテぶれノートという形に移行することもあります。けテぶれシートでやってきたことをノートで行うようにまとめていくスタイルで、シートとノートの違いや位置づけについても実践の中で少しずつ整理されていきます。

大切なのは、大分析の時に必要なシートを取り出せる状態を作っておくことです。ファイル化の具体的な方法はさまざまですが、どの方法が正解ということではなく、実践の中で自分なりの工夫を重ねていただければと思います。

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