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教育の当たり前を更新する——自律・自立した学習者を育てるためのゲームチェンジ

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「普通の先生が普通にやること」の基準を更新すること——それがゲームチェンジの意味だ。教師の発問で組み立てた45分授業を1日6時間・毎日こなし続けることを「当たり前」とする発想から、けテぶれ・QNKS・心マトリクスで子どもの学びを支え1年間ともに学ぶ教室をつくることを「当たり前」とする発想への転換。最終ゴールと一歩目を分けながら、その先に「自律・自立した学習者」を見続けることの大切さを、教育の現状とともに語る。

最終ゴールと一歩目を混同しない

けテぶれやQNKSを使った学級づくりを語ると、「最初から子どもに全部任せよ」という主張だと受け取られることがある。しかし実際はまったく違う。「最終ゴールと一歩目をちゃんと分けましょう」——それが出発点だ。

一歩目には、手取り足取り教えるフェーズが確実にある。基本の型を丁寧に伝え、動かし方を一緒に確認し、最初の感覚をつかむまでそばで支える。そのこと自体は否定されない。問題にしているのは、そういう一歩目の形が目的化してしまうことだ。

歩みの先に「自立した学習者」という目的地が見えているかどうか——この視野があるかないかが、今日の授業や学級経営の意味を根本から変える。「自分の言うことを聞かせるのがゴール」という近視眼から、子ども一人ひとりが「自分の足で自由をつかみ取っていく」ための土台を築くことへ。その視野の広さが、一歩目の指導に込める意味を変えていく。

子どもたちが納得できるロジックで、自分が今何のためにこれをやっているのかが分かること。そのような現在地の共有があってこそ、一歩目は一歩目として機能する。

自立した学習者とは何者か——自転車の比喩

「自律・自立した学習者を育てる」と聞くと、あらゆる場面で高度な探究をこなし、見方・考え方をフル稼働させ続けるスーパー学習者を想像しがちだ。しかしそれは「目指しすぎ」の罠だと言う。

自転車に例えればわかりやすい。自立した自転車の乗り手とは、BMXで宙返りができる人でも、競輪選手のように爆速で走れる人でもない。目的地に応じて必要なだけ自転車に乗れる人のことだ。駅まで行きたいときに自転車が便利なら乗る——それだけのことだ。宙返りができる子はやったらいい。でも全員にそれを求める必要はない。

自立した学習者の最低限の到達像はシンプルだ。何かを知りたいと思ったとき、その地点まで自分を動かすことができる。できるようになりたいと思ったとき、そのための学習を自分で起動できる。学習という技能の世界において自分の心と体を動かせること——これがゴールだ。

それ以上の深さや熱量は、好きな人が好きなだけ追求すればいい。全員に宙返りを求めてはいけない。到達像をそこまで高くしてしまうと、一歩目の丁寧な支援さえ「まだ足りない」という評価になってしまう。現在地から目的地を正しく描くことが、まず必要な構えだ。

けテぶれとQNKSは「学びの自転車」

その自立した学習者を育てるための道具として語られるのが、けテぶれとQNKSだ。

「そのための自転車がけテぶれQNKSなわけですよ」——前輪がけテぶれ、後輪がQNKS。この2輪の自転車を乗りこなすことができれば、知りたいことに向かって自分を動かすことができる。できるようになりたいことに向かって、自分の頭と体を動かすことができる。

けテぶれとQNKS
けテぶれとQNKS

この2つの道具が担っているのは、「できる・わかる」へ向かう自分の動かし方を学ぶことだ。目的・目標に向かって自分のエンジンを起動する方法を身につけること。これはノート術でも宿題テクニックでもなく、学び方そのものを学ぶための型である。

ただし、けテぶれとQNKSが唯一解だというつもりはない、と本人が断っている。「現時点でそういう世界を指し示せるだけの言葉があまりないので一旦こう言います」というのが正確なトーンだ。重要なのは道具の名前ではなく、子どもが学びを自分で動かせるようになるという方向性そのものにある。現時点でその方向性を一番明確に指し示せる言葉として、けテぶれとQNKSが語られている。

学びのコントローラーとしての型を渡す

子どもが自分で学びを起動できるようになるとはどういうことか。外側から「やりなさい」と言われなくても、自分の中に現在地を確認しながら、目的地に向かって進む力を持つということだ。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

