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学びの捉え方はどう発達する?子どもの「素朴理論」から「評価主義」への道筋

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幼い子どもは、学びを「やりたい」という欲求と強く結びつけて理解しやすい傾向があります。しかしこの「やりたさ」は、今すでに知っていること・できていることの先にしか描けないという構造的な限界を持っています。学びへの理解は、現実主義・絶対主義・相対主義を経て、目的・目標に照らしてより適切な選択を考える「評価主義」へと発達していきます。この発達を支えるために教師には、目的・目標・手段を子どもと共有し、自らが評価主義的に振る舞い続けることが求められます。

学びに関する「素朴理論」とは何か

人間は、日常生活での経験から自然と世界に対する見方・考え方・態度を形成していきます。これを「素朴理論」と呼びます。誰かに教わらなくても、生きていく中でそれぞれの理論が積み上がっていく——そのことを意識したとき、子どもたちの学びへの取り組み方がなぜそうなのかを読み解く視点が開けてきます。

素朴理論は、それほど根本的な態度になるからこそ、本人の学びの取り組み方や成果に影響します。そして学習指導要領がコンピテンシーベースへの転換を求める背景にも、子どもたちが質の高い「学びに関する素朴理論」を持てるよう、経験の質を変えていくという意図があります。

学びを成立させる要素は大きく三つに整理できます。「何かができるようになりたい」という欲求、対象に注意を集中させる注意、そして意図的に練習する意図です。この三つのうち、子どもが年齢によってどれを重視するかが変わってきます。

幼い子どもが学びを「欲求」で捉える理由

研究によると、年齢が低い子どもほど、学びを「欲求」で説明しやすい傾向があります。「やりたいと思っているから、やれるはず」という感覚です。

さらに興味深い実験があります。ある子どもが自分でおもちゃを試行錯誤してできるようになった映像と、お母さんに丁寧に教えてもらってできるようになった映像の両方を見せたとき、4歳頃の子どもはどちらの映像に対しても「いっぱい自分で触ったからできるようになった」と答えます。後者の子どもが「お母さんに教えてもらった」という事実があっても、自分で試行錯誤したからこそ学べたのだと理解してしまうのです。

これは一種のバイアスです。自分が手を動かして試した経験が、学びの原因として強く感じられる——その実感そのものは大切なのですが、外から丁寧に教わった経験の意味が見えにくくなるという限界もあります。

だからこそ、子どもが「自分でやってみる」経験の中で、その行為がどのようなステップを踏み、学びにどうつながっているのかを言葉で捉え直す支援が必要になります。自分の学習行為の意味・ステップ・全体の中での位置づけをメタ認知できる環境を整えることで、子どもたちの「学び手としての自己理解」は育っていきます。

「やりたい」は大切だけれど、それだけでは世界は広がらない

子どもたちの「やりたい」「知りたい」を大切にする——これは教育の重要な原則です。しかし、ここで一度立ち止まって考えてみる必要があります。

子どもが素朴に「やりたい」と感じることは、今すでに知っていること・できていることの先にしか描けないのです。

たとえば、スポーツ一家に育った子どもが特定の競技に強い関心を持つのは、すでに「できる・やる」の領域がそこにあるからこそです。まったく未知の世界に対して、純粋な欲求がゼロから湧き出ることは、それほど単純ではありません。純粋な願望が一切存在しないというわけではありませんが、欲求の取り扱いは冷静に構造を見ておく必要があります。

もし「子どもがやりたいことに寄り添う」だけを実践の軸にすると、子どもたちの世界を広げないという選択をしてしまう可能性があります。「やりたくなくても意図的に注意を向けてやること」によって、だんだんできること・わかることが増えていきます。そして、そのできる・やるの領域が増えることによって、新たなやりたさに出会ってくるのです。

やってみる⇆考える
やってみる⇆考える

欲求は学びの入り口として大切ですが、「やってみる」と「考える」を往還することで、できることが広がり、新しい欲求が生まれるという循環があります。「やりたいから学ぶ」だけでなく、「学ぶから、さらにやりたくなる」というベクトルを見落とさないことが、子どもの学び手としての発達を支える上で重要です。

知識理解の4段階——現実主義・絶対主義・相対主義・評価主義

子どもが成長するにつれて、「知る・学ぶ」というものへの理解は、より客観的な方向へと発達していきます。この発達を4段階で整理した考え方があります。

現実主義は、自分が見て感じたことが世界の全てであるという段階です。他者も自分と同じように世界を見ているはずだと無意識に前提し、意見が異なるという感覚がつかみにくい。エアコンの設定温度を「自分が寒いと感じているから全員が寒いはずだ」と思ってしまうような、非常に主観的な段階です。

絶対主義は、「正しいもの」が外部に確固として存在すると考える段階です。先生が言ったから正しい、権威ある人が述べたから正しい——という感覚です。客観性への意識は生まれますが、「誰か絶対的なものに照らせば全て判断できる」という思い込みがあります。大人でも、この段階に留まる場面は少なくありません。

