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けテぶれ・QNKSは、目の前の学びから生まれた

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けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、外部の教育理論を先に学んで教室に適用した結果ではありません。子どもたちの学びを毎時間観察し、自分の働きかけと照らし合わせ、「今の学びをどう説明するか」を問い続けた末に、言葉と図として結晶化したものです。多様な理論と後から照らすと整合するのは、どちらも「本物の学習者の観察」を起源にしているからです。そして葛原氏の言葉はあくまで枝葉であり、あなた自身の理論の幹は、あなたの教室を見ることからしか育ちません。

理論を先に持っていたわけではない

研修の場でよく問われることがあります。「どうやって、あれだけ多様な教育理論を統合したのですか」という問いです。先に様々な理論を読み込み、それを教室に適用していったのだろうと想像する人が多いようです。

しかし実際は、順序が逆でした。

大学・大学院での学びを通じて、教育学や哲学の知識はたしかに持っていました。東洋哲学や仏教思想への関心もあり、「考え方の枠組み」を読むことは習慣でした。しかし、それらの理論を「具現化しよう」と思って実践を構築したことは、ほとんどありませんでした。

出発点は常に、目の前の子どもたちでした。「自分で勉強できるはずだ」という直感。その直感を形にするために、学び方の仕組みと方法を手渡すことを繰り返す。そうしてできてきた実践の手応えと記録から、少しずつ言葉と図が生まれていきました。

「任せる」を本物にするために観察した

「自分で勉強できる子どもを育てる」という方針は、単に「任せる」だけでは成立しません。任せるからには、任せた結果が子どもの学力向上につながらなければ、「やっぱり教えた方がいい」という反論には答えられないのです。

だからこそ、葛原氏が選んだのは徹底的な観察と記録でした。

毎時間、誰と誰がどのように関わったかを振り返りシートで記録し、教えてあげた・教えてもらったという関係が「両思い」になっているか「片思い」になっているかを数値化していきました。Excelに二元表を作り、授業中の関わり合いの質と量を追い続けたのです。そしてその記録を、自分がその時間にかけた言葉・流れ・働きかけと照らし合わせる。「あの声がけをした後に関わりが増えた」「こういう場面設定では子どもたちが動かなかった」。こうした照合を繰り返すことで、より良い手立てとは何かを探っていきました。

漢字の小テストの点数も、同じように使いました。子どもに学習を任せるなら、その結果が出ていることが条件です。だから点数も、観察の一部として位置づけていたのです。

この省察的実践者としての習慣が、後のけテぶれ・QNKSの土台を育てました。子どもに学び方を学ばせるとは、仕組みを渡して終わりではなく、渡した手立てが結果につながるまで見届ける姿勢とセットなのだということが、この記録の営みから見えてきます。

「ブラックボックス」を開きたかった

観察を続ける中で、ひとつの強い動機が育っていきました。

「今、あなたたちの学びはどんな仕組みで動いているのかを、子どもたち自身に伝えたい」という気持ちです。学びをブラックボックスに閉じ込めることへの違和感、それが実践を言語化し図式化しようとする大きな駆動力でした。どんな思いで、どんな仕組みで、今この場で何が求められているのかを言語化し、子どもたちにも見える形にしたかったのです。

そのためには、「今の状態はこうだ」という現在地を示す語りが必要でした。そして、その語りを支える図式が求められるようになっていきました。

記録を振り返ると、2年目にはすでに「学習のルート」を示す図を作っていたといいます。1時間をどのように学べば賢くなれるのか、その流れを可視化する原型です。それがやがて、けテぶれマップへと育っていきました。さらにけテぶれとQNKS(初期にはNKSと呼んでいました)を統合した図も、「この学びをどう説明するか」という問いの積み重ねの中から形になっていきました。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

けテぶれとQNKSという二つの道具が一枚の図に収まるのは、それぞれを別々に設計したからではありません。子どもたちの学習空間を見続ける中で「この二つが両輪として動いている」という認識が先にあり、その認識を説明しようとして図が生まれたのです。学びのコントローラーとして機能する二つの仕組みが、実践の観察から輪郭を持っていきました。

カオスの中に「往還」を見た

低学年の教室は複雑です。子どもたちは同時多発的に動き、考え、試し、話し、立ち止まります。その混沌の中を正確に見ようとした時、一つの軸が浮かび上がってきました。

「この子たちは、考えることとやってみることの往還で日々動いているのではないか。」

やってみる⇆考える。この往還こそが、子どもたちの学びを前に進める核心だという認識です。

この認識は、「やってみる」「考える」という二項を設定してから教室に当てはめたものではありません。子どもたちの動きをデッサンするように正確に切り出そうとした結果、そのパターンが浮かび上がってきたのです。ピカソが正確なデッサンを土台にキュービズムを生み出したように、創造的な図式の背後には、目の前の現実を正確に描き出す力があります。その「デッサン力」が鋭かったからこそ、複雑な学習空間から中核となる構造を見抜けたのだといえます。

QNKSが「今やっていることをちゃんと明確に描き出す」という観察の方向性を持つのも、この流れから来ています。心マトリクスも、まったく同じプロセスで生まれました。外部概念を当てはめたのではなく、子どもたちの姿を見続ける中で輪郭が形になっていきました。

答え合わせとしての理論

こうして実践の中から言葉と図が育ったあと、改めて様々な教育理論や哲学と照らし合わせると、驚くほど整合していることに気づきます。学習指導要領とも、教育科学の知見とも、東洋哲学の枠組みとも。

しかし、それは偶然でも幸運でも、まして先を見越した設計でもありません。

「本物の学習者を観察し、そこから理論を紡ぎ出してきた」という起源が同じだからです。教育理論がどこから生まれたかを辿れば、生きた学習者を観察し、介入し、その中から再現性のある法則を切り出してきたことがわかります。葛原氏の実践も、まったく同じ起源から出発しているのだから、両者が整合するのは必然なのです。

葛原氏はこれを「答え合わせ」と表現します。 先に理論を持って実践を作ったのではなく、実践から作ったものを後から理論と照らし、「そうなっていた」と確認する順序だったのです。

物理学が磁力と電力を「電磁気力」として統一するように、複数の教育理論を貫く汎用的な理屈を追い続けてきた。しかしその動機の出発点は、目の前の学習者を正確に見続けることにありました。統一理論を狙ったというより、目の前の学習者を正確に見続けた結果として、汎用的な枠組みが立ち上がってきたのです。多様な理論との整合は、設計の結果ではなく、観察の結果でした。

幹は、あなたの教室から育つ

ここで一つ、大切なことを確認しておきたいと思います。

葛原氏の語る言葉——けテぶれ、QNKS、やってみる⇆考える、学びのコントローラー——これらは、あくまで「枝葉」です。枝葉を集めても木にはなりません。

幹はどこから育つか。目の前の子どもたちを見る、あなたから育つのです。

葛原氏の言葉を「借りた言葉」として貼り付けるだけでは、自分の実践の幹は育ちません。けテぶれやQNKSを手渡された学び方の道具として使いながら、同時に「自分の教室では今何が起きているか」を見続けること。毎時間の関わりを記録し、自分の働きかけと照らし合わせること。その営みの積み重ねから、自分だけの言語と図式の幹が育っていきます。葛原氏の枝葉は、その幹に接続してこそ生きてくるものです。

理論は、目の前の実践から生まれます。それはけテぶれ・QNKSの誕生の話であると同時に、これを読む教師一人ひとりに届けられたメッセージでもあります。自分の教室を見ること。その積み重ねが、力強く歪まない幹を育てるのだということです。

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