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学習と探究は、分けるより一体で回す

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渋谷区が午後を全て探究の時間にするという改革を打ち出しました。「そこまでやっていいのか」という問いを開いてくれた意味で、この試みは大きな価値を持っています。一方で、学習と探究を時間で分けてしまうと、そもそも「良い学び」とは何かという本質からずれていく危険があります。学習と探究は、よい学びの中で連続し、相互に発生するものです。そして午前の教科学習で子どもが自分の学びをコントロールできるようになることが、午後の探究を地に足のついたものにする前提条件です。けテぶれ×QNKSを使えば、既存の教科・時間割を変えることなく、全時間を「学習しながら探究している」状態として設計できます。大きな制度改革を待つよりも先に、今ある構造の中でできることがあるという視点を、この記事では示します。

渋谷区の改革が開いた「上限解放」

渋谷区が午後の時間を全て探究にするというニュースが出たとき、最初に感じたのは「すごい」という感嘆と、「それ、やっていいのか」という驚きの混在でした。

ここで注目したいのは、改革の設計そのものよりも、改革が持つ社会的な機能です。渋谷区がそこまでやってくれたことで、他の自治体や教室も「そこまでのことをやってもいいのだ」という上限が外れます。

これは教室でも日常的に起きることです。宿題で色ペンを使ってきた子どもがいたとき、「持ち込みは禁止でも、家で使う分にはいい」と一言言うだけで、周りの子の上限が外れ、試す子が増えていく。渋谷区の改革はそれと同じ構造で、社会スケールの上限解放として機能しています。

だからこそ、渋谷区の挑戦は設計の賛否を超えて、それだけで価値があります。改革が動き始めれば様々な現象が生まれますが、そこから他の学校や自治体が学び、次の一手を打っていける。その動きそのものが、公教育のボトムアップ改革の実体です。現場にいる一人ひとりは、そこから学びつつ、今ある構造の中で何ができるかを問い続けることができます。

「学習と探究」は、一つの良い学びを切り出した分析語である

渋谷区の改革は「午前を学習、午後を探究」という時間割上の分割でした。ここで立ち止まって問いたいのは、学習と探究はそもそも切り分けられるものなのか、ということです。

学習している最中に「あれ、なぜだろう」という問いが生まれ、それを深掘っていく——これは探究です。探究しているうちに「この領域はまず知識を整理しなければ先に進めない」と感じ、学習的な活動に切り替える——これも自然な流れです。学習と探究は、よい学びの中で連続し、相互に発生しています。

別の言い方をすれば、「良い学び」というものが先にあって、それを分析すると学習的な側面と探究的な側面が見えてくる、ということです。学習と探究は、良い学びを理解するために切り出した分析の語彙であって、別々の時間や活動として切り分けられる実体ではありません。

問題は、伝達の中でこの分析語が現実に固定されていくことです。「学習と探究の2つが大切だ」が「学習の時間と探究の時間を別々に確保しなければ」になり、やがて「午前は学習、午後は探究」というデザインになる。ねじれが何段階も積み重なっています。

個別最適な学びと協働的な学びも、同じ構造で捉えられます。「個別か協働か」ではなく、良い学習空間には個別的な思考と協働的な思考が同時に立ち現れています。一斉指導と自由進度学習も同様です。みんなが別々のことをやっているのに、みんなが同じ問いの方向を向いている——そういう空間は実際に存在しています。

分析的な思考は理解を助けてくれますが、やればやるほど「元の一つ」から離れていくベクトルを持っています。 渋谷区の改革を評価しながらも、そこに注意の目を向けておくことが必要です。

午前の教科学習が、午後の探究を支える基盤になる

「午後を探究の時間にする」という設計を生かすためには、午前の教科学習のあり方が鍵を握ります。

午前中、子どもたちが受け身に「学ばされている」状態のまま午後の探究の時間に入ると、どうなるでしょうか。抑圧されていたエネルギーは行き場を失い、地に足のつかないふわふわした活動になりやすい。それはかつて「活動あって学びなし」と反省されてきた姿の再現です。

さらに本質的な問題があります。自分のやるべき学習すら自分でコントロールできない子どもが、もっと広く自由な探究の世界で自分の思考をコントロールできるはずがない、ということです。主体的に学びに向かう力は、場面を選ばず発揮できる資質能力として育てなければ意味がありません。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

教科学習の中で粘り強く取り組む経験、学習のペースや集中力を自分で調整する経験、一人で考える場面と他者と考える場面を使い分ける経験——こうした積み重ねが、自己調整できる学習者を育てます。学習指導要領が「主体的に学習に向かう態度」として示しているものは、まさにこの力です。

