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自由を受け取る訓練としての教室

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2学期の金曜日5時間目、最低限の課題を終えた子どもたちに「あとは自由にしていい」と伝えたとき、教室に現れたのは混乱でも騒動でもありませんでした。読書、会話、トランプ、折り紙、算数の学習が静かに共存し、それぞれの選択が互いの選択を壊さないまま時間が流れていきました。この記事では、その景色が何であったのか、どのようにして成立したのか、そしてけテぶれ・QNKS・心マトリクスを積み上げてきた先にどんな姿が立ち現れ得るのかを考えます。

行事続きの2学期、金曜日の5時間目

2学期は行事が多い学校が多く、教師も子どもも慌ただしい日々が続きます。次はこの行事、またその次はあれ、と追い立てられるような毎日の中で、「ちゃんとしよう、頑張ろう」と言い続けていると、子どもたちはしんどい姿を教室で出せなくなっていきます。疲れていることを見せてはいけない、だらっとしている自分はダメだ——そういう空気が教室を覆いはじめたとき、学びの場としての安全さは少しずつ失われていきます。

そんなある金曜日の5時間目のことです。最低限の課題としてワークシートが1枚ありました。「これを今日中に終わらせようね。でも、それが終わったらあとは自由にしていていいよ。のんびり読書したり、友達とおしゃべりしたりする時間に使ってもいい」——この1週間頑張った、勉強の進み具合も順調、という子にはそう伝えました。心理的安全性という言葉がありますが、しんどい姿を出せる余白を意図的につくることが、長い2学期を乗り越えるための土台になります。

「自由」と言っただけで現れた景色

ワークシートを終えた子どもたちに自由な時間が渡されたとき、教室でいったい何が起きたでしょうか。

読書をしている子がいました。友達とおしゃべりをしている子がいました。トランプをしている子もいました。折り紙をしている子もいました。先生のところにだらっとしゃべりに来る子もいました。そして——算数の教科書とノートを開いて、自分から勉強し始める子もいました。

3年生、8〜9歳の子どもたちです。「自由にしていい」とひと言言っただけで、暴れる子はゼロ。大声を出す子もゼロ。バカ騒ぎをする子もゼロ。それぞれが思い思いのことをしながら、他の誰かの選択を壊すことなく時間が流れていきました。

やるべきことと、やりたいことと、努力することと、休憩することが混ざり合う空間。 それが5時間目の教室に、ふわっと現れていました。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、子どもたちが学びの主導権を自分の手で持てるようになるための道具です。この3つの道具を積み上げた先に、何を指示されなくても自分の時間を豊かに使える状態が生まれてくる——今日の5時間目は、まさにその一端が立ち現れた瞬間でした。

自由とは、やりたい放題ではない

「自由にしていいよ」と言ったとき、子どもたちが自然に理解していたことがあります。自由とは、やりたい放題ではないということです。

私の自由が、あなたの自由を邪魔しないようにする。あなたの自由も、私の自由を邪魔していない。——そのような相互承認の感覚が、全員の中で静かに働いていました。

たとえばトランプで勝ったとき、嬉しくて思わず叫びたくなる気持ちはあるでしょう。でも大声でわーっと叫べば、読書している子の集中が壊れる。折り紙に没頭している子の静かな時間が壊れる。だからそれをしない——それは「禁止だから」という抑圧の感覚ではなく、「みんなで豊かな時間を過ごしているんだから、この空間を壊したくない」という、前向きで自然な感覚から来ていました。

自分のコントロールが全員に効いている状態。それは「管理されている」のとはまったく違います。外から押さえ込まれるのではなく、自分の内側から選択している。この自律の感覚こそが、今日の教室空間を支えていました。

「算数が苦手な子」が自分で開いた教科書

今日の5時間目でとりわけ印象的だったのが、算数に苦手意識を持つ子の姿でした。

その子は、コンパスの学習が中途半端なところで終わっていました。自由な時間になると、ワークシートを終えた後で、算数の教科書とノートを自分で開きはじめました。「分かんない、できない、コンパス難しい」と言い続けていた子が、誰に言われるでもなく、自分の判断で学び始めたのです。そこに何人かが集まってきて、一緒に勉強する姿になっていきました。

「自由」と言われたとき、子どもの中に「努力する」という選択肢が生まれていたということです。 これは決して些細なことではありません。課題がなく、テストもなく、評価もない時間に、自分から学ぶ選択をする——それこそが、自立した学習者の姿の一つだといえます。

