教材研究や単線型の授業設計は、教師として欠かせない土台です。しかしそこで止まってしまうと、子どもに学びを任せた後の世界を支えきれなくなります。「学ぶとはどういうことか」「考えるとはどういうことか」「分からなさをどう乗り越えるか」——これらを研究する「学習研究」という視点を持つことが、これからの授業づくりには不可欠です。自由な学びは目的ではなく、全員が個別最適に賢くなるための手段であり、検証すべき仮説です。その仮説を支える教師の準備状態を、学習研究という言葉から考えます。
教材研究は必要。でも「そこで止まってどうするの」
ある研修会で、子どもたちが豊かに学び合う素晴らしい教室を見せてもらいました。その中でくり返し問われたのが、「任せた先に自分は何を指導できるのか」という問いでした。
教材研究はめちゃくちゃ必要です。単線型の学びを構想することも、めちゃくちゃ必要です。 でも、そこで止まってしまったら——という話です。
教科書・指導書・学習指導要領に目を通し、単元の中心概念を把握し、「ここからここへ子どもたちを連れていく」という授業の筋道を描く。それは基本中の基本であり、「それすらしていない」というのは論外です。パイロットが機体ごとの操縦を熟知し、状況が変わるたびに猛勉強するのと同じように、教師もまず担当する内容を深く知っていることが前提となります。
しかし、教材研究を丁寧にやり、単線型の授業を設計してそこで止まってしまうと、次に多くの教師が走り込むのが「指導技術」の世界です。授業の盛り上げ方、問いかけの工夫、子どもを引き付けるネタ。そのこと自体が悪いわけではありませんが、技術とネタを磨き続けることで、子どもたちはいつまでも「お客さん」のままになってしまいます。授業を見ている子どもたちであって、自分で学びを動かす子どもたちではない。
複線型の学びが求められる今、教師が次に踏み込まなければならない領域があります。それが「学習研究」です。
「学習研究」とは何か

学習研究とは、「学ぶとはそもそも何をすることか」「考えるとはそもそも何をすることか」に関する知識を、教師が指導可能な言葉として持つことです。
たとえば、子どもたちに話し合いをさせたとき、一人が喋り続けてほかの子がうなずくだけになっているシーンに出会うことがあります。そのとき、「みんなの話も聞きましょう」「ノートを書きましょう」という場当たり的な声かけで終わっていないでしょうか。それは指導とは言えません。
指導に柱がなければ、系統もなく、1年間持ちません。「前の単元でも言ったよね」「これが大事だとみんなで確認してきたよね」という積み重ねが話し合いの文化を作ります。そのためには、「話し合うとはこういうことだ」「考えるとはこういうことだ」という知識を、教師自身が事前に持っておかなければならない。
分からない子・できない子に対して、手取り足取り教えてあげることしかできなければ、それを何十人分こなさなければならないという話になってしまいます。だから子どもたち自身が、自分の分からなさ・できなさに対応し、そこを乗り越えようとするだけの「学習方法的な指導」が必要になるのです。
学習内容についての研究が足りなくて子どもの学びに伴走できない——というケースよりも、「学び方・考え方についての研究が足りない」というケースの方が、はるかに多いというのが現場を見ていての実感です。その研究不足が、任せた後に「手も足も出ない」状態を生んでいます。
けテぶれやQNKSは、この「学び方の見方・考え方」を子どもたちが自分で扱えるようにするための学びのコントローラーです。分からなさを前にして、自分で計画し、試し、振り返り、次の手を考える——その一連のサイクルを子どもが自分で回せるようになることが、自己調整学習の出発点であり、自律の基盤になります。