午前の自由進度的な学習とは、放任ではありません。自分の現在地を見つめ、次の一歩を自分で考え、自分で踏み出すことの積み重ねです。自分の学習コントローラーを持つ経験が、より広い問いの世界でも自律した思考を可能にします。そこを整えることなく、午後だけを探究の時間にしても、探究が育つ土台が整っていないことになります。

探究の質は、仮説検証の「回転数」で決まる

「午後を探究に使う」と決めたとして、次に問うべきは「探究とは何か」です。

シンプルに言えば、仮説を立て、検証し、またその結果をもとに仮説を立て直す——この繰り返しです。探究の質を決めるのは、この仮説検証サイクルをどれだけ多く、密に回せるかです。

たとえば「街からゴミを減らすにはどうすればいいか」というテーマを立てたとします。意見書を市役所に提出する、地域の方を招いてインタビューする——一見「探究的」に見えますが、そこで探究は終わってしまいます。仮説を検証する主体が自分たちではなく、相手に移ってしまっているからです。

これは、無人島を探検するために船を出して、砂浜に一歩だけ足跡を残し、そのまま船に戻ってくるようなものです。島の奥に「自分なりの答え」という宝があるとすれば、一歩では届きません。仮説を立て、その仮説を自分たちの手で検証できるかどうか——検証可能性がどこまであるかを問うことがものすごく大切です。

「街のゴミをなくす」は遠く感じますが、「教室のゴミをなくす」なら今日から動けます。「学校中に挨拶を広める」ではなく「まず自分はどうか」から始める。テーマを自分たちの現在地まで降ろすことで、仮説検証の回転数を保証できます。一回の検証で終わらせず、何度も繰り返す中に、本物の探究が育ちます。

大きなテーマを掲げることは入り口として構いません。しかし一歩目から「検証できない」状態になるなら、すぐに検証可能な小さな問いに降ろし直す必要があります。やってみる⇆考えるの往還の密度が、探究の質を決めます。

けテぶれ×QNKSで、今ある構造の中で「学習しながら探究する」

では、時間割を組み替える権限のない一担任は何もできないのか。そうではありません。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

けテぶれとQNKSを組み合わせると、今ある教科・時間割を何も変えることなく、全時間を「学習しながら探究している」状態として設計できます。

たとえば漢字の学習をけテぶれで進める子どもは、計画してテストして分析して練習するサイクルを回しながら、同時に「自分なりの学び方とはどういうものだろう」という問いを常に追い続けています。けテぶれを回しているうちに疑問が生まれ、QNKSの問いが立ち上がる。QNKSで仮説が固まれば、それを検証するためにけテぶれのサイクルに移行する。学習と探究は、このように両輪として同時に回り続けています。

この構造は主体を変えて言い換えることができます。「漢字の学習をしながら自分なりの学び方を探究している」とも言えるし、「自分なりの学び方を探究するために漢字の学習をしている」とも言える。どちらから見るかの違いだけで、活動は一つです。これが「学習であり探究である」という状態の実体です。

算数をやりながら「自分なりの算数の学び方とは何か」を問い続けている。国語をやりながら「自分はどんな読み方をしているのか」を探っている。こうして「自分なりの学び方」を追い続けると、その先に「自分とはどんな学習者なのか」という問いが生まれます。それはやがて「自分とは何か」という自己探究へとつながっていきます。

多種多様な教科や活動の中で見えてくる自分を集め、眺め直すことで、「本当の自分を一つ見つけなければ」という呪縛から解放され、どんな自分でもあり得るという自由へ向かう——この構造が、けテぶれ×QNKSの持つ射程です。学び方の見方・考え方が育つ先に、自己探究がある。

担任は今ある構造の中で、全時間を変えられる

渋谷区の改革を待たなくても、担任は今日から動けます。

現在の教科の学習過程、教科書、時間割——これらを何も変えることなく、全時間を「学習かつ探究」にするアプローチがけテぶれ×QNKSです。加えて総合的な学習の時間があれば、そこではさらに焦点化された探究を週に数時間設けることができます。全教科の学びを毎時間積み重ねたうえで、それを総合的に掘り下げる時間が2時間あれば、十分に機能します。探究の時間が午後丸々なくても、毎日の教科学習の中に探究が根付いていれば、週2時間の総合で「全1週間を探究として総合する」ことができるのです。

大きな制度改革がなければ変えられない、という発想に陥りたくありません。「上が変えてくれないから自分たちはいつまでも変えられない」ではなく、今ある構造でできることを一つずつ積み重ねることが、現場の担任にできる公教育のボトムアップ改革です。

渋谷区の挑戦は、その動きを社会スケールで可視化した大きな一歩です。そこから学びながら、それぞれの教室で今日から踏み出せる一歩がある。学習と探究を本来の一体として捉え直し、けテぶれ×QNKSを手に、子どもたちが学びのコントローラーを握って自分の学びを前に進める授業を、今ある時間割の中でつくっていくことができます。

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