同時に、だらっと先生のところにおしゃべりに来る子もいました。トランプに夢中な子もいました。この姿も、同じように大切です。休むこと、遊ぶこと、誰かと話すことも、子どもが自分の状況を見て選んだ立派な選択です。休憩やゆっくり過ごす姿は、学びの失敗でも時間の無駄でもありません。それもまた「自分の状態を読んで、今の自分に必要なことを選ぶ」という力の現れです。

やってみる⇆考える(学ぶ)
やってみる⇆考える(学ぶ)

遊んだり、学んだり、休憩したり、努力したりという選択を、一人ひとりが自分でしている。他者の選択を尊重しながら、自分の選択を自分の手でする。これはまさに、主体的に生きるということの学習空間版です。

自由を渡せるのは、半年間の積み上げがあるから

「自由にしていいよ」という一言で、なぜこれほど豊かな空間が生まれたのでしょうか。それは、一回の指示や一時の工夫でできたことではありません。

みんながずっと積み上げてきた歴史があります。人間関係があります。信頼関係があります。その上にこそ、今日のような空間は成立しています。

半年間、けテぶれで自分の学習を自分でコントロールする練習を重ねてきた。QNKSで自分の思考を自分で整える機会を積んできた。心マトリクスで自分の内側と向き合う時間をつくってきた。その積み重ねの上に、「自由を受け取る訓練」の場が成立するのです。

「信じて、任せて、認める」という言葉があります。 子どもたちを信じ、任せ、その姿を認め続けてきた時間が、今日の5時間目を可能にしていました。これはすぐに再現できるテクニックではありません。どの学級でも明日からそのままできるわけではなく、教室の文化として育てていくものです。

また、「自由進度学習」という言葉も最近よく聞くようになりましたが、進度だけが自由で、やるべきことは決まっている——それも子どもたちが自由を受け取る一つのステップです。しかし今日の5時間目に現れた姿は、それをさらに超えた先にあるものでした。何を学ぶか、遊ぶか、休むか、すべてを自分で決める。 進度だけでなく、時間の使い方そのものを自分で設計する力です。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスが目指す先

けテぶれ、QNKS、心マトリクス——これらの道具が目指している先は、テストで点数が取れる子どもを育てることではありません。子どもたち自身が、自分の学びを、自分の生活を、自分の人生を、自分で豊かにしていける力を育てることです。

何も指示されない時間が与えられたとき、その時間を自分で充実させられるかどうか。それが一つの「終着点の姿」として見えてきます。

選択肢が豊かに広がっていること。その選択肢同士が互いを邪魔しないで共存していること。誰の目も気にせず、関わりたいことに関わりながら過ごせること。でもその中に、なぜか一体感があること。みんなでこの自由を共有しているという意識が、言葉にされなくても全員にある——そんな空間が、学びの道具を積み上げた先に立ち現れ得ます。

体育館で同様の時間を渡したこともあります。教室とはまた違う姿が現れました。体を動かし、少し激しい動きになることもある。でもそこでも、自由を相互承認しながら自分たちで豊かな時間を過ごすことへのチャレンジが起きていました。場は変わっても、その根にある構造は同じです。

教師の語りが、その場を意味に変える

今日の5時間目は、最初から狙っていたわけではありませんでした。「しんどいから休んでもいいよ」という、いわばガス抜きのひと言から始まった時間です。それなのに、立ち現れてきた空間があまりにも豊かだった。

だからこそ、最後に語りました。「素敵なクラスになってきたね」と。

こういうことが人間社会で起これば本当に豊かだよね、こういうコミュニティをつくりたいよね、こういう過ごし方ができる人生はいいよね——そんな話を、子どもたちと一緒にしました。

教師の役割は、細かく命令することではありません。子どもたちが自分たちで立ち上げた豊かな空間を、社会や人生の豊かさへと接続して語ること——その語りが、その日の経験を単なる「自由な時間」で終わらせず、意味ある学びへと変えていきます。

読後に

この5時間目の話は、「こんなふうにやればうまくいく」という手順の話ではありません。半年間、子どもたちと関係をつくりながら、けテぶれやQNKS、心マトリクスを積み重ねた先に、ある日ふわっと現れた景色の話です。

学ぶ・遊ぶ・休む・努力するを自分で配置し、他者の選択を尊重しながら過ごす。そういう力が子どもたちの中に育まれていると感じられたとき、教室は静かに豊かな場になります。その豊かさに気づき、言葉にして届ける——それが、教師としての仕事の一つの姿なのかもしれません。

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