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「自ら考え、自ら学ぶ」教室をどう作るか

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「自ら考え、自ら学ぶ」という言葉は、多くの学校の教育目標に掲げられています。しかしその姿を学校生活の具体的な場面に落とし込もうとすると、途端に手がかりを失う先生も多いのではないでしょうか。本記事では、中学校での研修を振り返りながら、「自ら考え、自ら学ぶ」とはどんな姿か、その場で教師はどう振る舞うか、そしてけテぶれとQNKSがなぜ必要になるのかを順を追って整理します。自学ノートや自由進度学習を始めたいと考えている方にとって、その前に何を準備すべきかが見えてくる内容です。

「自ら考え、自ら学ぶ」とはどんな姿か

ある中学校での研修を振り返ったとき、「けテぶれとは何か」という説明から入ってしまったことに、一歩踏み出しすぎた感覚が残りました。その学校の教育目標には「自ら考え、自ら学ぶ」という言葉が掲げられており、今年度から自学ノート(自主学習ノート)を取り入れようとしていた先生方が対象の研修でした。その出発点において、本当はまず「自ら考え、自ら学ぶって、具体的にどんな姿ですか?」という問いから始めるべきだったと感じています。

では、その姿を描いてみましょう。学校には教科があり、目標があり、学習指導要領のもとに動いています。ですから「自ら学ぶ」といっても、何の目的も方向もなく自由に動く姿ではありません。「自ら考え、自ら学ぶ」とは、何らかの目標が設定され、それに向かって自分で考え、自分で学んでいく姿として具体化せざるを得ません。この整理は当たり前のように聞こえますが、「自立した学習者」という言葉が教師関与ゼロを意味するかのように誤読されやすいところでもあります。

そのような場に子どもたちが集まったとき、懸念として挙がりやすいのが「孤立してしまうのでは」という不安です。しかし実際には、30人の子どもたちには人間関係があります。自然に教え合い、助け合う姿は生まれやすい。問題は全員が孤立することではなく、「一人で学ぶべきか、友達と学ぶべきか」をその場その場で子ども自身が判断できるかどうかです。

一人で集中する時間と、友達と考えを交わす時間。その選択を主体的にできることが、この教室では重要な力を意味します。一斉指導ではなかなかそのチャレンジをさせることができませんでした。自ら考え自ら学ぶ子どもたちが集まる場では、それが初めて可能になります。

そこで教師は何をするか

「自ら考え、自ら学ぶ場」において、教師は何をしているのでしょうか。「教えなくていい」と言われると戸惑う先生も多いはずです。しかし実際には、教師の役割が消えるわけではなく、その内容が変わるのです。

まず浮かび上がるのは、子ども同士をつなぐ役割です。同じ問いで悩んでいる子を引き合わせる、ある子の気づきが別の子の困り感に刺さると判断して橋渡しをする、互いに説明し合うことで理解を確かめさせる——こうしたことは、子どもたち全員の学習状態を俯瞰している教師にしかできません。子どもは自分の学習に集中しているため、クラス全員の状況は見えていません。その情報を持って動けるのは教師だけです。

次に、学習内容への関与です。目標に向かって自ら学べる子であっても、教科内容でつまずくことは当然あります。そのときには普通に教えてあげる。また、目標をすでに達成している子に対しても、「その理解のここが少し甘いかもしれない」「この先にこんな世界がある」という内容的なフィードバックは必要です。

そして、一斉の知識伝達が減ることは、教材研究が不要になることとはまったく別だという点を見落としてはなりません。むしろ、上位層にも下位層にも、一人ひとりの現在地に応じて関わるためには、教材に対する理解をより深く、より広く持っている必要があります。教えない授業だから知識は浅くていい——これは明確な誤解です。

子ども同士をつなぐこと、学習内容を助言すること、学習方法を問いかけること、必要に応じて一人に戻す判断をすること——こうした役割を果たしながら教室をぐるぐると回っていく。これが「自ら考え、自ら学ぶ」場における教師の振る舞いです。

最も難しい役割——学習方法への助言

上で挙げた役割のうち、最も難しいのが学習方法への助言です。

「どう学ぶと、自分の現在地から一歩進められるか」という問いかけ。「あなたの学び方は今どうなっているか」というフィードバック。これらは、教員養成課程でほとんど学ぶ機会がなく、経験豊富な先生でも指導の手がかりを持ちにくい領域です。

