個別最適な学びの具体化に現場が試行錯誤するなか、けテぶれ(計画・テスト・分析・練習)は「学び方そのもの」を子どもに渡すアプローチとして注目されています。本記事は、けテぶれを提唱する葛原祥太氏の対談をもとに、個別最適と協働の両立・自由進度学習の本質・教育改革のボトムアップという視点を整理したものです。自由を渡す前に「学ぶためのスキル」を共有することの重要性と、現場の教師が明日から実践を変えることの意味を考えます。
「学ぶ・考える」はブラックボックスになっていないか
公教育を取り巻く状況は、楽観できるものではありません。不登校の数は増え続け、若い世代が未来に希望を見出しにくくなっているという現実があります。子どもたちにとっての社会が学校であるうちは、こうした数字と教育の現場は切り離せない関係にあります。
こうした危機感を背景に、葛原氏が問題の核として指摘するのが「学び方・考え方のブラックボックス化」です。個別最適な学びが推進され、「自分で自由にやってみよう」という方向性が打ち出されたとき、多くの教室では何が起きているでしょうか。できる子どもはますますできるようになる一方、学び方の分からない子どもは取り残される。そして、できる子ども自身も「なぜ自分はできるのか」を説明できず、「感覚でやればできるよ」としか言えない。
学ぶとか考えるというところが、本当にブラックボックスに隠されてしまうのです。
このブラックボックスを開く方法が、けテぶれという学び方の言語化です。
けテぶれとは何か——学び方を見える形に

けテぶれは「け:計画、テ:テスト、ぶ:分析、れ:練習」の頭文字を取ったものです。葛原氏はその肝をこう説明します。
> 勉強できる人はもう無意識に誰でもやっているようなサイクルであると。それを子どもたちが分かるように言語化した、キーワード化したって感じですね。
計画でその日の学習を見通し、テストで実際に学習を実行してみて、分析でその結果を振り返り足りないところを明らかにし、練習でそこに集中する。このけテぶれのサイクルは、できる人が自然と行っている学習の構造を、誰にでも見える言葉に変えたものです。
このサイクルがもたらすのは、学習の手順を覚えることだけではありません。「今自分はどこにいて、次に何をすればよいか」という現在地と次の一歩を、子ども自身が掴める状態を作ることです。自分でやってその結果を自分で受け止め、次の一歩を考えてまた自分でやってみる——葛原氏は、このサイクルそのものが学ぶことの面白さの核心だと言います。失敗も成功も、次へのヒントとして意味を持つ。「これゲームと一緒」と子どもたちが言う感覚が、ここにあります。
大切なのは、けテぶれが特定の教科や授業形式に限らず、全教科で使える「学び方のOS」として設計されているという点です。算数でも、国語でも、理科でも——学び方という抽象レベルで見ると、どの教科でも同じ構造が働いています。葛原氏はこれを「努力の基盤というか、OSのようなことを提示して、その上でどう先生なりにアップデートするかを支援したい」と語っています。
個別最適な学びが成立する条件

「個別最適な学びを実現しよう」という方向性は、今の教育界で広く共有されています。しかし現場では「自由にやっていいよ」と言うだけでは、子どもによって結果が大きく分かれてしまいます。葛原氏はこの問題の本質をこう指摘します。
> 根本的なスキルをちゃんと提示しないままに自由を渡してしまうと、本当にできる子はできる、できない子はできない。できる子たちも、どう協働していいか分からずに孤立的にタブレットをパチパチやって終わるということになってしまう。
個別最適な学びは、自由を渡すだけでは成立しない。学ぶ・考えるための根本的なスキル——学びのコントローラー——を子どもたちと共有して初めて、それぞれが自分のペースで学んでいける状態が生まれます。
ここで言う「学び方を学ぶ」とは、計算や読解の技術の一段上にある「どうやって自分の学習を進めるか」という視点です。けテぶれはその視点を子どもが持てるよう設計されています。方法を指示するのではなく、方法を選ぶための枠組みを渡す——これが、個別最適な学びを機能させる前提条件です。
個別最適と協働は、同じ場で同時に起きる
個別最適な学びと協働的な学び。この二つは一見すると相反するように見えます。「自分のペースで進むこと」と「仲間とつながること」は、同じ教室で両立するのでしょうか。葛原氏の答えは明確です。
> 個別最適で協働的な学びっていうのは本当に相反するものじゃなくて、結構裏表というか、どちらも発生していくような、同時に発生していくようなものなんじゃないかな。
子どもたちが学習者として自立し、自分で勉強ができるようになり、学ぶことが面白いと感じられるようになってくると——そうした子どもたちが30人同じ場所にいるというだけで、自然と協働が発生します。
そのカギとなるのが「共通言語」の存在です。けテぶれという共通の学び方を持つことで、子どもは「自分だけが違うことをやっている」という感覚から解放されます。みんな同じルールの中で、それぞれが自分の学びを積み上げている——この文化が、クラスの中に参加感と安心感をもたらします。個別であることと、仲間とつながっていることが、同じ一つの場で同時に実現するのです。
自由進度学習は「放置」ではない

