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QNKSは先に教えない。目標が立ったあとで手段として渡す

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QNKSを4月の学年はじめに「入門講座」として先に教えると、子どもも教師も型に固まりやすく、なぜQNKSをやっているのかを見失いがちになります。大事なのは目標を先に立て、その目標へ向かう手段として必要な場面で意味づけることです。教師がKの書き方を先に示してしまうと、子どもは「そうでなければならない」と受け取り、かえって思考が狭くなります。QNKSの本質は、問い・抜き出し・組み立て・整理という思考のプロセスにあり、情報の選択や関係性、伝わる順番を支えるものです。目標に到達できているかどうかで手法に返し、子どもが自分なりの方法を試す姿を積極的に取り上げることが、学習空間を豊かにしていきます。

「入門講座」として先に教えることの危うさ

QNKS(問い・抜き出し・組み立て・整理)を知った教師が陥りやすい罠があります。「自分は理解した。だから子どもたちに教えよう。まず一式練習させよう」という発想です。しかし、「覚えてきたし分かってきたから子どもたちに手渡すわ、じゃあ練習しよっか」は、かなり危険な流れです。

6年生の担任として初めてQNKSを本格的に扱おうとした教師が、こんな問いを持ってきました。年度はじめにしっかり取り組もうとしていたのですが、葛原の答えは「わざわざQNKSという形で導入はしていない」というものでした。

> 「0ベースで今からQNKSについて説明するねということじゃなくって、指導の中で例えば作文書くとか、春だったら春の詩を書くとかみたいなシーンで、明らかにQNKSを使ったら有効だよねみたいなシーンに指導上でた瞬間、それを子供たちに伝えて」

「QNKS」という名前を先に提示するのではなく、実際の指導文脈の中でそれが「必要になった瞬間」に紹介する。問い・抜き出し・組み立て・整理という流れを「今みんながやっていることが、実はQNKSという考え方なんだ」と意味づけることで、子どもは自分の思考の動きとして受け取ることができます。

実際に4年生でQNKSの枠を先に提示して教えた経験を持つ教師は、こう語っています。

> 「入門講座っぽく子供たちにやっちゃうとなんかそれ微妙で入んないんですよね。すっと。……じゃあNしてKしなきゃいけないんでしょ、ってなっちゃって、QNKSを作ることがもう目標・目的みたいになっちゃうことが結構あったから……やめよって。QNKSの枠を取った」

必要性が生まれていない段階でQNKSの形式を提示すると、その形式への正確さが目標になってしまいます。子どもにとって「N・K・Sを正しく書くこと」が課題になり、本来の「考えて伝える」という目的は遠ざかっていきます。

また、けテぶれとQNKSでは事情が異なる点も指摘されています。けテぶれは汎用性が高く、家庭学習のやり方として早めに説明しても比較的自然に根づきやすい。しかしQNKSは、先に一式教えてしまうと固まりやすい。「一旦入っちゃうと抜け出せない」という現象が起きやすいのです。

「目標これなんだから手段何でもいい」という一貫した発想

葛原が指導の中で一貫して持ち続けてきた発想があります。

「目標これなんだから手段何でもいいよね」

これはQNKSの導入に限った話ではなく、授業のあらゆる場面を貫く姿勢です。活動の目標を示したうえで、「そのためにはこういう方法がおすすめだけど、それ以外の方法でここに向かうことも全然可能だよね」という示し方を常にしてきました。

QNKSもけテぶれも、あくまで「目標へ向かうための一つの手段」として位置づけられます。それ以外のオリジナルな方法で目標に向かう子どもがいれば、その方法を積極的に取り上げます。

> 「この方法を紹介した瞬間、真似したい子はもう今すぐ真似してオッケーだし、気になる子はこの子のノート見に来てオッケー」

「先生に言われたこと以外のことをやってもいいんだ」「やったら先生は反応してくれる」「自分が意図していないところまで深ぼって意味づけしてくれる」——こうした体験が4月からゴールデンウィークにかけて積み重なることで、「君たちの発想ファーストでこの空間は展開していく」というメッセージが教室に満ちていきます。授業内容については、ただただ信じて、任せて、認めるという姿勢が基盤になります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

