次期学習指導要領の論点整理「第2章」が問うているのは、深い学びをどうやって授業の中に具体化するかという問いです。個別の知識技能を中核的な概念と結びつけ、未知の状況でも使える思考・判断・表現へと進む学習デザイン——その階段を、けテぶれとQNKSという両輪で実現していく道筋を解説します。あわせて、好奇心を子どもの固定的な内面能力として扱うことの危うさ、ICTや学習形態を教師の操作手段から子どもが選び使う道具へと転換する視点についても整理します。
第2章の中心は「深い学び」にある
次期学習指導要領に向けた論点整理の第2章は、「質の高い深い学びを実現し、分かりやすく使いやすい学習指導要領のあり方」という題目を持ちます。後半の「分かりやすく使いやすい」という部分は、制度側の課題であり、現場がすぐに動かせる部分ではありません。
本章の核心は前半、つまり「質の高い深い学びをどう実現するか」にあります。
論点整理では、現行の教育実践における課題として次の三点が挙げられています。資質・能力の深まりのイメージがつかみにくいこと。知識・技能、思考・判断・表現、学びに向かう力という三つの柱を一体的に育成するイメージがつかみにくいこと。そして「教科書を教える授業」や「本時主義」からの脱却がまだ十分に進んでいないこと。これらを解決する鍵として、「中核的な概念」という語が今後のキーワードになっていきます。見方・考え方という言葉が広まったときと同様に、この概念は現場の共通語になっていくでしょう。
知識を「使える状態」にする:中核的な概念とのつながり
「深い学び」という言葉を聞くと、知識の暗記を否定しているように受け取られることがあります。しかし論点整理の示す方向は、そうではありません。
知識を覚えること自体が問題なのではなく、覚えた知識が「中核的な概念」と結びついていないことが問題なのです。
「個別の知識技能」とは、繰り上がりのある筆算のアルゴリズムを実行できること、比例・反比例の解き方を知っていること、公式を記憶していること、といった個々の要素です。これが悪いわけではありません。問題は、それらが中核的な概念の理解とつながっていない状態で保有されていることです。
筆算を例に取れば、アルゴリズムとしてスキルを実行できることと、「自分は今、十進法の位取りを繰り上げて処理している」と説明できることは、まったく異なる段階にあります。後者の理解があって初めて、インドや中国の異なる筆算方式と比較し、「どちらも同じ本質を別の手法で実現している」と解釈できるようになる。そこまで至ったとき、知識は「見方・考え方を働かせる」状態になっていると言えます。
次期学習指導要領では、授業の中心問いとして「この単元で伝えたい中核的な概念は何か」が教師に問われるようになっていきます。中核的な概念が明示されることで周辺的な知識との区別がつき、「些細なミスで学習を止める必要はない、中核の理解があれば合格だ」という判断を教師がしやすくなります。
深い学びの階段:知る→やってみる→説明できる→使う
では、中核的な概念の理解に至るにはどういう道筋をたどればよいのか。論点整理は「知識の縦横関係」という図でこれを整理していますが、それを授業設計に転用する方法まではまだ示されていません。
葛原実践では、この問いへの答えを次の階段として捉えています。
知る → やってみる → できる → 説明できる → 使う・つくる
「知る」とは個別の知識技能を得る段階です。どれほど丁寧に教えても、この段階から前に進まなければ理解は動きません。「やってみる」とは、その知識を使って課題を解決してみることです。教科書に書かれている問いに概念を使いながら解いていく、これが個別の思考・判断・表現にあたります。「できる」を経て「説明できる」になるとき、子どもは自分が何をやっているのかを言葉にし、図に表し、外に出せるようになります。そして「使う・つくる」の段階では、学んだことを未知の文脈に持ち込み、複雑な課題を解決していきます。

この「知る・やってみる・できる・説明できる・使う」という階段は、論点整理の言う「個別の知識技能→思考・判断・表現→複雑な課題解決」という流れに対応しています。知識技能の習得から手をつけなければならないのは明らかです。なぜなら、思考・判断・表現は「知識技能を活用しながら、未知の場面でも課題を解決できる力」と定義されているからです。まず知識技能がなければ、活用もできません。
けテぶれは「知る・やってみる・できる」の往還を、QNKSは「説明できる・使う」への練り上げを担います。この両輪が、深い学びの階段を登る具体的な手立てになります。

