授業がうまくいったとき、多くの教師は達成感を覚えます。しかし同じ経験をしても、満足してそのまま進む教師と、深い違和感を抱いて立ち止まる教師がいます。その分かれ道は、「子どもにとって本質的な学びとは何か」を問い直せるかどうかにあります。本記事では、ある研修での対話を起点に、一斉授業が持つ構造的な問題、初任期の違和感が持つ意味、そして子ども主体の学びを成立させるために何が必要かを考えていきます。
授業の成功後に残った違和感
ある地域での研修に伺ったとき、担任教師と給食を一緒に食べながら、じっくり話す時間を持ちました。その先生の教室には、子ども主体の学びに関する掲示物がたくさん貼られており、どのような経緯でその教育観に至ったのかを聞かせてもらいました。
その先生は、学校全体で教育観をアップデートしていこうとしておられ、周囲を巻き込みながら実践を広げようとしているなかでの難しさも共有してくれました。風通しのよい学校で、多くの先生がいろんなチャレンジをしているなかで、それでも広げることの難しさがある、という率直な話でした。
そのなかで印象に残ったエピソードがあります。6年生の国語で、宮沢賢治の「やまなし」を扱った研究授業のことです。教材研究を徹底し、発問を練り上げ、子どもたちの発表も含めて入念に準備したその授業は、構想していた通りに進んだといいます。「100点の授業ができた」と感じられるほど完成度の高い実践だったと。
ところが、その授業の後に残ったのは達成感だけではありませんでした。「教師が全部デザインしてしまって、そこに子どもたちを投入し、楽しませる構造を必死に作って、満足させている」という構造への、強い違和感だったといいます。
その先生はその後、子ども主体の学びに熱心に取り組む別の地域の教師との出会いを経て、実践を深めていきます。その教師との対話を通じて、けテぶれの入門書を紹介してもらったことが、具体的な実践への入口になったということでした。
話を聞きながら、こんなことを考えました。同じ「100点の授業ができた」という結果を受けても、「私はここまでのことができるようになった。このまま研鑽を積んで、さらに素晴らしい授業を目指そう」と大きな満足を得て進んでいく教師も、当然いるはずです。どちらが正しい、間違いというわけではありません。ただ、同じ経験を目の前にしても、そこに違和感を持って立ち止まれるかどうかが、大きな分かれ道になるということです。
では、その違和感はどこから生まれるのでしょうか。それは「学びとは何か」「子どもが学ぶとはどういうことか」という本質への眼差しを、どれだけ大切にし続けているかによって変わってくる、と感じます。そしてその眼差しを持ち続けることは、日常の忙しさや慣れの積み重ねによって、少しずつ難しくなっていくものでもあります。
一斉授業が抱える構造的な限界
今回の研修でお会いした、小学校2年生の算数を担当している初任の先生が、こんな話をしてくれました。一斉授業で学習を進めるなかで、もっとできる子どもを待たせてしまっていることに強い違和感を感じたと。それが、自由進度的な授業に挑戦してみようと思った動機だったというのです。
これは、一斉授業が持つ構造的な問題そのものです。授業のペースが遅すぎて、本来もっと伸びられるのに待たざるを得ない子ども(いわゆる「吹きこぼれ」)と、反対に授業についていけない子ども(「落ちこぼれ」)が、同じ教室の中に同時に存在しています。そしてこの両側を合わせると、半数を超えるとも言われています。
これは教師個人の力量の問題ではなく、一斉授業という構造そのものが持つ問題です。
どのペースに合わせても、同じことが起きます。上位層に合わせれば、中位・下位の子どもが取りこぼされる。中位層に合わせれば、上と下の両方がフィットしない。下位層に合わせれば、中位・上位の子どもが退屈する。どこに合わせても、半分以上の子どもにとってその授業は「合っていない」状態になる。これは少し考えれば分かることであり、やり方の工夫で解決できる問題ではなく、構造上そうなるように決まっているのです。

それでも私たちは、教材の工夫や発問の洗練で何とかしようとしてきました。1年間、200日、1000時間、その努力を重ねてきた先人たちがいます。もちろん、そうした積み上げには大きな意義があります。しかし、問題の根がどこにあるかを見極めずにいると、どれだけやり方を磨いても、構造的なズレそのものは埋まりません。土台そのものがずれているなら、まずそこから降りる必要があるということです。