QNKSは学びのコントローラーの一つとして位置づきます。コントローラーは目標へ向かうための道具であり、「コントローラーを正しく操作すること」が目的になると、本来の学びから遠ざかってしまいます。大事なのは、このコントローラーを手渡す順番と文脈です。

QNKSの本質——型の習得ではなく思考のプロセス

では、QNKSで本当に大事なことは何でしょうか。

> 「思考のプロセスがちゃんとなっていることと、NとKでちゃんと取捨選択と関係性の明示と、もしくは論理構造にしていかなきゃいけない。つまりどの順番で喋るのとか、どの順番でロジックを組み立てていくと他者に伝わりやすいのとか、そういう順番みたいなことは子供たちに言わないと結局そのロジックが崩れるので」

QNKSの本質は、情報をどう選び、どう関係づけ、どの順番で伝えるかという構造思考にあります。Kの書き方の形式ではなく、「何と何が結びついているか」「どの順番で伝えると相手に届くか」という問いに返すことが、本来の指導の姿です。

QNKS(基本)
QNKS(基本)

Kの「書き方」を先に教えてしまうことの問題は、まさにここにあります。実際に起きたのはこういうことです。

> 「K の書き方どうだっけとか聞かれるん。なんかだから1回こっちがKはこうだよって教えちゃったもんだから子供がそうでなきゃいけないみたいな。逆にこう思考が凝り固まっちゃう。……K の縦並べるとかこう並列でとかっていうあれに固執しすぎてて、なんかもっと多分自分のやりやすいやり方とかちょっとあるだろうなって思うけどそこから逆に抜け出せなくなっちゃって余計にわかんなくなってる」

教師が示した一例としてのK図が、子どもにとっての「正解像」になってしまいました。Kはそう書かなければならないという思い込みが生まれ、そこから抜け出せなくなります。「Kがわからない」という訴えは、思考の行き詰まりではなく、形式への拘束から来ています。

QNKSを使った指導で教師がすべき返しは、型への一致確認ではありません。「君のアウトプットを見たとき、こっちの部分はよく膨らんでいるけど、こちらの説明が薄いと説得力が弱くなるよ」というような、論理の構造への指摘です。また、問いへの答えであれば、QNKSを経由しなくていい場面もあります。「よく読め」「ここ書いて読んでいないな」というだけで十分な場合も多い。どうにも詰まっているなら「一旦抜き出してみようか」と手渡せばいいのです。あくまで目標地点に届いているかどうかで判断し、届いていなければそのアウトプットに返していく。

目標に届いていないなら、手法に返す

目標への到達を基準に置くと、フィードバックの姿勢も変わってきます。

> 「結果のアウトプット、つまり目標地点に到達できていないならやり方が悪いに決まってるやん、ということで手法に返していく。……それ以外の方法で子供たちが、Kのやり方とか、俺が示している以外の方法でこっちがやりやすいんだって言ってやる子とかいるので、それに関しては全く問題ない」

アウトプットが目標に届いているなら、どんな方法を使っても問題ありません。大事なのは手段の統一ではなく、目標到達です。教師は「QNKSが有効だと考えているから使い続けるし指導もする」が、それ以外の方法で目標に到達している子どもに対して、無理にQNKSを使わせる必要はありません。

この視点から「先生チェック行列問題」も読み解けます。自由進度的な状況になると、それぞれの子どもの現在地が異なるため、そもそも同じ場所に並ぶことはほとんどありません。先生チェックに時間がかかる背景には、「教師が正解を持っていて、それを照らし合わせる」という構造があります。教師自身も「このKが正解」という枠から抜け出せていないと、子どもの多様なアウトプットに素早く返せなくなってしまいます。

やってみる⇆考える(学ぶ)
やってみる⇆考える(学ぶ)

フィードバックは「やってみる」と「考える」の往還の中で返されます。型の正確さへの指摘ではなく、「この目標に向かってやってみた結果、ここが足りない。では次はどうする?」という現在地と目標の間に返すフィードバックが、子どもの学びを前に進めます。

QNKSという道具は、正しく受け取られれば具体的な思考の手段として大きな存在感を発揮します。けテぶれよりも、実際の授業の中でがっちりと動いていきます。だからこそ、全体の目的を見失いやすい。

