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若手教員は一斉型の授業から始めなければならないのか

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岡山県のある学校が開いた全校公開で、1年目・2年目・20代の若い先生たちが、地に足のついた子ども主体の学びを実現している場面に出会いました。そこから浮かびあがったのは、「まず一斉指導の基礎力を身につけてからでないと、子ども主体の学びには手をつけてはいけない」という前提への問い直しです。任せる学びの場にも、全体を止めて短く伝えるべき瞬間は必ず生じます。そのタイミングを見極めて発動する力こそが、子どもの現在地を見取りながら磨かれる一斉指導の本質ではないか。一斉型か子ども主体かを二項対立で考えるのではなく、どちらから入っても最終的には両輪が求められるという視点で、若手の授業づくりを考えます。

全校でけテぶれ・QNKS・心マトリクスに取り組む学校の公開

岡山県のある小学校は、全校でけテぶれ・QNKS・心マトリクスの全てに取り組んでいます。その学校公開に参加し、すべての学級を順に見せてもらいました。驚かされたのは、1年目・2年目・20代といった若い先生たちの学級の充実度でした。子どもたちが本当にキラキラと学び合っており、頼もしさと場の豊かさがありありと伝わってきました。

注目したいのはその学びの質です。「ふわふわと地に足のつかない活動あって学びなし」、いわゆるファッション自由進度には全くなっていませんでした。自由進度学習の外形だけを真似た表面的な主体性とは明らかに違う。子どもたちの学びの密度と充実度が、数分の参観でも確かに感じ取れる場でした。

「まず一斉型の授業から」という前提を問い直す

「教師としての基礎力をつけてからでないと、こういった実践には手をつけてはいけない」という考え方があります。チョーク&トークに代表される単線型の授業の技術を習得してからでないと、子ども主体の自由進度学習には進めない、という順序論です。

この前提は、本当に正しいでしょうか。

ソロバンをちゃんとできるようになってから電卓を使いなさい、電卓をマスターしてからExcelを使いなさい、という論法に似ています。それぞれのツールに妥当性はあるかもしれませんが、後から来た道具が前の道具のスキルを必須条件にするとは限りません。今回の学校公開で出会った若い先生たちの実践は、その前提に疑問符を打つものでした。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

子ども主体の学びの場では、学びのコントローラーを子どもに渡すことから始まります。「1ページ目を開いて、では誰々さん読んで」という、教師がコントローラーを握り続ける授業スタイルとは、出発点が根本的に違います。こちらの側から入った先生たちが、その場を豊かに作り上げているという事実は、順序論の絶対性を問い直すものとして受け取りました。

教師が先に細かく説明しても、受け取られにくい理由

授業の冒頭で教師がこと細かに丁寧に説明してから子どもに渡す、という指導の流れがあります。しかしこれは、子どもの学びのプロセスから見ると、順序として少しずれているかもしれません。

単元の概要を示した後、すぐに子どもがやってみるフェーズに入らないとどうなるか。多くの子どもにとって、「先生の説明を聞かなければ」というモチベーションがそもそも生まれません。自分でも確実に読める一行を、誰かが読むのを待つ時間に妥当性を感じられないのと同じです。

さらに言えば、ある概念についての誤概念や必要性を「自分が持っている」という自覚がない状態で情報を提供しても、多くの場合は右から左に流れてしまいます。目的・目標と子どもたちの必要性が噛み合っていないままに、ただ座らせて聞かせるという手段を取り続けると、受け取り手が育ちません。 多くの教室で、先生が前で丁寧に説明しているその背後で、子どもたちの半数以上が顔をなくしているという場面は、珍しくありません。

だとすれば、単元の大まかな概要を伝えた後は、まずやってみる時間を先に渡す。その方が、子どもたちにとって自然な学びの流れです。

概要を渡したら、子どもがやってみる時間を先に

やってみる⇆考える(学ぶ)
やってみる⇆考える(学ぶ)

学びの自然な流れとして、「分かった後はやってみる」というステップは外せません。概要が分かったら、次は子どもがやってみるフェーズに入ること。その先に、子どもたちのつまずきや必要性が生まれ、そこに応じた指導が初めて成立します。

この順序が大切なのは、やってみた後の教師の判断が格段に確かなものになるからです。子どもたちがどこでどのようにつまずくかは、やってみる前には分かりません。当初一斉に指導しようと思っていた項目が、実は指導しなくてもよかった、ということも起こります。逆に、想定していなかったところでつまずきが集中することもある。

