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子どもの「やってみたい」を止めない勇気

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子どもが「欲しい」「やりたい」と言うとき、大人は経験上の見通しから止めたくなる。しかし、デメリットを言葉で渡したうえで経験させることで、子どもは自分の選択の結果と向き合い、行動を調整する力を育てていく。娘との100円のおもちゃをめぐるやり取りを通じて、「やってみる」ことが生む予想外のアウトプットと、大人が担う「語り」と「フィードバック」の役割を考えます。

止めたくなる気持ちは、親として自然なことです

スーパーの100均コーナーで、娘が安価なおもちゃを欲しがりました。親としての本音は「どうせほったらかしてどこかへ行く」という見通しで、やめておくよう声をかけたくなりました。経験のある大人から見れば、その末路はだいたい予測できるからです。

しかし、そこで立ち止まって考えました。欲しい・ダメという対立状態では、何をやってもうまくいきません。子どもと正面から対峙している状態では、どれだけ正論を言っても届かない。力を反らすことを考えなければなりません。これを「教育的合気道」的に表現するなら、向き合ってしまっている状態をまず崩すことです。

では、どう反らすか。「もう言ってもわからないなら、体験してみるしかない」——そう言葉にすることにしました。買った後の自分の気持ちがどう変わるか、1週間後にそのおもちゃがどうなっているか、意識して見ていてほしいと伝えました。そして、似たような末路をたどったおもちゃのことも思い出させたうえで、「それでもやっぱり欲しい?」と確認しました。

デメリットを渡したうえで、任せる

大人の役割は、先駆者として知っていることを言葉にして渡すことです。

たとえばご飯前にケーキを食べたいとダダをこねているとき。毎回「絶対ダメ」とやっていたら、親もしんどいし子どももしんどい。そういうときに言うのです。「この時間に食べたら、こういうデメリットがある。長期的に見るとこういう悪いことが起こる可能性がある。あなたより長くこの世界で生きている人間として、経験上そうなることはわかっている」——ここまで伝え、理解できたことを確認する。

そのうえでなお、助言とは違う選択をしたいというなら、どうぞやってください。やった後のその経験から、ちゃんと学ぶことがあなたの義務です、と。先駆者の言葉から学べないのであれば、自分が身をもって体験するしかないという話です。

これは放任ではありません。情報はすべて渡してある。その先のことは、子どもが自分の経験から学ぶ領域です。「水のある場所まで馬を連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」という話と全く同じです。図書館に子どもを連れていくことはできても、本を読むのは子ども自身です。

大人がカードを切れる時期には限りがあります。子どもが18歳になれば、もう無条件に止めることはできなくなっていく。だからこそ、いかに自分で自分のコントローラーをちゃんと握る訓練を積むかが、今の子育て・教育の核心になります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

自分のコントローラーを握るということは、他者の言葉を聞いて行動を調整する力と、自分の実体験から学ぶ力という、両方の車輪が回ることを意味します。先駆者の言葉を聞くだけで行動を決め続ける子は、自分の体で世界に飛び込む経験が薄い。逆に、言うことを聞かないように見えても、それは実体験から学ぶ車輪が強く駆動しているだけかもしれません。扱いやすい子を歓迎する風潮がありますが、言うことを聞かないことを単に問題視する前に、この視点を持てるかどうかが重要です。

やってみた先に、大人の予想を超えるものが生まれる

100円のおもちゃを買い、帰り道の車の中で娘はポチポチ遊んでいました。家についたとき、「持って帰らないの?」と聞くと、こう言ったのです。「これは車用にする。長旅で暇なときに遊べるようにしておくんだって」。

これは、まったく私の発想にはありませんでした。買った時点には娘もきっとそこまで考えていなかった。でも、買ってみたことで思考が展開し、「車で遊べるおもちゃ」という新しい役割が生まれた。シルバニアファミリーも積み木も車では使いにくい。そのなかで、ポケットに収まるこのゲーム機型のおもちゃは、車旅の時間を埋めるための唯一無二のアイテムになり得る——という判断が出てきたのです。

やってみる⇆考える(自分)
やってみる⇆考える(自分)

