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小規模校の未来を拓く「全校算数」という挑戦

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少人数校や複式学級を抱える学校では、学年ごとに授業を分けて進めることが当たり前とされてきました。しかし、同じ場を全学年で共有しながら算数を学ぶ「全校算数」という実践構想が、そのあり方を根本から問い直しています。学習内容は学年によって異なっても、学び方は全学年・全世代で共有できる——この一点を軸に、小規模校が単なる縮小問題の象徴ではなく、これからの教育モデルの最先端になり得るという見立てを、実際の参観経験をもとに語ります。

「渡り」という不自然さ——分けることへの違和感

複式学級の運営では、「渡り」と呼ばれる方法がよく使われます。2つの学年を同じ教室に入れながらも、机の向きを背中合わせにしたり、2枚の黒板を使って学年ごとに別々の授業を進めたりする方法です。

この方法に、強い違和感を覚えます。

1学年しか違わない子どもたちが、なぜわざわざ分けられなければならないのか。同じように学んでいる者同士が、背を向け合って過ごすことにどんな意味があるのか。学習効率という観点からも、人間関係という観点からも、渡りはもったいない選択ではないかという問いが、全校算数という構想の出発点にあります。

三重県のある小規模校での参観がその考えを強くしました。その学校では4・5年生の複式学級において、学年で机をきっちり分けるのではなく、子どもたちが混ざりながら同じ場を共有して算数を進めていました。学習内容こそ学年ごとに異なりますが、同じ空間にいるからこそ、分からなければ聞きに行けるし、困っている子がいれば自然に教えようとする。そして教えようとする瞬間に、高学年の子は自分の理解のあやふやさに気づく——そんな姿が随所に見えていたといいます。

全校算数とは何か

「全校算数」とは、1年生から6年生までの全校児童が、それぞれ自分の教科書・ノート・ドリルを持って同じ場所に集まり、算数の学習を行う時間のことです。授業というよりも「学習の場を共有する時間」と言った方が近いかもしれません。

従来のように「先生が前に立って全員に同じ内容を教える」のではありません。それぞれの学年の子どもが、それぞれの学習内容に取り組みながら、同じ空間に存在します。先生たちも同じ場に参画し、特定の学級の担任として動くのではなく、全体を見渡しながら必要な子どもに関わっていきます。

「みんなでみんなを見る」——この一言が全校算数の本質を言い表しています。

全校で100人に満たない小規模校であれば、全員の顔が分かり、関係性もつかめます。担任の先生でなくても声をかけやすく、子どもたちも誰に相談すればよいかを感じ取りやすい。そういう条件が整っているからこそ、全校算数は機能しやすいのです。

学習内容は違っても、学び方は全員で共有できる

「学年ごとに学習内容がバラバラだから、全学年を一緒にするのは難しい」——これが、この構想に対する最もよく聞かれる反論です。

しかし、ここに核心があります。学習内容は学年で違っても、学び方は全人類で共有できる。

目標を立て、取り組み、確認して、次に生かす。このプロセスは、1年生でも6年生でも、通常学級の子どもでも特別支援学級の子どもでも、本質的に変わりません。学びのプロセスを自分で動かす力——自分の学びを自分でコントロールする力は、学習内容のちがいを越えて全学年で育てることができます。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

この学校ではすでに4・5・6年生にけテぶれが導入され、自由進度的な学習にも取り組んでいました。高学年の子どもたちは「自分の学びを自分でコントロールする」経験をそれなりに積んでいる。その高学年が同じ場にいることで、まだその経験が少ない低学年の子どもたちにとっても、「学び方の文化」を肌で感じる機会になります。

全校算数が目指しているのは、教科の知識を横断的に共有することではありません。どう学ぶかという方法と姿勢を、学校全体の共通語にすることです。そこを切り離して考えることが、この実践のカギになります。

小規模校だから生まれる安心感

全校算数の成立には、「全員の顔が分かる」という小規模校ならではの条件が大きく関わっています。

子どもは、知らない人に相談するのは怖い。でも顔を知っている人、関係性が見える人には聞きやすい。小規模校では、学年を越えても全員がそういう関係の中にいます。6年生に何かを聞くことが、知らない「お兄さん・お姉さん」への声かけではなく、「あの人に聞けばいい」という自然な行動になりやすい。

先生側にとっても同様です。全員の様子を把握しているからこそ、どの子どもがどこで躓いているか、誰が誰を助けられそうかを、学年の枠を越えて読み取ることができます。担任の枠で子どもを見るのではなく、学校全体の子どもたちの学習を、複数の大人が見取る体制が自然と成り立ちます。

多様な学年が混在する空間は、ともすると不安定に見えますが、実際には安定しやすい。同質な集団には甘えや馴れ合いが生まれやすいのに対し、年齢も経験も違う他者がいる空間では、適度な刺激と相互作用が持続します。学習空間における多様性は、豊かさの条件でもあるのです。

まずは単元末の復習から——安心して任せられる場面を選ぶ

全校算数を実施するにあたって、最初からすべての学習内容を子どもだけで進めさせることは現実的ではありません。特に低学年の子どもにとって、教科書を自分で読み解いて問題を解くという一連の作業を、いきなり完全に自立して行うことは難しい。丸付けひとつとっても、まだ難しい子はいます。

ここを飛ばしてしまうと、先生にとっても子どもにとっても、保護者にとっても不安が生まれます。「教えていないのに任せて大丈夫なのか」という感覚は、無視できない問いです。