先人の努力を踏まえて更新する
こう書くと、「では過去の教材研究や発問研究は意味がなかったのか」という声が出るかもしれません。しかし、そうは考えていません。先人の努力は踏まえたうえで、現代の子どもと学びに合うよう構造を更新していくことが求められているのです。踏まえることと、更新することは、矛盾しません。
比喩として、こんなことを考えてみてください。1998年に登場したWindows 98は、当時のパソコン文化を大きく変えました。ウィンドウを切り替えて作業する、そのUIの概念を作り上げたのがこのOSであり、今日の操作環境にも引き継がれています。偉大な遺産です。
ただ、そのWindows 98を今の光回線につないで、Googleのトップページを表示しようとすると、すぐにフリーズするでしょう。それはWindows 98が悪いのではなく、時代に合わせたアップデートが必要だということです。Windows 98が築いてきた基本的な思想や積み上げを否定しているのではありません。同じパソコンのなかで同じアプリを動かすだけなら今でもできる。でも今の通信環境・今の使い方に合わせるには、更新が必要です。
教育においても同じことが言えます。教材研究や発問研究という積み上げの価値は否定しない。しかし、それを支える授業の構造そのものが現代の子どもの学びに合っているかどうかを問い直し、合っていないなら更新する。踏まえることと更新することを切り分けて考えることが、ここでは重要です。
そして、もう一つ考えさせられることがあります。冒頭でご紹介した先生が「やまなし」の授業で感じた違和感は、徹底的に理想を追いかけたからこそ生まれたものだったのではないか、ということです。適当に授業を流していたとすれば、その違和感はおそらく生まれなかった。完璧を目指した先にこそ、見えてくる景色があるということです。
教師主導の授業を極めた先に「これでいいのか」という問いが立ち上がったこと——それは、その先生が本気で子どもの学びと向き合ってきたからこそ届いた場所だと思います。
初任期の違和感を消さない
今回の研修でお会いした初任の先生に、こんな話をしました。「あなたが今感じている、上位層の子どもを待たせてしまっているという違和感。それは5年目から10年目にかけて、きれいさっぱり消えてしまうことが少なくない」と。
初任期の違和感は、未熟さの証ではありません。学びの本質を見る眼差しとして、何より大切にすべきものです。
私自身も1年目から、「子どもが主体で学ぶ教室を作りたい」という想いを持ち続けてきました。しかしその頃、先輩から「そんな夢物語は実現しない」「こちらがお膳立てしてあげるしかない」と言われることも多くありました。そうした環境のなかで自分の違和感を否定せずにいることは、決して簡単ではありません。
年数を重ねるなかで、そういう声をくり返し聞いていると、最初は持っていたはずの問いがいつの間にか消えていく。そういうことは、残念ながら珍しくありません。だからこそ、その違和感を今のうちに実践として形にすること、そういう方向へ努力のベクトルを向けていくことが大切です。
気づいた人から、思った人から変えていくしかない。それは今日に始まった話ではなく、いつの時代もそうでした。今この時代に、初任の段階から違和感を実践に変えようとしている先生が出てきていること——それは、とても希望の持てることだと思っています。
子どもに渡す言語とツール
実は、子ども主体の学びへの挑戦は、日本の教育史において今回が初めてではありません。自由進度的な学びへのチャレンジは、これが4度目と言われています。それぞれの時代に、違和感を持った実践者たちがいて、子ども主体の学びを実現しようとしてきた。教育の古典と呼ばれる著作にも、「子どもが主体的に学ぶことこそが本質だ」という指摘は繰り返されてきました。それでも、なかなか定着してこなかった。
なぜか。私が考える理由は、「学ぶってどういうことか」「考えるってどういうことか」を、子ども自身が扱えるような言語・ツール・合言葉が、これまで不足していたからではないかということです。
子ども主体の学びを実現しようとするとき、子ども自身がその学びを「操作できる」状態にある必要があります。教師が段取りをすべて引き受けるのではなく、子どもが自分の学びの見通しを持ち、試し、振り返れる仕組みが必要です。その仕組みが言語化されていなければ、子どもは自由にはなれません。自由になるためには、自由を支える土台が要ります。
けテぶれとQNKSは、その「学びを操作する力」を子ども自身に渡すための道具として設計されています。「計画して・やってみて・確かめて・練り直す」というサイクルを子ども自身が回せるようにする、その具体的な言葉と仕組みです。

過去の挑戦が発芽しきれなかった理由は、志の問題ではなかったと思います。土台の言語が整っていなかった。子どもに渡せるものがなかった。その不足を今この時代に埋めていくこと——それが、私がこの実践を通じて担いたいと考えていることです。
違和感を持った実践者たちが積み上げてきた問いに、ようやく具体的な答えを渡せるフェーズに来ていると感じています。
教師が授業実践のなかで感じる違和感は、否定すべき迷いではありません。それは、教育の構造的な問題を見抜き、子ども主体の学びへ向かうための、重要な分かれ道です。その感覚を大切に持ち続け、実践へと変えていく。気づいた人から、思った人から、変えていきましょう。