> 「QNKSしとくか、と言ってQNKSしててさ、ちっちゃい三角形まで登れますかみたいな話やんか」

QNKSの三角形をきれいに書けることだけを目指していると、その先にある学習空間全体の目的が見えなくなります。「全体性を失うな」——ちっちゃい世界はどうとでも説明できますが、詰めれば詰めるほど全体が見えなくなる逆説は、教師側にも子ども側にも等しく起きます。

全体性を支える教材研究

「全体性を失うな」という問いは、教材研究の向き方にも直結します。

> 「この単元で何すりゃいいのかということが根本的本質的に分かってるかどうかで、それ詰めりゃ、別に毎回毎回そんなロジック構造も全部きっちり組み立ててとかしなくていいやんか」

例として挙がったのは国語の情景描写です。登場人物の心情に合わせて空の色が変わるという表現技法を理解できれば、その単元の目標は達成される——これがその単元の本質です。その後の細部にどれだけ時間を使うかは、その先の探究であり、最低限の目標は「情景描写が何かわかる」で終わりです。

教材研究において問題なのは、一本の正解ルートを丁寧につくり込みすぎることです。 子どもが書くであろうことをあらかじめ教師がシミュレーションし、その「正解」に子どもを乗せようとする教材研究になっていないか。そのような準備の仕方では、教師自身も「正解枠」から自由になれません。子どもの多様なアウトプットに素早く返せなくなるのは、教材研究の問題だけではなく、「正解を持って下りていく」という姿勢そのものの問題でもあります。

本質を掴んだ状態で授業に入り、教師も子どもと同時に教科書を開いて考えます。スピード的には教師の方が速いから、その場でパッと考えたことを早い子どもにフィードバックしながら「あ、これもあるかも」と自分も更新していく。こういう動きが、教師にとっての学び方の見方・考え方を生きたものにしていきます。

語る前に「できる」が先にある

実践を外に語ることにも、同じ原則が流れています。

> 「子供の事実があるかどうかって、本当それだけ」

QNKSを学んだ、理解した、だから語りたいという気持ちはよくわかります。しかし語り始める前には、まず教室の中に「できる」事実があることが前提です。

> 「言語り始める前はもうできるがちゃんとあるっていう状態を作る。やってみる。できるがちゃんとあって語るから。できてないのに喋れないですからね、結局ね」

語りの強さは、子どもの姿の実在から来ます。 研究授業の場などで自分の実践を語るには勇気がいります。しかしその言葉が届くかどうかは、「よかったら教室を見に来てください」と言えるだけの事実があるかどうかにかかっています。

もう一点指摘されているのは、感覚やセンスだけで実践している状態では、なぜうまくいくのかを言語化できないということです。言語化できない実践は、その人が気分よく教員生活を終えるだけで、周囲への波及が生まれにくい。学校を変える、教育を変えるというフェーズに入ったとき、「子どもの事実」と「その構造の言語化」がセットになってはじめて、他者に届く語りになります。

課題の裏の構造が見えていること、今回の授業でどこが変わりうるかを筋道立てて語れること。そうした言語が、研究授業の場で半年後・1年後に静かに刺さっていくことがある、という経験も語られています。語ることの効果は、即時ではなく時間差で現れます。だからこそ、語る前の「できる」を積み重ねることが、長く効いてくる土台になります。

手段の位置で渡し続ける

この対話の中で葛原は振り返るように言いました。

> 「ずっと俺は手段の位置でQNを子供たちに紹介していたなみたいな。……最初はQNKSを練習してというシーンが必要だみたいなことも言っていたけど、いや、ちょっと待てよみたいな。今こうやって考えてみるとずっと俺は手段の位置でQNを子供たちに紹介していた」

「手段の位置からずらさない」——これが長くQNKSを実践の中で生かし続けてきた核心でした。

年度はじめに一式教えることを繰り返すと、子どもも教師も型に固まります。目標が先にあり、その目標へ向かう手段としてQNKSが必要になった瞬間に渡す。形式を先に示すのではなく、必要性が生まれたときに「今やっていることがQNKSだ」と意味づける。この順序がQNKSを、学び方を学ぶための道具として機能させ続ける条件です。

目標があって、そこへ向かう手段は複数あって、子どもが自分なりの方法を試して、教師はそのアウトプットが目標に届いているかどうかで返す。QNKSはその往還の中で、必要な場面に必要な深さで登場します。それ以上でも、それ以下でもありません。

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