コンテンツへスキップ
サポーターになる

学習科学から見る「けテぶれ」と「QNKS」の本質──スキーマ・スクリプト・メンタルモデルという視点

Share

知識はコピー機のように外界を写し取るのではなく、経験の積み重ねを通してスキーマ(概念のネットワーク)やスクリプト(手続きのネットワーク)として構成されます。QNKSは学習内容のスキーマを可視化し、けテぶれは学び方のスクリプトを意識化・更新する道具として、学習科学の言葉でも明確に説明できます。また、自己調整的知識を「内側に向かうスキーマとスクリプト」として捉え直すことで、自己像や学習習慣への働きかけの構造が見えてきます。さらに、子どもたちのメンタルモデルを把握し支援するには、教師自身の授業観・学習観もまた問い直す必要があります。

学習科学という視点から眺め直す

これまでは教室の具体的な姿をもとに実践を解説してきましたが、この回からは「学習科学」という軸から葛原学習研究所が提唱する教育実践を眺め直していきます。参照するのは『主体的・対話的で深い学びに導く 学習科学ガイドブック』(北王子書房)で、序章と第1章第1節を中心に読んでいきます。

学習科学とは、学び手の成長を第一とし、人の学びのメカニズムに関する数多くの知見を融合させた学問分野です。授業設計と実践と評価のサイクルを繰り返しながら、持続的な教育改革を支えることを目指しています。教室実践の「超具体」から一度離れ、その背景にある学びのメカニズムへと視点を移す——それがこの連続講義の出発点です。

教材研究と学習研究の両輪

学習者主体の学びの場を作ろうとするとき、教師に必要なのは教材研究だけではありません。もう一本の柱として「学習研究」が欠かせません。

教材研究とは、国語・算数・理科・社会などの学問内容を深く理解し、教える内容を豊かに持つことです。高校2年生レベルの知識を全教科にわたって備えておくことが、授業の質を支えます。しかしそれと同等に重要なのが、「学ぶとはどういうことか」という問いを教師自身が追い続けることです。学ぶことの構造が教師の中に育っていなければ、子どもたちを自立した学習者に育てることは難しいでしょう。

そして、子どもたちが自立した学習者として育っていない環境において、自由進度学習は成り立ちません。「自分でやる時間」を設けることと、「自分で学べる力がある」ことはまったく別の話です。自由進度学習が機能するかどうかは、子どもたちが学び方を知っているかどうかにかかっており、その土台を作るのが学習研究から生まれた実践です。

教育を変えられるのは現場にいる教師

学習科学ガイドブックの序章は、「読者一人一人がそれぞれの立場から、日本の教育改革を支える担い手になることを期待して内容の構成を組み立てています」という言葉で始まります。

教育を変えられるのは、担任の先生、あるいは専科の先生——つまり子どもたちと直接向き合っている現場の人しかいません。文部科学省がどれだけ優れた指針を示しても、目の前の子どもたちに向き合う教師が実行しなければ教育は変わりません。逆に言えば、現場の一人ひとりの教師が本質的な学びの場を作ろうと変革を起こした瞬間、それはもはや公教育が変わっているということです。

学習科学の知見を学ぶことは、その変革を自分の手に取り戻す作業です。この連続講義がその一助になることを願いながら、具体的な内容に進みます。

知識はコピーではなく、ネットワークとして構成される

人はどうやって学ぶのでしょうか。古い認識論では「人は外界をコピー機のように写し取る」とされていました。しかし学習科学の立場はまったく異なります。

知識はコピーされるのではなく、経験を通して構成されるのです。

乳幼児はリンゴを繰り返し見たり触ったり食べたりする中で、「赤い、丸い、甘い、木になる、サクランボよりずっと大きい……」といった多様な経験をネットワークとして蓄積していきます。そのネットワークがあるからこそ、一口サイズの品種を見たときにも「これはリンゴの一種だ」と推定できます。「リンゴかもしれない」という推定は永遠に確定にはなりませんが、経験が重なるほど精度が上がっていく——これが学習の実態です。

このように、関連づいてネットワーク状に保存された知識の構造をスキーマと呼びます。また、「ドアノブはこう回す」「このタイプのドアは引くのではなく押す」といった手続きのネットワークをスクリプトと呼びます。前者は「What(何であるか)」、後者は「How(どうするか)」に対応しています。