現在地を見取った上で判断する。この動きができるからこそ、やってみる→見取り→フィードバックという流れが機能します。わからない子がいたら側に寄ってしゃがんで目線を合わせる。比較的多くの子が同じところで詰まっているなら、そこで初めて必要に応じた全体共有を発動する。それが、子どもの必要性と噛み合った指導になります。

任せる場の中でこそ、全体共有の判断力は磨かれる

子どもに任せるからといって、全てを任せきりで学習空間が自動的に回るわけではありません。任せた後には、必ず全体に向けて指導すべき必要性が生じます。全員を止めて「ここは聞いて」という場面は、任せる授業の中でこそ自然に生まれてきます。

ここで求められる力は、「必要性を見取ってタイミングよく発動する」判断力です。これは、問答無用で全員に話を聞かせることを前提とした授業では育ちにくい。なぜなら、そこでは「いつ止めるか」という判断がそもそも存在しないからです。子どもたちに任せ、動きを見守り、ここだという瞬間に全体に向けて語る。その繰り返しの中で、教師の嗅覚は磨かれていきます。

2年目の先生の自由進度的な算数の授業を見ていて、個別に子どもたちと豊かにつながっていく様子はかなり実現できていると感じました。それでも、「ここで全員を止めるべき瞬間」が見えました。その一歩の発動——語りのタイミングと規模の判断——が次の成長課題として見えた、という話でもあります。

全体共有は長くしない。5分のキャッチボールで返す

全体を止めての一斉指導も、長時間行えばいいわけではありません。特に学習の処理に時間がかかる子が多い場面では、長い説明はむしろ届きません。子どもたちが一度やってみた後に、5分程度で要点をまとめ、子どもたちのアイデアを確認するという短いキャッチボールが有効です。

語りが終わったら、また子どもがやってみる時間へ返す。この往還が、やってみる⇆考えるの自然なリズムです。

さらに言えば、全体共有の規模も一律である必要はありません。 ある子に必要な声かけなのか、グループに向けるものなのか、クラス全体に伝えるべきものなのか。見取りに基づいて判断し、必要な相手に必要な規模で届ける。「困っている子は前においで。ただし今から言うことは全員のチェックポイントだから、耳は傾けておいて」という形もまた、語りの一つのかたちです。

後出しの発問が、学びに届く

研究授業のように、事前に「初発問」を練りに練るという指導観があります。しかし、30人全員に刺さる発問を一手で事前に用意するのは、構造的に難しい話です。子どもたちがどう反応するかは、授業が始まってみなければ分かりません。

だとすれば、子どもたちがやってみた後に、そのリアルな学びの過程を前提にして発問する。そちらの方が構造上、学びに合う発問になります。子どもたちの現在地が見えているから、刺さるところに刺さる問いをその場で考えてその場で発動できる。これが「後出し」の発問であり、見取りとフィードバックに裏打ちされた語りです。

パフォーマンス的なスキルを磨くよりも、子どもの学びをどう見取り、どう判断して返すかという職能を磨く方向の方が、授業の実効性は確かに上がります。教材研究・学習研究がものすごく大事というのも、この文脈でのことです。子どもたちの認識を正確に見取り、今この瞬間に全体指導が必要かを判断できる力——それが結局、一斉指導のスキルの本質的な部分につながっていきます。

どちらから入っても、最終的には両輪になる

一斉型か子ども主体かを二項対立で語るのは、問題の立て方としてずれています。子どもを本当に伸ばす授業では、両方が機能しています。一方に振り切れば、一方はパフォーマーとしての指導に走り、もう一方は「みんなの主体性が輝いているよね」と言いながらその場では何も起きていないゆるい場に安住してしまうことがある。

単線型の授業と複線型の授業は両輪であり、どちらから入っても、最終的には両方が求められるというのが今回の結論です。 子ども主体の学びから入った若い先生たちが、地に足のついた授業を実現しているという事実があります。一方から入った人が、もう一方の力を後から身につけていく道筋もある。どちらを出発点にしたとしても、行き着く先で必要とされるものは同じです。

どちらを出発点にするかについて言えば、子どもたちの学びの自然な流れを考えたとき、まず任せてみることの方に妥当性を感じます。信じて、任せて、認めるという場作りを土台に、子どもの必要性を見取って全体に語りかける。そういう指導の積み重ねが、語りとフィードバックの力を同時に育てていくのだと思います。

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