自由進度学習という言葉が広まる中で、一つの誤解が生まれることがあります。「子どもが自由に進めるなら、教師は教えなくてよいのではないか」という誤解です。
葛原氏はこれをきっぱりと否定します。
> 自由進度学習——とにかく放置するってこととは違うんですね。その中で教師として何を教えるかっていうことがやっぱり問われて、教えなくていいには全くならないと思っていて。
教師が問われるのは「何を子どもに教えるか」という問いに対するより深い答えです。教科の内容を丁寧に教えることはもちろん大切ですが、その一歩奥にある「上手に学べるようになること」に焦点を当てた指導が、自由進度学習の設計の核心です。
自由は、学び方のスキルを共有した上で初めて機能するものです。教師はその共有者・伴走者として、これまで以上に意図的な関わりを求められます。何もしなくてよいのではなく、何をすべきかがより明確になる——それが「学び方を教える」という教師の役割の深化です。
けテぶれが不登校の子どもに開く可能性
対談の中で、けテぶれの実践が不登校経験のある子どもに変化をもたらした具体的なエピソードが紹介されました。ある教室で、長らく学校に来ることが難しかった子どもが、じょじょに学びとの関わりを取り戻していった事例です。その変化を支えたものとして、葛原氏は次のように語ります。
> あなたが学んでいいんだよ、あなたのペース、あなたの発想で学べるんだよ、そういう場所なんだよっていうこととともに、こういうやり方をみんなと共有できているよっていう共通言語としてやる。つまり自分だけが好き勝手やってるんじゃなくて、みんな同じルールの中でみんなが自分の学びを積み上げていってるみたいな文化を作ると、参加感というか自分だけが外れてないというか。
自分のペースで学んでよいという許可と、みんなと同じ場にいるという安心感。この二つが重なることで、学びへの再接続が起きた。ノートをキラキラした目で見せながら「これで楽しくなった、学校来れるようになった」と語る子どもの姿が、その可能性を示しています。
ただし、不登校の状態には多様なグラデーションがあります。けテぶれを万能の解決策として語ることは適切ではありません。大切なのは、公教育の中での変化も、公教育の外で「自分のペースで学んでよい」という場が広がることも、それぞれが子どもたちにとっての選択肢になり得るという視点です。学び方を共有し、自分で学んでよいと感じられる場をつくることが、子どもが学びと再び出会うための土台になります。
ボトムアップ改革——半径5メートルから始まる変化
教育改革を語るとき、「文部科学省や教育委員会が動けば変わる」という期待は自然に生まれます。しかし葛原氏は、トップダウンによる手法の一律導入に対して、明確な懐疑を示します。
> 手法をトップダウン的に下ろしていくっていうことが本当にうまくいかないと思っていて。(中略)納得できていない人とか、もうその世界が描けない先生はもう全然入っていけないんですね。
納得していない先生に「今年からやりましょう」と強制しても、実践は根付きません。逆に、ピンときた先生はいきなり素晴らしい指導ができることもある。この違いを生むのは、言語化されたノウハウとの出会いによって、「自分の実践とつながる」という感覚が生まれるかどうかです。
けテぶれの広がりはそのように進んできました。発信を見て一人の先生が実践を始める。子どもたちの姿が変わる。それを見た周囲の先生が「見に行かせてください」と動き出す。関西では、実践している教室に他校の教師が自主的に見学に来るという光景まで生まれています。
> 子どもたちの姿で周りの先生が納得していくっていうような、着実なというか、地に足のついたというか、そういう広がり方が今見えていてそれがすごくいいなと思っています。
同心円状に、半径5メートルから。これが葛原氏の言う「究極のボトムアップ改革」です。トップダウンで一律に下ろすのではなく、納得した実践者と子どもの姿が証拠となって、周囲を動かしていく。7年間の発信を経て、今その動きが全国で同時多発的に起きています。
教師の明日の一歩が、日本の教育を変えた瞬間になる
中央からの方向性と、現場の具体的な一歩。葛原氏はどちらも必要だと語ります。「主体的・対話的で深い学び」という大きな方向性が上から示されることは、現場の実践者の意識を強く動かします。学習指導要領に書かれていることの意味が、実践者の中でリアルに感じられるようになる——その橋渡しを、言語化されたノウハウとしてのけテぶれが担う、という構図です。
しかし、その方向性が現実の教室を変えるためには、もう一つの力が必要です。
> それぞれの先生が明日からの授業で一歩何かを変えるっていうのは、それはそのまま日本の教育が変わった瞬間なのです。
最先端にいるのは文科省でも研究者でもなく、今日の教室にいる教師です。その一人ひとりが、学び方を子どもに渡すための具体的な手立てを持ち、明日から試してみること——それが積み重なっていく先に、公教育の実質的な更新があります。
けテぶれは、そのための言語であり、道具であり、教師と子どもをつなぐ共通の地図です。完成品ではなく、現場の先生たちが子どもたちの姿を見ながら磨き続けるOSとして、今もアップデートが続いています。個別最適な学びの「どうすればいい?」に対して、明日から試せる具体的な一歩がある——それが、けテぶれという実践の出発点です。