だからこそ、導入のタイミングとして最も適しているのは単元末のまとめの時間です。

単元末であれば、その単元で扱う内容はすでに授業の中で一通り学習済みです。「知識を伝えていないのに任せる」という不安はありません。子どもたちはすでに学んだことを、自分のペースで復習したり、ドリルや練習問題を解いたりするだけでいい。そこから始めれば、先生も子どもも「任せる・任される」という経験を、安心できる範囲で積み重ねることができます。

最初は「丸付けを自分でやってみる」という目標でも十分です。ステップを踏んで、少しずつ「子どもたちだけで進められる範囲」を広げていく。その積み重ねが、やがて学習全体を自分でコントロールする力へとつながっていきます。

お膳立てのしすぎに注意する

一方で、導入にあたって別の落とし穴もあります。

「安心してできる場」にしようとするあまり、先生が環境をあまりにも整えすぎてしまうと、今度は子どもたちが困らなくなります。困らなければ他者に頼る必要もない。同じ場に全員が集まっているのに、それぞれが黙々と自分の作業をこなして「終わりました」で解散——という状況になりかねません。

場を共有すること自体が目的ではなく、その場で学び合いが起こることが本来の意図です。しかし、「すでに全部分かっている状態」でその場に来ると、他者と関わる必要性が生まれません。これは先生の意図のよさが、かえって実践の本質を薄めてしまうケースです。

全校算数が機能するのは、「分からないことがある」「困っている」という状態が自然に存在するときです。その状態で、助けを求めていい場、声をかけていい相手が周りにいる——そういう環境があって初めて、協働的な学びが生まれます。安心の設計と、余白の設計の両立が、実践者の腕の見せどころになります。

打ち上げ花火で終わらせないために

全校算数を一度やって終わり、という打ち上げ花火で終わってしまうことへの懸念は、実践を提案した側も強く持っています。

全校算数が子どもたちの学習に本当に役立つ場として位置づけられなければ、継続はありません。週に一度でもよい。その時間があることを子どもたちが「あの時間に聞けばいい」と自然に頼りにするようになることが、実践の定着を支えます。

例えば、週に1回の全校算数の時間があれば、日常の自学の中で「分からないことが出てきたけど、この時間に聞けばいい」という見通しが生まれます。その見通しがあることで、日々の自学の質も変わってくる。全校算数の時間が点として存在するのではなく、子どもたちの学習サイクルの中に組み込まれることが重要です。

そのためにも、教師同士で「今日の場がどんな状態だったか」「どこに手応えがあったか」を振り返り、次の時間の設計に生かしていく営みが欠かせません。構造をつくって終わりではなく、場を育てていく意識が、継続の鍵になります。

文化として保存する——テセウスの船という発想

全校算数の最も奥深い価値は、「学び方の文化を学校に保存できる」という点にあります。

担任制の学級では、1年間の担任の先生とのやり取りの中で学習文化が育まれますが、学年が替わって学級が解散すると、その文化の多くは消えてしまいます。次の学年でゼロから積み上げ直すことになる。これがいかに非効率かは、現場の先生ならばよく分かるはずです。

しかし、学校全体という単位で場が維持されていれば、話は変わります。毎年、数人が卒業し、数人が入学してくる。しかしその場自体は維持され、文化は場に宿り続ける。新しく入ってきた1年生は、その場の空気から「ここでの学び方」を自然と吸収していきます。転入してきた子どもも、その場の文化から学べます。

これはテセウスの船に似た発想です。部品は少しずつ入れ替わっていくが、船そのものの形と機能は保たれ続ける。子どもも先生もやがて入れ替わるが、その場に宿った「学び方の文化」は継承されていく。

長野の伊那小学校が、まさにそのような学校として知られています。先生が赴任してきても、その学校の文化から学ぶ。転入してきた子どもも、その空気に包まれながら育つ。「学習感」「勉強感」とでも言うべき、学びへの姿勢や感覚が、場所そのものに保存されているのです。

全校算数が目指しているのは、この「文化の継承」です。子どもたちが主体的に学ぶ空間が、特定の年度や担任に依存せず永続していく——そのデザインを実現できる可能性が、小規模校にはあります。

小規模校は制約ではなく最先端

子どもの数が減り続ける時代、小規模校・複式学級・少人数校は増えていきます。単学級の学校、全校児童が10人台という学校も珍しくなくなるかもしれません。

そのとき、1学年に1人の担任が縦割りのまま「学年ごとに分けて教え続ける」という構造を維持することが、果たして妥当なのかを問い直す必要があります。子どもが2人しかいない学年に先生が1人つき、2対1で毎日過ごすという環境が、本当に教育的に豊かなのかどうか。

小規模校の全校算数は、「仕方なく混ぜる」のではありません。意図的に場を設計し、学び方の文化を学校に宿らせることで、日本の教育の新しいモデルをつくろうとする実践です。

大規模校のモデルを縮小して当てはめるのではなく、小規模だからこそできる豊かな学びのモデルを先につくる。そしてそれが、やがて全国の教育の参照点になる。渡りのような分断の発想ではなく、「みんなでみんなを見る」という発想で場を設計する学校が増えていけば、それは確かにこれからの教育の最先端になり得ます。

学習方法は全学年・全世代で共有できる。この一点を起点に、小規模校という条件を制約としてではなく、可能性の場として捉え直す実践がいま、静かに始まっています。

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