相対主義は、「みんなそれぞれ正しい」「どれもいい」という段階です。一人ひとりへの眼差しを大切にする意味では重要な視点ですが、これがこじれると「AもいいBもいいCもいい、何もかもいい」という状態に陥ります。身動きが取れなくなり、思考停止につながります。虚無主義や「どうせ何も変わらない」という感覚も、この行き着く先として現れやすいものです。

そして評価主義は、意見や考え方は個人の中で構成されるものであるという相対性を認めつつも、何らかの基準によってより適切な選択を判断できるという段階です。「皆が意見を持つ権利はあるが、基準によっていずれかがより適切である」と判断できること——これが評価主義です。

注意しておきたいのは、この4段階は年齢の固定的な発達判定ではないということです。大人でも絶対主義や相対主義に留まる場面はありますし、死刑制度のような難しいテーマでは評価主義的に振る舞うことが非常に難しいこともあります。発達には個人差があり、場面によっても変わります。

評価主義とは何か——目的・目標に照らして選び直す態度

では、評価主義とは具体的にどういう態度でしょうか。

それは、すべてを一つの正解に還元してしまう絶対主義でも、何でも等しく正しいとしてしまう相対主義でもなく、目的・目標に照らして、今の選択がより適切かどうかを考え続ける態度です。

「何のために今それを選ぶのか」——この問いが頭から消えないかどうかが、評価主義の鍵です。たとえば授業の中で子どもに三角座りを求めるとき、「この指示は何を目的・目標に向かって出しているのか。その目的に向かって、三角座りという選択は本当に適切なのか」と自問できるかどうかです。

選択的夫婦別姓のような社会的な議論でも、それが評価主義的に判断できるかどうかは、「何のための選択なのか」という目的・目標がみんなの間で揃っているかどうかにかかっています。目的・目標が共有されていないと、どこから判断してよいのかがわからなくなります。

評価主義においてのみ、考えることの価値が認識され、主体的に取り組む意欲が生まれます。 絶対主義の段階では「先生が正しいから従う」、相対主義の段階では「どれも同じだからどうでもいい」となってしまい、どちらも結果として思考停止に陥ります。考えることに意味と価値が生まれるのは、評価主義の段階に達したときです。

自分の中の評価主義——自立した学習者への道

評価主義というと、他者との意見対立を解決する場面を想像しがちです。しかし、この態度は自分の内側にも向けられるものです。

自分の中に複数のアイデアがあるとき、「Aもいい、Bもいい、どれもいい」と身動きが取れなくなるのは、相対主義のこじれた姿です。反対に「これが唯一の正解だ」と思い込んで柔軟に動けなくなるのは絶対主義です。どちらも、学び手としての成長を止めてしまいます。

自分の中でいろんなアイデアを出しつつも、自分が掲げた目的・目標に向かってどれが最も適切な選択かを考え、実行し、その結果を自分で受け取って再チャレンジしていく——この態度が、子どもたちを自立した学習者へと向かわせます。

これは、「人格の完成」という教育の大きな目的とも直結しています。子どもたちの行動や言動を、「人格の完成という目的に向かってどうだったのか」と評価的に見る視点を教師が持ち続けることが、子どもの自立へとつながっていきます。

けテぶれ・QNKSが「学びの階段」を支える

ここまでの話を実践と結びつけてみます。

「知る→やってみる→できる→説明できる→使える」という学びの階段を登る経験は、子どもたちが自分の学びをメタ認知し、評価主義的に自分の学習を捉え直す力を育てます。

学びの階段
学びの階段

けテぶれとQNKSは、この階段を一歩ずつ登るための道具です。けテぶれとQNKSを回すことで、「知って・やってみて・できて・説明できて・使える」という過程を体験的に積み上げることができます。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

そして、この階段を登りきったところで「もっとやりたい、もっと知りたい」という新たな欲求が生まれ、また次の「知る」へとつながっていきます。欲求は「できる・わかる」の先に生まれるという構造を意識することで、子どもたちの学び手としての発達を支える仕組みが見えてきます。

教師自身の「評価主義的な在り方」を磨く

最後に、教師側の姿勢について触れておきます。

教師の振る舞いは、子どもたちに伝わっていきます。だからこそ、先生自身が評価主義的な在り方を磨いていくことが求められます。

「私が言うのだから従いなさい」という絶対主義的な姿勢では、子どもは考える必要がなくなります。反対に「何でもあなたの好きなようにしなさい」という相対主義的な姿勢では、子どもは判断の基準を失います。どちらも、子どもの思考を育てません。

そうではなく、「この学級の目的・目標に向かって、今この行動はどうだろうか」という問いを教師自身が持ち続け、子どもたちと共有していくこと。「人に優しく、一生懸命」というシンプルな目的を軸に、「一生懸命するという目標に向かって、今のその行動がつながると思うなら、どうぞそうしてください」という評価主義的な問い返しを積み重ねていくこと。そういった姿勢の蓄積が、子どもたちの学び方の発達を支えます。

子どもたちの「学び手としての素朴理論」は、関わる大人の姿から形成されていきます。目的・目標を頭から消さない教師の姿が、子どもたちを評価主義的な学び手へと育てる、最も根本的な環境になるのです。

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