2桁×2桁の掛け算の筆算という、アルゴリズム的に複雑な内容に初めて出会う子どもたちが、手順を教え込まれるのではなく、教科書とドリルと小テストを使いながら自分の現在地を確かめ、間違いを分析し、再挑戦する姿を記録した授業実践です。「もう無理」と投げ出しかけた子が何度も当たって砕けながら最終的に「できた」と満面の笑みを見せた瞬間は、筆算の技能よりずっと大きなものを物語っています。この記事では、テストを点数判定ではなく現在地確認の道具として使う設計と、できなさに向き合い続ける学習力の育ちを描きます。
筆算の難しさは、学習力を試す絶好の機会
2桁×2桁の掛け算の筆算は、算数の中でも手順が複雑な内容です。掛け算の計算ごとに繰り上がりがあり、2段目の答えは1桁ずらして書かなければならず、最後に2つの数を足すときにも繰り上がりが出てきます。子どもたちにとって、これは初めて見る手続きの連鎖です。
ただ、ここで大事なのは「難しいから教えてしまえ」にならないことです。教えれば確かにできるようになりますが、それは子どもが意味を掴んだのではなく、手順を覚えただけです。 桁をずらす理由、ゼロを省略できる場面、それぞれに「なぜそうするのか」という意味があります。その意味を子ども自身が確かめ、納得してはじめて、手続きは本物の理解に根ざすものになります。
苦戦する場面こそ、けテぶれが生きます。この単元でどれだけ子どもが自分の学びをコントロールしようとしたか——その姿が、授業全体の手ごたえになっていました。
「桁をずらす」の前に、意味を納得する
筆算で2桁×2桁を計算するとき、2段目の数を1桁左にずらして書きます。多くの授業では「こうやってずらすんだよ」と手順だけが先に渡されます。しかしそれでは、「ずらす」という動作の意味が宙に浮いたままになります。
意味理解が先、納得の上で手続きを使う——この順番が崩れると、認識もずれていきます。
2段目に書く数は、実際には「10の位の数にかけた答え」です。10の位の数は10倍になっているわけですから、答えもゼロが1つ付いた状態になります。だから1桁左にずれる。その理由が分かれば、「ゼロを書いて1桁ずらす」ということが、単なるルールではなく必然として理解できます。
最初からゼロを省略してよいのは、その意味が腑に落ちた後の話です。手続きから入ると、意味を確かめる機会が失われます。一方、子どもが教科書を読みながら「1の位にかけた答えはここ、10の位にかけた答えはここ」と一つずつ場所の意味を確かめていくとき、その積み上げは本物の理解になっていきます。
教科書を「一つずつ読む」という学び方
先生が内容を伝える前に、子どもたちは教科書に向き合います。半数ほどは初見の内容ですが、それでも——指導なしで——教科書を読みながら理解を組み上げていく子どもたちの姿がありました。
「ここまでは分かった。ここの言っていることを今から分かろうとするんだ。」
そういう読み方です。分からないところで止まり、もう一度読み直し、自分の言葉で意味を確かめながら進む。手続きを教えてもらえばすぐ済むところを、あえてそうしない。 それは「いかに効率よく解けるか」ではなく、「学び方を学ぶ」実践です。
計算ドリルをたくさん解かせれば、多くの子はできるようになります。それは確かです。でも、その学び方では、子どもは「解き方を持っている」だけです。教科書を一つずつ読んで認識を組み上げていく子は、次の難しい場面でも同じ学び方で向かっていける力を持っています。それが、この実践が目指している地点です。
テストを「現在地確認」の道具として使う

この実践では、単元末テストを受けるタイミングを子ども自身が決めます。まだ定着が不十分なら後ろに倒す、逆にもう十分なら前倒しする——それが認められています。
「自分はテストを受けられると判断できた時に受けてください。」
しかし、その判断の妥当性はどうやって確かめるのでしょうか。そのために小テストが3枚用意されています。教科書とドリルでけテぶれを回し「いける」と感じたら、まず小テストを受けます。小テストで確実に取れたなら、大テストに臨める実力がついているサインです。
テストはここでは成績をつけるためのものではなく、「いける感覚が本物かどうか」を確かめる形成的評価として機能しています。
小テストの結果がボロボロだったなら、それは失敗で終わりではありません。「どのページに戻れば良いか」を教えてくれる現在地データです。間違えた問題を分析すれば、どこの理解が曖昧だったかが分かります。その分析を次の学習につなげることが、けテぶれのサイクルです。単元末テストの時期を自分で決める設計は、こうした現在地の見取りと再挑戦のサイクルを子ども自身が回せることを、教師が信じているからこそ成り立っています。
「甘い」という語りが届く場面