スキーマとスクリプトは強力です。一度形成されると、関連情報をすぐ引き出したり、未知の状況を類推したりすることを可能にします。だからこそ、新しい学校文化に入ってきた1年生は「スキーマとスクリプトがゼロから再構成される」という意味でとまどい、幼稚園での年長さんらしい自律的な動きができなくなります。その姿は「退行」ではなく、「新しい環境のスキーマとスクリプトが蓄積されていない当然の状態」です。このように捉えると、丁寧に手を貸す必要性が論理的に見えてきます。

スキーマは変わりにくい——それが教育上の核心問題

スキーマの厄介な側面は、一度形成されると変更が難しいことです。

「失敗は怖いものだ」という認識を持つ子どもがいるとします。教師が「失敗は怖くないよ」と伝えても、簡単には変わりません。なぜか。「失敗=怖い」というスキーマの裏には、その子が重ねてきた経験・感情・記憶のネットワークが大量に絡み合っているからです。表面に現れた言動を訂正させても、根底のネットワーク全体には届きません。

これは「言ってもやらない」「一回授業したのに覚えていない」という現象の構造的な説明でもあります。人を機械のように見て「入力すれば出力が変わる」と期待しても、うまくいかないのはこのためです。行動や思考の背後にあるネットワークが、常にその行動と感情を生み出し続けているのです。

同じことが自己像にも当てはまります。あらゆる場面における自分自身を偏った見方で解釈し続けると、自己像というスキーマが非常にアンバランスな状態で構築されます。「あなたは素晴らしい」という言葉が、そのネットワーク全体から跳ね返されてしまう——この理解なしに、自己肯定感への働きかけを語ることはできません。ネットワークにはゆっくりと、多角的にアプローチするしかない。それがこの構造を知ることで得られる、教師としての現実認識です。

知識・意識・無意識の構造
知識・意識・無意識の構造

自己調整的知識を「内外の関係」で捉え直す

学習科学では、知識を「宣言的知識・手続き的知識・自己調整的知識」の3種類に整理することがあります。ここに、批判的な読みが入ります。

宣言的知識(スキーマ)と手続き的知識(スクリプト)は「外側の世界」に向かう知識です。「リンゴとは何か」「ドアはどう開けるか」という方向です。では、自己調整的知識はどう位置づけるか。それを同列の「3つ目の種類」とするよりも、「内側に向かうスキーマとスクリプト」として整理する方が実態に合っています

「自分はどんな特性を持っているか」——これは内側に向かう宣言的知識(スキーマ)です。「集中力が落ちてきたとき、自分はどうすればいいか」——これは内側に向かう手続き的知識(スクリプト)です。外側の世界に向かう知識構造と、内側の自分に向かう知識構造が両方存在する。そう整理すると、スキーマ・スクリプトというひとつの論理が一貫して、内側と外側の両方を説明できます。

学びのコントローラーと内外往還
学びのコントローラーと内外往還

この整理によって、けテぶれとQNKSが「内側と外側を往還する道具」として機能することも、学習科学の言葉で語れるようになります。学習内容(外側)のスキーマを構築するだけでなく、自分の学び方(内側)のスクリプトを意識化・更新すること——その両方が、同じ構造の問題として見えてくるからです。

QNKSはスキーマを可視化し、けテぶれはスクリプトを意識化する

ここで、けテぶれとQNKSの本質が明確になります。

QNKSは、学習内容のスキーマを可視化する道具です。

知識がネットワークとして保存されるなら、学習もネットワークとして組み立てるべきです。QNKSは、ウェビング(概念の展開)から論理構造を立てていくプロセスで、単元全体の知識を「一問一答のバラバラな断片」ではなく「関係性をもつ図」として表現します。関係性を線でつなぎながら図として描き出すことで、頭の中で形成されつつあるスキーマが外化され、可視化されます。

単元の入口でざっくりとした構造を掴み、学習が進むにつれて具体的な情報を骨格に位置づけていく。そして単元の出口で改めて精緻に書き上げる。この流れ全体が、スキーマを意識的に構成・更新する行為そのものです。「頭の中でネットワークになっているなら、紙の上にもネットワークとして書いた方が、頭と外が近くなる」——その直感は、スキーマ理論に裏打ちされています。