なぜかといえば、学び方に関する「教科書」がないからです。教科の目標・内容には指導書があります。しかし「どう学ぶか」「どう考えるか」については、体系立てた言葉がありませんでした。言葉がなければ、指導も、訓練も、真似も難しい。できる子の学び方を目の前で見せられても、「どう真似すればいいか」が分からなければ再現できません。

ここにけテぶれとQNKSが登場します。けテぶれは「学ぶ方法」、QNKSは「考える方法」を、それぞれ言葉と手順として明確に定義したものです。この二つを子どもたちに手渡すことで、何が変わるのでしょうか。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

けテぶれとQNKSは、学びと考えの「コントローラー」です。教師が「学び方を指導する」ためには、そもそも学び方が言語化されていなければなりません。この二つがあることで初めて、教師は「今のあなたの学び方はこうなっている」というフィードバックを具体的な言葉で渡せるようになります。

けテぶれとQNKSが可能にすること

「考え方を真似してください」とだけ言われても、子どもは真似できません。「どう解釈すれば?」「どのステップを追えば?」が分からないからです。しかしけテぶれという言葉があると、学ぶ手順が共有されます。できる子がそのやり方で動くことで、できない子もその姿を真似できるようになる。言葉と手順があって初めて、追いかける対象が生まれます。

QNKSについても同様です。「問いを立て、抜き出し、組み立て、整理する」という明確な行為として考え方が定義されると、「考えられない子」も「とりあえずやってみる」ことが可能になります。できないまま手をこまねくのではなく、まず最初のステップを踏める。それが、自ら考え自ら学ぶ姿へ近づいていく出発点です。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

けテぶれとQNKSは、できる子とできない子の間にある「壁」を取り払うために機能します。言葉と技能が揃うことで、真似できる環境が生まれ、練習が可能になり、繰り返すほど上達していく。その練習の場として、宿題のエリアは非常に適しています。毎日の宿題の中でけテぶれやQNKSを使い続けることで、技能は少しずつ、しかし着実に高まっていきます。

自学ノートや自由進度学習は「その先」にある

ここまでの流れを整理すると、一つのことが明確に見えてきます。自学ノートや自由進度学習は、けテぶれとQNKSという「学び方・考え方の技能」が育った後に、初めて機能するのです。

自学ノートとは、自分で考え自分で学ぶノートです。しかし、自分で考え自分で学ぶ技能がまだ育っていない段階でそのノートを渡されても、どう使えばいいかが分かりません。考え方と学び方の技能が高まった子どもたちに渡されたとき、初めて「自分の現在地に合わせて、自分に必要なことを学ぶ」という使い方ができるようになります。

その状態では、授業と自学ノートが自然につながります。授業でわからなかったことを自学ノートで取り組む。自学ノートで疑問に思ったことを授業で確かめる。学校と家が「自分で考え自分で学ぶ場」として一続きになっていく。それが自学ノート本来の姿であり、目指したいところでもあります。

自由進度学習についても同様です。学び方と考え方の技能が育っているからこそ、「自分のペースで、自分の現在地から一歩ずつ進む」という自由が機能する。その順序を飛ばして自由進度から始めると、「自由」は単なる放任になりかねません。

まとめ——渡すべきは「言葉と技能」

「自ら考え、自ら学ぶ」という教育目標を実現したいとき、最初に整備すべきものは環境や制度ではなく、子どもたちに渡す「言葉と技能」です。

考え方の道具(QNKS)と、学び方の道具(けテぶれ)を手渡し、それを宿題や授業の中で繰り返し練習させる。技能が積み上がったとき、自学ノートが生き、自由進度が機能し、「自ら学ぶ教室」の前提が初めて整います。

教師の役割はなくなるのではありません。内容への助言、方法へのフィードバック、子ども同士をつなぐ働きかけ——それぞれの現在地に応じた関わりができるよう、教材理解はむしろより深く、より広く求められます。「自ら学ぶ場」を支えることは、教師にとってより精緻な専門性が必要な仕事です。

落ち着いて、一つ一つ順序を踏んでいく。その先に、子どもたちが本当に自分で考え自分で学ぶ教室が生まれます。

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