兵庫県全土から教師が集まる学力向上シンポジウムに参加し、感じた問いを整理します。①「個別最適な学び」は、低位層への追加支援だけを指すものでしょうか。②デジタル教科書の機能を選べることが、「自立した学習者」の育成を意味するのでしょうか。③全県規模の研修が、参加者の行動変容につながっているでしょうか。この問いを通じて、学力向上の議論を「遅れた子を補う」という枠から、「すべての子が自分の学び方を持つ場をつくる」という視点へ広げることを考えます。最後に、けテぶれの認知が広がりつつある今、現場の教師がみずからの実践を発信することが、ボトムアップ改革を加速させるという話をします。
全県から集まる場で、見えてきたこと
ある日、兵庫県全土から教師が集まる「学力向上シンポジウム」に参加する機会がありました。南部の会場まで、遠い地域からは車で4〜5時間かけて来られた先生方も少なくなかったようです。
そこで発表されていた実践は、どれも先生方が懸命に取り組んでこられたものです。その努力と誠実さは疑いようがありません。ただ、全県規模という場の射程や、参加した先生方が何を持ち帰れるかという視点で眺めたとき、「もう一歩、踏み込めるのではないか」と感じた部分が率直にありました。発表された内容への批評というより、場全体の構造に対する問いとして、以下に整理してみます。
「個別最適な学び」はだれのための学びか
低位層への支援は価値がある、しかし——
小学校の実践発表では、学習に遅れがちな子どもたちに対して放課後学習を組み、翌日の授業内容を先に教えることで手が挙がる率が上がったという報告がありました。子どもが授業に前向きになること、学校として組織的に取り組むことは、本当に素晴らしいことです。
ただ、その取り組みを「個別最適な学び」の代表例として全県研修で共有することには、少し立ち止まって考える余地があります。
「困っている子」は、低位層の子だけではありません。授業の内容が簡単すぎて手持ち無沙汰な上位の子も、学習の中で自分の問いを持て余している子も、それぞれの困り感を抱えています。個別最適な学びとは、「どの子にとっても、その子の現在地から最適な学びが実現される仕組みをつくること」ではないでしょうか。特定の層への補完策ではなく、全員の現在地を起点に学びを設計するという発想の転換が、この言葉の核心にあると考えています。
「個別」は「バラバラ」ではなく、協働的な学びとセットで
もう一点、見落としてはいけないことがあります。個別最適な学びは、それぞれが孤立してバラバラに学ぶことを目指しているわけではありません。個別最適な学びは協働的な学びと一体のものとして捉える必要があります。
子どもそれぞれが自分の現在地から学びを進めながら、互いに交わり、支え合い、刺激し合う場をつくること。この両輪を意識しなければ、「個別化」は孤立化に転じてしまいかねません。個別と協働、この二つを切り離して考えないことが、学びの場を設計するうえで大切な視点です。
「機能を選べる」ことと「学び方を持つ」こととは違う
複線型授業の向かう先を問う
中学校の発表では、学習者用デジタル教科書を使った複線型の授業が紹介されていました。子どもたちがそれぞれのペースで学習を進め、デジタル教科書のさまざまな機能を活用しながら学ぶ方向性は、一斉授業とは異なる豊かさを持っています。道具として使い倒すという発想は大切にされるべきものです。
ただ、ここでも一つ問いを立てたくなります。「デジタル教科書の機能Aか機能Bか機能Cを選べる」ことと、「自分の学び方を持つこと」は、同じことでしょうか。

自立した学習者とは、端末の便利な機能を使いこなす学習者のことではないはずです。自分の現在地を把握し、今何を学ぶべきかを判断し、学びを自分で進めていける人——そのような力を育てることが、学習者の自立につながると考えています。道具はその力を支える補佐役です。道具の使いこなしと学びの自立とを混同してしまうと、手段が目的にすり替わってしまいます。
学び方を持つとは、与えられた選択肢の中から選ぶことではなく、自分で問いを立て、試し、振り返ることができるということです。 その力をどう育てるかという問いが、ICT活用の設計に先行するべきではないかと感じました。
教科専門の視野を超えて
後半のパネルトークでは、国語・算数・外国語といった教科の専門家が登壇し、それぞれの領域での深い知見が語られました。算数であれば、PISA型の問題に適切に対応するための本質的な理解についての話など、専門性の高い議論でした。
もちろん、教科ごとの深い学びは大切です。しかし、「学力向上」という全県的な課題を前にしたとき、教科専門の窓だけから眺めていては見えてこないものがあります。学力を支える土台に何があるか、学び方そのものをどう育てるかという視野を、教科の知識と並べて持つことが必要です。
「学び方を学ぶ」という視点——どの子がどの教科を学ぶ際にも共通して必要な、学習の見方・考え方を育てることへの言及は、この日のパネルではほとんど見えませんでした。教科の縦割りを超えて、学ぶことの横断的な力をどう育てるかという問いは、まだ議論の中心には入ってきていないようです。その問いが中心に据わったとき、学力向上の議論は初めて全員に届く構造になると感じています。
研修の場の設計を問い直す
内容だけでなく、会の構成そのものについても考えさせられました。
遠方から何時間もかけて集まってきた先生方が、3時間ほど黙って座って聞き続けるだけという場の設計。休憩時間に聞こえてきた声は、「今の時代はこうなのか」「あんなの、自分にはとてもできる気がしない」というものでした。
どれだけ優れた実践や深い知見が紹介されても、聞いた直後に「試してみたい」という気持ちが湧いてこなければ、参加者の行動は変わりません。 研修の設計が、参加者をただの受信者に留めてしまうとき、その場は「届けた」という体裁を整えただけになりかねません。
研修そのものが、「参加者が自分の現在地を起点に動き出せる場」として設計されているかどうか。これは、学校現場での授業設計とまったく同じ問いです。形式を変えるだけでなく、参加者の内側に何かが動き出す構造にすること。その問いは、学力向上シンポジウムにこそ、真っ先に当てはまるかもしれません。
発信が、改革を加速させる
けテぶれの認知が広がってきた今
帰り道、久しぶりに会った先輩から「ずっと聞いてるよ」と声をかけてもらいました。また別の先生から紹介してもらった方には「主人がずっとけテぶれって言っています」という言葉をいただきました。
こうした出会いを重ねながら感じるのは、けテぶれという考え方の認知が、少しずつ確実に広がってきているということです。発信を続けていると、やがて「投げれば誰かに当たる」という手応えが生まれてきます。今は、その感触が実感できるようになってきた時期だと思っています。

石を一個ずつ積んでいくことが、唯一の道
教育の改革をトップダウンで一気に広げることは難しい。本当のボトムアップ改革とは、橋を架けるために石を一個ずつ積んでいくようなプロセスです。 一人の先生が実践して結果を出す。その成果を職場の中で、あるいはSNSで、自分の言葉で語る。その積み重ねが、少しずつ周りを動かしていきます。
実践を続けてきた先生方の中には、すでに子どもたちの変化を実感している方がたくさんいらっしゃいます。その経験を自分の中だけに留めておくと、いつまでも広がりません。「けテぶれをやりましょう」という押し売りは逆効果です。大切なのは、自分がいいと思っていることを、自分の言葉で言い続けることです。
職場の中での何気ない一言でも、SNSへの短い投稿でも、「こんなことを試したら、子どもがこう変わった」という具体的な語りは確実に誰かに届きます。学力向上の議論を、全員の現在地を起点にした学びへと広げていくために——そのプロセスを動かすのは、現場にいる教師一人ひとりの実践と発信だと思っています。