やってみて初めて思いつく。やってみて初めてわかる。これがまさに「やってみる⇆考える」の動きです。経験の前には存在しなかった発想が、やってみることで展開していく。

ここで大切なのは、この発想を流さないことです。「それでいいんじゃない」で済ませる話ではありません。これは大人の想定を超えたところで、子どもが自分なりに考え、選択の先でアウトプットを出した瞬間です。ちゃんと真摯に驚く。そのうえで「やってみてわかったね、やってみて思いついたね」というフィードバックを具体的に返すことが、「やってみることの価値」を子どもの中に刻みます。

親として「ごめん、どうせおもちゃ箱に埋もれるだけだと思ってたけど、違ったね。この使い方をすれば、車用の唯一のおもちゃになるね」と正直に伝えました。その驚きが本物であることが、子どもには届きます。大人が素直に認める姿が、「やってみることには意味がある」という実感を育てるのです。

失敗もまた、経験が重なる材料になる

もちろん、いつもこうした展開になるわけではありません。買ってみて、やっぱりすぐに飽きてしまうこともあります。しかしそれも、意味のある経験です。

一回失敗しただけで二度と同じことをしない、という人間はほとんどいません。失敗してそういう記憶が重なっていくことで、より正しい方向に自分を動かせるようになっていく。100円払って得た経験が、次の選択に生きてくる。その積み重ねが、原因と結果を自分の中で結びつける力になっていきます。

日常の場面で言えば、お風呂に入らなかった翌日に肘の内側が痒くなった。そのとき指導者は問います。「昨日から考えてみて、汗をかいていたのにお風呂に入らなかったよね。お風呂に入らなかった結果、こういうことになったよね。だからお風呂に入るべきなんだよね」。原因と結果を、自分の言葉で語らせる。

これはそのまま、けテぶれの文脈に重なります。サボったら点数が落ちた、やったらできた——その原因と結果を自分で結びつける力を育てることが、学校でも家庭でも共通してやっていることです。そして、こうして自分の行動が結果に結びついているということが何となくわかってくると、自分の行動に対して能動的に関わろうとする態度が育ってきます。それが自律の入り口です。

見守る間に、言葉を準備する

「任せる」と「放任」を混同しないことが、指導者としての要です。

5月から6月にかけて、それまで様子をうかがっていた子どもたちが自分を出してくる時期があります。ここで「一旦やってみなさい」と流しながら、その間に何をするか。指導者は情報収集をしています。この子はどういう子なのか。教室を飛び出しやすいという性質があるとすれば、飛び出した先でどんな行動を取るのか。家庭環境や、これまでの言葉のやり取りからどんなことが読み取れるか。

その観察の中で、ロジックを組み立てていきます。「どういうロジックで、どういう構造で、どういう言葉でこの子に語りかければ、この子の状況を理解したうえで、この子の文脈に沿った言葉を当てられるか」——ずっと考えながら様子を見続けるのです。

そして、その子が一線を越えた瞬間。子ども自身も「越えた」と感じているその瞬間に、1か月かけて積み上げてきた理解を元にした言葉を当てる。溜めてきたものを一気に注ぎ込む。その一度の語りかけが、1年を通じて効き続けることがあります。

「好き放題させているわけじゃない。言葉を入れるときはしっかり入れる」——このバランスが、任せることの実質です。

言葉を入れるタイミングを待つのは、ためらいではありません。その子の現在地を理解したうえで届く言葉を準備しているのです。主体性を尊重しながらも、必要な一瞬には全力で関わる。この両立が、見取りと語りの本質です。

「やってみる」が、自分を動かす力を育てる

子どもが「やってみたい」と言う。止めたくなる気持ちは自然です。しかし、デメリットを伝え、理解を確認し、それでもなお選ぶならやってみなさいと任せる——この関わりが、「信じて、任せて、認める」の実質です。

そして、予想を超えたアウトプットが出たとき、それを本気で驚き、言葉にして返す。そのフィードバックが、「やってみることに意味がある」という感覚を体に刻んでいきます。失敗したとしても、その経験が次の判断材料になる。こうして、自分の経験から原因と結果を結びつけて考える力が、少しずつ育っていきます。

子どもが自分のコントローラーをちゃんと握れるようになるために、大人にできることは意外とシンプルです。情報を渡し、経験を許し、その先で生まれたものに真剣に向き合う。そして必要なタイミングで、準備してきた言葉を届ける。家庭でも教室でも、この筋は変わりません。

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