けテぶれとQNKSの両輪
けテぶれとQNKSの両輪

けテぶれは、学び方のスクリプトを意識化・更新する道具です。

「自分はいかに学ぶか」という手続き的知識が意識化されずに自動的に動いている限り、その更新は起きません。けテぶれは、計画(どう学ぶかを決める)・テスト(実行する)・分析(振り返る)・練習(再実行する)というサイクルを繰り返すことで、子どもたちが自分のスクリプトを外に取り出し、対象として見て、チューニングすることを可能にします。3年生の子どもたちが「こうやったら明日はこうする」と学びのプログラムを書いていたとすれば、それはまさにスクリプトの意識化です。

スキーマの獲得と構成という「学習内容面」にはQNKSが補助し、いかに学ぶかという「学習の手続き面」にはけテぶれが補助する——この2つは、学習科学の言葉でも完全に説明可能な両輪の関係にあります。

メンタルモデルを揃えることで、はじめて観察と支援ができる

スキーマとスクリプトを背景に、人は状況に応じて「今日どう学ぶか」を構築します。この、その場その状況での学びの設計をメンタルモデルと呼びます。

漢字学習をしようとするとき、「ひたすら書きまくる」一択しか持っていない子どもは、それ以外のメンタルモデルを持っていません。なぜか。漢字の勉強に関するスクリプトが「書きまくる」しか蓄積されていないからです。新しいメンタルモデルを組み立てるためには多様なスクリプトが必要であり、それをけテぶれは段階的に提供しています。

ここで重要なのが「土俵を揃える」という発想です。子どもたちに「学ぶってどういうこと?」と問いかけても、その表現はばらばらです。具体のレイヤーも詳細さも人それぞれで、比較も分析もできません。同じ土俵で比較可能なモデルに変換することで、はじめて個々の学び方を観察し、フィードバックし、支援できるようになります。

けテぶれとQNKSはその「土俵」です。子どもたちのメンタルモデルをこの共通の枠組みで可視化するからこそ、教師は個々の学び方に向き合えるのです。自由進度学習の場において「深い学び」が成立するかどうかは、この土俵があるかどうかにかかっています。

教師自身のメンタルモデルも問われている

自由進度学習や学習者主体の授業が難しいとされるとき、よく語られるのは「子どもたちが自立していない」という問題です。しかしそれと同等に重要なのが、教師自身の学習観・授業観というメンタルモデルです。

授業とはどういうものか。学ぶとはどういうことか。教師がその問いに自分なりの答えを持っていなければ、子どもたちの学びの何をどう見ればいいかがわかりません。子どもたちに「どう学ぶかを考えさせる」授業設計は、教師自身が「学ぶとはどういうことか」について明確なメンタルモデルを持っていることを前提としています。

また、けテぶれを中学生に導入する際に「小学校6年間で形成されたメンタルモデルが凝り固まっている」という難しさが生じるのも、同じ構造です。6年間かけて作られたスキーマとスクリプトのネットワークは、一度の授業では変わりません。しかし、だからこそ理解の価値があります。その凝り固まりの実態を洞察した上で、どんな経験を提供すればネットワークを少しずつ組み換えられるかを考えること——それが、学習者主体の授業設計の核心です。

子どもたちの私生活・習い事・家庭環境が学習に影響することを、優れた教師は感覚的に知っていました。学習科学はその感覚に、「なぜそうなのか」という構造的な説明を与えます。行動の表面だけを修正しようとするのではなく、その背後にある経験・知識・感情のネットワークを見立てながら関わること——それが学習科学の視点が教師にもたらす、もっとも大きな転換です。

おわりに

今回はスキーマ・スクリプト・メンタルモデルという学習科学の基本概念を通して、けテぶれとQNKSの本質を整理しました。

けテぶれとQNKSは経験則の産物ではなく、「知識はネットワークである」という学習科学の知見と完全に対応しています。QNKSは学習内容のスキーマを可視化し、けテぶれは学び方のスクリプトを意識化します。その両方が、子どもたち自身が自分の知識構造と学び方を更新し続けるための道具として機能します。次回は「概念と概念変化」をテーマに、学習の深層をさらに掘り下げていきます。

この記事が参考になったらシェア

Share