その現在地と目的地は、学習指導要領や教育基本法が示す公的な基準によって大枠が与えられる。「こういうところに行かなきゃいけないのだから、行ってみましょう」——到達すべき地点は示されている。しかしそこへの行き方には自由度がある

自由だけでは何も積み上がらない。だから基本の型を渡す——けテぶれとQNKSだ。この型を使いこなすことで、目的・目標に向かう自分の動かし方を少しずつ体得していく。そのプロセスを1年間かけて積み重ねることが、学びのコントローラーを子どもの手に渡すということだ。それぞれが自分の学びたいだけ学ぶ技術をつけられるようになることが、公教育の中での積み重ねとして見えてくる。

一斉型授業を「標準」にする発想を問い直す

教員養成課程では今も、教師の発問で組み立てた指導案、子どもの発言を板書でひろう展開、45分の流れを構成した授業技術——そういったことが中心に据えられる。それ自体は必要なスキルだし、優れた一斉授業をつくれることは間違いなくすごい技能だ。

しかしその発想を拡張して「1時間目から6時間目まで、毎日、全部の授業を教師が組み立てる」となったとき、これが持続可能かという問いが生まれる。実際、それはかなり持続不可能に近い。教師が毎時間の授業をデザインし、子どもたちの発言をすくい上げ、議論をまとめ、ノートに書かせる——これを全授業でやり続けることは、現在の学校の状況では相当な無理がある。

また歴史的に見れば、一斉型授業が「当たり前」として成立していた時代には、一定の社会的な前提があった。教師の権威が暗黙に了解されていた文化、「先生の言うことには問答無用で従う」という空気が学校全体を支えていた時代。しかし今はそうではない。

この批判は教師個人への否定ではない。社会状況と人権感覚が変わった中で、方法の成立条件を見直すという話だ。「疑い、管理し、否定する」ことを前提とした指導スタイルが成り立っていた状況が変わった。その状況において成立していた方法を、状況が変わったにもかかわらず維持しようとすれば、無理が生じるのは構造的な必然だ。

「信じて、任せて、認める」方向への転換は、教育観の好みの問題ではなく、子どもたちと保護者との関係が変わった現実への応答として捉えるべきだ。その反省の上に、今の学校状況に合った新しい授業の標準像をどこに置くかという問いが立ち上がる。

宿題の見方を変える

この視点の転換は、宿題という日常的な実践にも届く。

「宿題」と聞いた瞬間に、多くの人は作業的な宿題を思い浮かべる——反復プリント、毎日のドリル、決まった量の書き取り。しかしこれをけテぶれの文脈で見直すと、意味が変わってくる。「あれって、けテぶれで言うところの練習なんですよね」というのがそのポイントだ。

毎日ノートをびっちり書ける子はすごい。でも、けテぶれで間違えた字を数個練習するだけという子がいてもいい。大事なのは、子ども自身が自分の間違いや必要に応じて学びを積んでいることだ。こなすべき量をこなすことが目的になっているのではなく、自分の現在地から必要なことを選んで取り組むという構造になっているかどうか。

見方が変わることで、宿題のあり方が変わる。それぞれが自分の学び方で、自分の学びたいだけ学ぶ技術を日常の中で積み上げていく——そのような世界が立ち上がってくる可能性がある。

「当たり前」を更新するゲームチェンジ

「無思考に、普通の先生が普通にやることってなんだろうね、ということを更新しにかかっているようなムーブメントを今起こそうとしている」——これがゲームチェンジの正確な意味だ。

新しいメソッドを「足す」という話ではない。教育の入口——「教室とは何をするところか」「子どもたちは教室でどう過ごすものか」という最も基本的な前提そのものを更新すること。

一斉型授業を組み立てる技能を磨き続けることが「基盤」とされている現状から、けテぶれ・QNKS・心マトリクスで子どもの学びを支え、1年間ともに学ぶ教室をつくることが「基盤」とされる状況へ。一斉授業を見事に組み立てられることはすごいが、それはこの基盤の上に積み上げる応用技術だという位置づけになる。その位置関係の逆転こそが、ゲームチェンジという言葉に込められた意味だ。

この転換は、特別な理念を持つ一部の教師だけが担うものではない。「普通の教師が普通にやること」の標準が変わることで、公教育がボトムアップで更新されていく。教育の当たり前を更新するムーブメント——その射程の広さが、この実践が一つの学級を超えた意味を持つ理由でもある。

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