けテぶれで教科書の問題をやり倒した後に、その単元で中核的な概念とは何だったのかをQNKSで問い直していく。それがまさに、個別の知識技能から中核的な概念へ至るプロセスを子ども自身が歩む設計です。
「未知の状況」は先生が先回りしないことで生まれる
思考・判断・表現の定義には「未知の状況にも対応できる力」という言葉が含まれています。では、「未知の状況」をどうやって授業の中に用意するのでしょうか。
考えてみると、「先生が全部教えた後では、それは子どもにとって既知の状況になってしまう」ということに気づきます。教師が教科書を先回りして教え切ってしまえば、子どもにとってすべてが既知の状況になり、未知の状況は消えます。
ただし、すべてを未知にすればよいかといえば、そうでもありません。全部が未知であれば、子どもはパニックになります。大切なのは「ある程度の既知の土台の中に、どこかを未知の領域として設定し、そこで自分で手探りして進んでいける環境を整えること」です。
教科書を教師が先回りして教えるのではなく、教科書の動線に沿って子どもが自分で進んでいける場を作ることが、この「既知の中の未知」を生み出します。自由進度学習のように、やるべきことをバランスよく配置しながらカリキュラムを自分でマネジメントして学びを進めていく経験は、それ自体がすでに複雑な課題解決です。形成的評価によるフィードバックを受けながら、学期・学年という単位で学習が積み上がっていく中で、個別の知識技能が中核的な概念として結びついていきます。
好奇心を「評価すべき能力」として扱うことの危うさ
論点整理の第2章では「学びに向かう力」の要素として、「初発の思考や行動を起こす力・好奇心」が示されています。しかし、ここには根本的な問題があります。
好奇心や初発の行動を、子どもの固定的な内面能力として評価・育成しようとすることには危うさがあります。
好奇心は、文脈依存性・環境依存性がきわめて高い現象です。子どもが何かに好奇心を持つかどうかは、その子が置かれている環境や出来事との相互作用によって決まります。「初発から好奇心がない子だ」と判断することは、実存主義的な意味でも構成主義的な意味でも間違いです。
実存主義的に見れば、深いコア・クオリティや内側の願いは表面にはなかなか現れません。「お菓子を食べたい」「ゲームをしたい」という表面的な欲求の奥に、その子固有の深い願いがあるとしたら、それは自己探究と自己省察を通じて少しずつ見えてくるものです。
構成主義的に見れば、好奇心はやってみた後にしか生まれません。けん玉に最初から興味のなかった子が、授業でけん玉に触れ、少しできるようになった瞬間に「次はこれをやりたい」と思い始める。好奇心は子どもが机の前に座る前から内側に固定的にあるものではなく、環境の中で行動した先に立ち上がってくるものです。
だからこそ、生活けテぶれのように、日常の行動の中で自分を省察し、自分の深い願いや好奇心が何かを探っていくプロセスを学校生活の中に設けることが大切になります。「あの子は好奇心がない」という見立てで止まるのではなく、やってみる環境と省察の時間を保証することが教師の役割です。
初発の行動を支える外側の設計:目的・目標・手段
「好奇心を直接育てる」のではなく、代わりに整えるべきは外側の設計です。それが「目的・目標・手段」という三要素です。
目的は魅力的に。目標は具体的に。手段は明確に、かつ柔軟に。
「なんでこれをやらなきゃいけないの?」という問いに子どもたちが納得できているか。納得できる目的のもとに、「こういう状態を目指しましょう」という明確に見えるシルエットが立っているか。そして、そこへ向かうための手段として、けテぶれが使えるように整っているか。
この三点を外側から丁寧に設計することが、子どもの行動を引き出すための環境づくりです。子どもの内側にある好奇心を評価したり操作しようとしたりするのではなく、外側の設計を整えることで子どもが自分から動き出せる場を作る。その謙虚さと具体性が、実践の出発点になっています。

「目的・目標・手段」の設計は、STFトライアングルの構造と対応しています。主体的な学びの起動装置となる目的の魅力が、子どもが対話的に動き出す土台を作り、そこから深い学びへの道が開けます。好奇心は仕掛けの後に生まれるという順序を忘れないことが、設計の要です。
ICTと学習形態を「子どもが使う道具」として捉え直す
論点整理では、GIGAスクール構想以降のICT活用について「教具的発想にとどまっている」という課題が指摘されています。教師が教えるためにICTを使うのではなく、子どもたちが学ぶための道具として使う発想への転換が求められているということです。
学習形態の問題も、まったく同じ軸で整理できます。
一斉・グループ・個別という形態を、教師が「指導の都合に合わせて組み替える」のではなく、子どもが「自分の学びの進め方として選択する」ものとして捉え直す。これは学びのコントローラーの発想そのものです。
個別最適な学びと協働的な学びは、教師がどう配置するかという問題ではなく、子ども自身が個別に進める場面と他者と対話する場面をどう組み合わせていくかという問題として設計される必要があります。ICTも学習形態も、「教師側の操作手段」から「子どもが学ぶための学びのコントローラー」へ。この転換が、次期学習指導要領が求める方向です。
論点整理でICTの課題と学習形態の課題が同じ章に並んでいるのは偶然ではありません。どちらも「誰のための道具か」という問いを核にしています。教師のためではなく、子どものための道具として設計し直すこと——そこに深い学びの実現への入口があります。
明日の授業設計へ
第2章の論点を整理すると、実践者として問い直すべき問いが浮かびあがってきます。
この単元で子どもに届けたい「中核的な概念」は何か。個別の知識技能からその中核的な概念へ至る「知る・やってみる・できる・説明できる・使う」の階段を、けテぶれとQNKSでどう設計するか。「未知の状況」を保つために、教師はどこまで教えずにおくか。目的・目標・手段を整えることで、子どもが自分から動き出せる外側の設計ができているか。ICTや学習形態を、教師の都合ではなく子どもが選び使う道具として置けているか。
深い学びは、難しい課題を与えることでも、思考・判断・表現だけを切り出して鍛えることでも生まれません。個別の知識技能をしっかり積み上げながら、それを中核的な概念と接続し、説明し、使うという一連の流れを子どもが歩める場を設計することで実現します。けテぶれとQNKSの両輪は、その流れを具体化するための手立てです。