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自由進度学習を任せっぱなしにしないための土台

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自由進度学習は「子どもに任せる」ことを称揚する実践ではありません。むしろ、「任せるために何を系統的に教えるか」を問い直す実践です。経験主義・系統主義という古い二項対立を超え、経験的に学ばせながら学び方を系統的に渡すという構造こそが、今の自由進度学習をかつての失敗から区別するものです。その構造はピラミッドとして理解できます。教材の世界という第一層の下に学び方・考え方(けテぶれ・QNKS)が、その下に心マトリクスによる良さ悪さの共通言語が、さらにその下に自己探究があります。そして土台として、教師の人間性という前提が静かに存在しています。

「任せる」と「教えない」は違う

自由進度学習がなぜ今注目されているのかを理解するには、日本の教育がたどってきた歴史的な文脈から始める必要があります。大きな流れとして、系統主義と経験主義という二つの立場の対立があります。

系統主義は、子どもたちに系統的に知識や技能を教えていく立場です。これに対して経験主義は、教え込み・詰め込みばかりでは子どもたちの主体性が縮んでしまうから、豊かな実体験や活動を通じて学ばせるべきという立場です。しかし経験的な活動を中心にすると、今度は「活動あって学び無し」という問題が生まれます。かつての総合学習や生活科でも、この失敗は繰り返されてきました。

ここで注意したいのは、日本の教育がこのシーソーを5対5で行き来してきたわけではないという点です。基本は系統主義に軸足を置いたまま、経験主義に片足を踏み出してはまた引き戻す、という動きを繰り返してきました。今また、「任せましょう」という流れが来ている。しかし「任せれば深く学べる」という発想のままでは、前回と同じ轍を踏みます

今回の自由進度学習が前回の失敗と本質的に違うとすれば、それは「任せるために教えなければならないことを、ちゃんと教える」という視点の存在です。任せるとは教えないことではありません。任せるという学びの場を成り立たせるために、何を構造化して手渡すかを知的に考えることが求められます。

系統主義的に教えるのか、経験主義的に任せるのかという二項対立で捉えてしまうと、結局前に進みません。 どちらかを選ぶのではなく、経験的に学ばせながら、学び方・考え方は系統的に渡す。この両立こそが問われています。ある校長先生が「今回は私たちにはけテぶれがある」と語っていたことが、この違いを端的に表しています。けテぶれがあるから前回とは違う、という直感は正しい。ただ、それはけテぶれが「新しいツール」だからではなく、自由進度学習という場を支える学び方・考え方の共通基盤として機能しうるからです。

「何ができるようになるか」を保証する ── やってみる場の必然性

任せる理由は、主体性の縮みを防ぐためだけではありません。もっと構造的な必然性があります。

今次の学習指導要領が目指す「何ができるようになるか」という問いは、三つの柱から成っています。生きて働く知識技能、未知の状況に対応できる思考判断表現、そして学びに向かう力・人間性です。

主体的対話的で深い学び
主体的対話的で深い学び

この三本柱のうち、特に「思考判断表現」について考えてみましょう。未知の状況において思考し、判断し、表現する力を育てるためには、子どもたちが日常的に「未知の状況」に出会う必要があります。教科書を自分で開いて、わからない問題に出会い、それに自分なりに向き合う。それが「未知の状況における思考判断表現」の日々の積み重ねです。教師があらかじめ全て解説してしまえば、子どもたちは未知に出会う機会を失います。

英語教育の例が分かりやすいでしょう。何年も文法や単語を学んでも英語が話せないのは、「やってみる」フィールドがほぼ用意されていないからです。一方、数ヶ月の留学で話せるようになる人がいるのは、やってみる場に継続的に身を置いているからです。「やってみる」場がなければ、「できる」は育ちません。 知識を「知っている」状態と「使える・できる」状態の間には、やってみるという経験の積み重ねがあります。

社会の授業で資料を使って歴史的な因果関係を考察する、算数の問題に自分なりの方法で取り組む──どの教科においても、やってみる場をいかに日常的に用意するかが問われます。だから教科の学びは任せましょう、ということになります。ただし、それは「子どもに好き勝手させる」ことではなく、教科書という枠組みの中で、単元の配当時間という制約の中で、「未知に出会い、思考判断表現する」日常を作るということです。

小学校教師だからこそ渡せるもの ── 全教科に通用する学び方・考え方

「やってみる場を作る」という方針は分かった。では教師は何をすればよいのか。ここで、小学校という教育段階の固有性が大きな意味を持ちます。

小学校では、担任教師が全ての教科を教えます。これは負担であると同時に、かけがえない強みでもあります。全教科を担うということは、教科の壁を越えて、「どの教科にも通用する学び方・考え方」を渡せる立場に立っているということだからです。