こうした指導の知識は、今「学習科学」という分野でたくさん研究されています。しかし、それが小学校の教員の指導の知識として降りてきているかというと、まだ全然足りていません。「理屈としては解明されているが、日本の小学生に対してどう実感させ、どう指導していくかという言語まで翻訳されていない」——そこに葛原実践の立ち位置があります。
自由な学びは「目的」ではなく「手段」
複線型の学びを選ぶとき、「自由に学ばせること自体」が目的になってしまっている実践を見かけることがあります。でも、自由に学べているだけで満足してはいけません。
自由に学ぶという選択をした方が、できる子もできない子も、全員が個別最適に自分の学びを積み上げながら賢くなれる——それが根拠であり、仮説でなければならない。
結果がついてこないなら、一斉指導の方がよっぽど賢くなれる、ということなら一斉指導の方がいい。自由な学びを選んだのなら、その仮説を検証し、チューニングを重ね続けることが必要です。今結果が出ていない人を否定したいわけではありません。そこを徹底的に検証してやっていくことが大切で、それしかないのです。自由に学んでいる雰囲気の中で満足してしまうことなく、本当に全員の学びが保証されているかを問い続ける姿勢が問われています。
「救いきれない子」と「伸びきれない子」の両方を見る
自由な学びを選ぶ大きな根拠の一つは、今まで一斉指導の中で対応できなかった子どもたちの存在です。学校に来にくい子、普通教室でとてもしんどくなってしまう子、学びに向かえずイライラしてしまう子——いわゆるインクルーシブの観点で語られるような状況の子たちです。
一斉指導の構造の中では、そういった子たちを救いきれていなかった。だからこそ、それぞれの発想・感覚・判断・思考によって学びを実現できる余地を残してあげた方が、その子たちの学びを保証できるのではないか、という考え方です。
しかし、見なければならないのはその子たちだけではありません。
反対側には「吹きこぼれ」の問題があります。非常に高いIQの子だけの話ではなく、もっと問題視しなければならないのは、「めちゃくちゃ賢いけど、周りにも順応できてしまう」子たちの「もったいなさ」です。一斉指導の中では、手をあげた子が答えてそこで終わり——そういう構造の中で、その子たちの本来の伸びしろが埋もれ、ドロップアウトするしかない瞬間が生まれています。しかもそれを挽回するチャンスがないまま授業が進む。
多様性への対応とは、苦手な子への支援だけではありません。すべての子が、自分の学びを自分で開花できる場を作ること——個別最適な学びが問うているのは、その意味での全員保証です。
一斉指導の構造が持つリスクと、教師の準備
「今、目の前の子どもたちは困っていない。だから大丈夫」——そう言う教師も当然います。一斉指導で今はうまくいっているように見える。それを否定するわけではありません。
ただ、構造自体に欠陥があるなら、いつかどこかで立ち行かなくなる可能性を抱えたまま、教職を続けていくことになります。
子どもたちが変わった、今の子に指導技術が通じない——そういうお悩みを聞くことがあります。しかし問題を子どものせいにすることはできませんし、かといって「古い指導か新しい指導か」という二項対立に問題を押し込んでも、本質は見えません。問題の核心は、一斉指導の構造が救いきれない子が確実に存在し、そこへの方策を持てていないことです。
だから、今うまくいっているように見えていても、その構造が立ち行かなくなったときに手が打てるよう、教師は別の方策を準備しておく必要があります。自由な学びへの踏み込みは、そのための問いでもあるのです。構造として、教育の目的に照らしてどちらに合理性があるかを、今一度考えてみてほしいのです。
教材研究・学習研究、そしてその先へ

教材研究と学習研究という話をしてきましたが、実はこれはまだ「第2層」の話です。
自由に学ばせるということは、「なぜ自由進度なのか」という問いを徹底的に考え尽くすことを要求します。そして考え続けていくと、学ぶとはどういうことかの先に、よいとはどういうことかという問いが来て、さらに自分とはどういう存在かという問いへと向かっていきます。
「そこまで引き戻りすぎでは?」と思われるかもしれません。しかし、そうすべきなのです。なぜなら、私たちは「人格の完成」を目指しているからです。
教育基本法第一条がそうなっています。人格として、自由意志を持った一人の存在として、その場にちゃんと存在することをまず保証してあげること——それが学びの最終的な目標に据えられているのなら、自由に学ばせるという問いは、教材の習得を超えて、その子が「人格としてその場に存在できているか」という問いにまで広がっていかざるを得ません。
第3層・第4層、つまり「よさとは何か」「自分とは何者か」という問いが、全部指導の範囲に入ってきます。自由にさせるということは、そういうことです。
難しいけれど、逃げられない問い
これはめちゃくちゃ難しいことを要求されているのだ——そう気づくことが、まず第一歩かもしれません。教材研究という第1層、学習研究という第2層、そしてその先に哲学・自己研究の層が続いている。難しいから逃げるのではなく、だからこそ徹底的に考え続けることが求められています。
実践はチューニングの連続です。すでに自由な学びに踏み出している方も、これから一歩踏み込もうとしている方も、「結果がついてきているか」という問いを手放さずに持ち続けてください。否定することが目的ではなく、検証し、問い続けることが大切なのです。
すべての子どもが「自分の学びを自分で開花できる場」を実現するために、教師が学習研究という視点を持つことが求められている——それが今日のメッセージです。
落ち着いて、一歩ずつ。自分の教室に学習研究という視点を持ち込んでみてください。