ある日、一人の子が小テストを受けました。「それなりにいける」と判断して受けたわけですが、結果はかなりボロボロでした。
その子に対して、先生はこう伝えました。「甘い。甘すぎる。」
厳しい言葉です。しかし、この語りには文脈があります。「これが受け取れるだけの感じになってきたから言いました」というのが、先生の言葉でした。
語りの厳しさは、関係性の土台の上に初めて届きます。 同時に、「甘い」で終わらせない。「教科書とドリルに戻りなさい。小テストは何回受けてもいい。今日間違えたところから、どのページを勉強し直せばいいかが分かる。このテストもけテぶれの一環としてやったと思えばいい。」——具体的な戻り先がセットになっています。
叱るのではなく、現在地を見せ、次の一手を渡す。その語りが、子どもを学びに引き戻します。どこへ帰ればいいかが分からないまま「頑張れ」と言うのではなく、「ここに戻れば動ける」という道筋を示すことで、語りはフィードバックとして機能します。
仲間がミスの「傾向」まで分析する
そのやり取りを、周りの子どもたちが見ていました。そして彼らは、一緒に分析を始めます。
「こういうところでこういうミスだよ。あなたのミスはここだよ。抽象化すると、傾向としてこういうことが分かる。」
「ミスの傾向」まで言語化してアドバイスできる——これは相当な分析力です。自分のけテぶれを丁寧に回してきた子どもだからこそ、他者の間違いにも筋道を見つけられます。
このフィードバックは、単に「ここが間違ってるよ」という指摘ではありません。「なぜ間違えやすいか」という構造を見えるようにするものです。 受け取る側にとっても、次に何を学べばいいかが明確になります。仲間との関わりが、現在地を把握し直す場になっていました。
「学び方というか、しっかりけテぶれ、学ぶってどういうことみたいなことが、その子と一緒に再確認できた瞬間だな」と先生は振り返ります。語りとフィードバックの連鎖が、学び方そのものを学ぶ時間になっていたわけです。
「もう無理」から「できた」へ——学習力が育つ瞬間
もう一人の子の話を紹介します。
その子は、わからないとイライラしてしまう子でした。学習面でも苦手意識があり、2桁×2桁の筆算は最初からかなり手強かった。「わかんない、もう無理」と投げ出しかけます。
でも、再起します。
もう一回やってみる。また間違える。先生に見せに行く。「いや、違う違う、こうなってこうなんだよ」と言われて、またやってみる。またボロボロ。それでも繰り返します。
ある日、その子は自分の得意な図工をさっさと終えて、空いた時間にぐちゃぐちゃになった教科書を持ってきて、算数に向かっていました。何回も当たって砕けて、また当たって——。
「ちょっと待って、これできてるじゃん。」

分かってきた瞬間の、満面の笑み。「先生、見て!ここからここまで、ほんのりバツがついたんだよ。」——嬉しそうに、汚れた教科書を持ってきた。「これがこうなって、こうなって。答え見る、合ってる、やった!」と先生に見せに行き、一緒に喜ぶ。
たかが掛け算の筆算です。大人になって使わない技術かもしれない。でも、そこで起きていたのは、できなさやわからなさに向き合い続けるという経験でした。
折れずに、諦めずに、また挑戦する。それが積み重なって「できた」に届いたとき、子どもが手に入れているのは筆算の技能だけではありません。難しいことに出会ったとき、自分でやり続けられるという感覚——自己効力感と、自律的に学ぶ力の芽が、そこに育っています。先生は「泣きそうだった」と振り返りました。三学期に見えたこの熱い学びが、一年間の積み上げの結果だったからです。
学習力を育てることが、この実践の本題
この授業での筆算は、目的ではなく素材です。
桁をずらす理由を納得すること、教科書を一つずつ読んで理解を組み上げること、テストで現在地を確かめること、間違いから戻り先を見つけること、仲間のフィードバックを受け取ること、何度も崩れながら再挑戦すること——これらはすべて、学び方を学ぶ経験です。
クラス全体を振り返ると、「停滞して学びから逃避している子はゼロ」という状況でした。全員が、それぞれの場所で、わけわからないなりに教科書に向かっていた。「絶対教科書見ないとこれは分からない」と自分で気づいて、一つずつ読んで、認識を組み上げていく。
これは「教えなかった」から起きたのではありません。けテぶれというサイクルと、テストの使い方の設計と、子どもを信じて任せるという構えが土台にあります。教師がすることは、手順を渡すのではなく、学び方のフレームを用意し、語りとフィードバックで現在地を見せ、子どもが自分で判断できる場を整えることです。
「算数の勉強意味ない」「大人になって使わない」という話の、もう対極にある実践です。使えるかどうかよりも、どう向き合うかが問題なのです。できなさやわからなさに向き合い続けた経験こそが、その子の学習力になっていきます。