中学校以降は教科担任制になり、それぞれの教師が専門教科の文脈で「この教科における考え方」を渡すことになります。理科なら仮説・実験・観察・考察のサイクル、国語なら読み解きと表現の往還など、それぞれの教科にふさわしい形があります。こうした教科固有のサイクルは、各教科の専門性に応じた領域特化の力です。しかし小学校段階では、教科固有の内容を超えて、「どの教科においても共通して機能する学び方・考え方」を渡すことができる。それが小学校教師の役割の核心です。

その共通の土台として機能するのが、けテぶれとQNKSです。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

けテぶれ(計画・テスト・分析・練習)は、子どもが自分で学習のサイクルを回すための手続きです。QNKSは、問いを立て、知り、組み立て、整理するという思考の枠組みです。この二つは「右足と左足」の関係にあります。やってみること(けテぶれ)と考えること(QNKS)を交互に踏み出しながら、子どもは学びを深めていきます。

これは単なる学習テクニックの話ではありません。教師がこれまで自分一人でやってきた「教材研究」のプロセス──わからないことに出会い、調べ、考え、試して整理する──を、子ども自身に渡すための仕組みです。教師が事前に考え抜いた結果だけを渡すのではなく、そのプロセス自体を構造化して子どもに手渡す。これが「学び方・考え方を渡す」ということの実態です。

「全教科に通用する考え方をスキルとして構造化し、子どもに渡す」という発想は、教育学の学習科学という領域では研究されています。しかしそれが小学生に受け取れる形で構造化されてはこなかった。けテぶれとQNKSは、この空白を埋めようとする試みです。

自由を渡すとき、露出してくるもの ── 心マトリクスの役割

学び方・考え方を手渡し、子どもたちが自由に学ぶ場が立ち上がると、次に別の問題が前景化してきます。それは、良さ悪さという人間性の問題です。

教師が全てをコントロールし、子どもたちが座って話を聞くだけの空間では、この問題はほぼ見えません。本当はそこにも存在しているのですが、隠れてしまっています。ところが自由な空間では、子どもそれぞれの本性が露出してきます。意欲的に取り組む子もいれば、逃げる子もいる。そのとき「何が良くて何が悪いのか」についての共通言語がなければ、自由な学びの場は混乱に傾きます。

「学び方なんていろいろある」と言い合うだけでは、一年間かけても深まりません。「良さっていうのはこういう目線で見よう」という共通の土台があってこそ、子どもたちは同じ言葉を使って考え合い、互いの学びを豊かにしていけます。共通言語がなければ、自由な空間で生まれる摩擦を成長の材料にすることができません。

ここで心マトリクスが必要になります。心マトリクスは、自分たちの良さ悪さを「太陽(好き)・月・星・地球」などの軸で見るための共通の認知地図です。これは道徳的な善悪の判定表でも、性格評価の基準でもありません。自由な学びの場において、子どもたちが自分の状態や行動を見つめ、語り合うための共通言語です。この地図を全員が持つことで、自由な空間においても良さを育て合い、悪さを振り返り合う対話が可能になります。

ピラミッドの構造として見ると、「教材を任せる」と「学び方が問題になる」、「学び方を渡す」と「良さ悪さが問題になる」という連鎖があります。 一段下ろすたびに、次の課題が現れます。だから先にその準備をしておかなければ、自由な場を作っても成り立たない。心マトリクスを渡しておくことで、自由な学びの中で出てくる人間的な問いを、学びの深まりへとつなげていくことができます。

足跡としてのノート ── 自己省察から自己探究へ

心マトリクスを手渡したとき、その土台に何があるかが次の問いになります。それは、子ども自身という存在です。

シコウの木
シコウの木

自分が今どこにいるか、自分はどういう学び手なのかが見えなければ、心マトリクスも機能しません。良さ悪さを判断する「地図の読み手」自身を育てることが必要です。そのための手段として大きな意味を持つのが、ノートに書くという行為です。

ノートに書くことは、単なる記録ではありません。書くことは「学びの足跡を残すこと」です。そしてその足跡にこそ、書き手自身が映ります。歩んだ道を振り返り、自分の足跡の歩幅や軌道を見ることで、「自分はどういう道を歩んできたのか」「どんな問いに惹かれ、どんな場面でつまずいてきたのか」が見えてくる。これが自己省察の本質です。

けテぶれの「分析」やQNKSの「整理」は、この意味において単なる学習の後処理ではありません。右足けテぶれ・左足QNKSという往還を繰り返すことで、子ども自身の学び方の癖や傾向が、その足跡の中に刻まれていきます。

自己省察は、自己探究への入り口です。自分の足跡を繰り返し眺めることで、「自分はどんな問いに引き寄せられるのか」「自分が動き出すのはどんなときか」という問いへと自然につながっていきます。学びの記録を振り返ることは、学び方を点検することを超えて、自分という存在を見つめることへとつながります。

深い願いへ ── 自由進度学習の最終地点

自己探究の核心は、「あなたは何を願っている存在なのか」という問いです。

AIが暮らしの多くを担う社会になれば、労働や収入の確保が今ほど中心的な問題でなくなる可能性があります。全てが与えられ、あらゆることが自由になったとき、人を動かすものは何か。外側から押し付けられた「やるべきこと」ではなく、自分の内側から湧く「深い願い」だけが、その人を動かす原動力になります。

これは未来の話だけではありません。今「やるべきこと」に押しつぶされている日常の中にも、同じ構造があります。本来あなたの人生というものは、あなたが望んで、あなたが実現したいものを実現していくことが根本にあるはずです。しかし自分の深い願いが見えていなければ、その構造にも気づけない。外側から押し付けられた他者の願いを実現するだけの道具になってしまう危険があります。

子どもたちに自由を渡すとは、その先でこの問いに出会わせることでもあります。「世界に一つだけの花」という問い、すなわち自分の深い願いとは何かを見つめることが、自由進度学習の最終地点につながります。そこまで見通したとき、人格の完成という教育の根本目的が、遠い理想ではなく、日々の実践の先に続くものとして見えてきます。

学び方・考え方(けテぶれ・QNKS)を渡し、良さ悪さの共通言語(心マトリクス)を渡し、足跡としてのノートを通じて自己省察を促し、その先に自己探究という問いを開く。この構造全体が、自由進度学習を「任せっぱなし」ではなく「任せきれる」実践として支えています。

土台にあるもの ── 「先生、あなたいい人ですか」

ここまで見てきたピラミッドの全体を支える、もう一つの前提があります。それは教師の人間性です。

「先生、あなたいい人ですか」という問いは、照れ笑いで済ませられるものではありません。子どもたち、特に小学生の年代において、「先生が好きか嫌いか」「この人は信頼できるか」という感情的な判断は、その後の学び全体の入り口になります。学び方や考え方をどれだけ丁寧に設計しても、その届け先である関係性が成り立っていなければ、何も伝わりません。

この問いを精神論で終わらせてはいけません。教師の人間性は、子どもが自由に学ぶ空間において、構造的な問題になります。教師がコントロールする授業ではほぼ見えなかった「先生への感情」が、自由な学びの場では前面に出てきます。どれほど優れた学び方の枠組みを渡しても、意地悪な雰囲気の中ではそれは機能しません。逆に、子どもたちが安心して「先生大好き」と言える空間では、けテぶれやQNKSを正式に教えるより前から、考えてみようとする気持ちが育っています。

ここが「学びに向かう力・人間性など」という三本柱の一角が示す意味です。賢くなることだけが目標ではなく、賢くていい人になってほしい。その「いい人」の部分は、まず目の前の教師という存在によって体現されることで、子どもたちに伝わっていきます。

実践を始めるにあたって

ここまでの論点を整理すると、自由進度学習を始めるうえで問い直すべきことが見えてきます。

  • 学び方・考え方(けテぶれ・QNKS)は、自由を渡す前に渡されているか。
  • 自由な場が立ち上がったとき、良さ悪さの共通言語(心マトリクス)は共有されているか。
  • ノートや振り返りは、子ども自身が「自分の足跡」として見るための場として機能しているか。
  • その先に、「あなたは何を願っている存在なのか」を問う機会が設けられているか。
  • そしてその全体を支える人間的な関係性は、日々の言動の中で育てられているか。

これらは一度に全て整えなければならないものではありません。どれが今の自分の実践に欠けているかを意識することで、「任せっぱなし」から「任せきれる」実践への道が開けていきます。

自由進度学習は流行のアプローチではなく、「子どもが学べる存在になるために何を手渡すか」を問い続ける営みです。系統主義でも経験主義でもなく、その両方を──経験的に学ばせながら、学び方を系統的に渡す──という構造を、小学校という場で実現しようとするものです。「今回は私たちにはけテぶれがある」という言葉が本当に生きるのは、このピラミッド全体を意識した上でけテぶれを渡すときです。

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