けテぶれを提案しても、最初から全員が動くわけではありません。むしろ、動かない子がいることは当然の前提です。教師は意義を語り、まず動く子の熱を教室に広げていきます。それでも残る子には、現在地を認め、服装や日常会話も含む豊かなコミュニケーションを積み上げます。さらに、授業中に寝る子や学力面で苦しい子には、その子の生活・心身の状況を深く理解し、「今必要なことを精一杯やる」という全員共通のルールに位置づけます。大切なのは、全員を同じ行動にそろえることではなく、それぞれの現在地から今必要な一歩を踏み出せる教室をつくることです。
「やらない子がいる」を当然の前提にする
けテぶれを提案したとき、クラス全員がすぐに動き出す——そんな光景を期待してしまうとしたら、まずその認識を問い直す必要があります。
「提示した瞬間やらない子いる、に決まっているんです。」これは子どもへの諦めではなく、主体性を本気で尊重するとはどういうことかを突き詰めた先の認識です。
おはようございますと言ったら全員が返す。名前を書きなさいと言ったら全員が書く。そういう「やれと言えばやる存在」として子どもを見ている間は、やらない子の存在が不思議に映ります。しかし主体性を尊重する教室では、教師の言葉はあくまで「知る」「納得する」の入口にすぎません。納得しなければやってみるに進まないし、やってみなければ世界は変わらない。これはけテぶれを推進するための言い訳ではなく、「主体的・対話的で深い学び」が求めているパラダイムの転換そのものです。
こちらにできることは、意義と意味を確かに語り、やり方を提案し、やる子を褒め、取り上げ、広げようとすること。そしてその営みに巻き込まれてくれる子をじっくりと増やしていくことです。
教室に「渦」を起こし、3割から7割へ広げる
教師が教室に渦を起こそうとするとき、最初からその回転エネルギーを受け取れる子は全員ではありません。クラスの3割ほどが深く理解してくれれば十分です。その3割が動き始めると、外側へ外側へと回転のエネルギーが伝わっていきます。

この波及の仕組みは、コンフォートゾーンからの脱出を引き起こす装置としての学校の価値とも重なります。家で一人でいれば、誰も自分に「それはどうだろう」とは言ってくれません。多様な他者が同じ場所・同じ時間に集まり、理解している仲間の姿を見て、自然と巻き込まれていく——この環境こそが公教育の強みです。今の社会では街の大人が子どもに厳しいことを言いにくくなっているからこそ、学校という場でそういった機会を意図的につくることの価値がいっそう増しています。
最初の3割さえ動けば、4割、5割、6割、7割と広がることはかなり現実的です。しかし残り3割——30人クラスなら9人ほど——には、別のアプローチが必要になります。
残る子への向き合い:現在地を認め、関係性を豊かに積み上げる
残る子に対してまず大切なことは、現在地を徹底的に認めることです。「やらない、しょうがない」という受け入れと、「やる価値を示し続ける」という姿勢は矛盾しません。友達がやっている姿をずっと見ることで、納得が生まれる可能性は常に担保されています。
ここで重要になるのが、教師とその子どもとの関係性の豊かさです。けテぶれをやらない子に対して「もう知らない」と見放してしまえば、その子が自らコンフォートゾーンを抜け出す動機は生まれません。自分のことを大切に思ってくれていない相手のために、めんどうなことをわざわざやろうとする子はいないからです。
だからこそ、けテぶれをやらなくても「あなたの服おしゃれだね」と言える関係を積み上げることが先決です。服装、日常の出来事、ちょっとしたやりとり——そういった豊かなコミュニケーションが積み重なることで、こちらの言葉に耳を傾けてくれる土台ができていきます。これは「豊かにほったらかす」という言葉で表される姿勢であり、放任や諦めとは根本的に異なります。その子のいいところを本当に見ようとし、感じていく——そういう本心からの眼差しが、関係性を育てていくのです。
授業中に寝る子:「命のバランス」として深く理解する
豊かな関係性を積み上げても、なお授業中に寝てしまう子がいます。こうした場合、寝ているという行動を問題行動として即座に処理するのではなく、その子の命のバランスとして、今そうならざるを得ない状況を深く理解しようとすることが出発点です。
家庭環境はどうか。今まで学校や学級でどのような経験を重ねてきたか。今その子が本当に考えていることは何か。それらを丁寧に考えた上で、「先生はこういうふうに思っているんだけど、どう?」と語りかけます。咎めるためではなく、今なぜそうなっているのかを理解したい、理解できたら一緒に何かできるかもしれない、という姿勢で。
たとえば、習い事が詰まっていて放課後も忙しすぎるとしたら、学校に来てすることは休憩かもしれない。それはその子の生活バランスから見れば、至って合理的な状態です。学校イコール頑張る場所、という常識は、ある一定の生活環境を前提にした話であって、すべての子に当てはまるわけではありません。寝ることが今のその子の人生において最優先事項である可能性すら、真剣に考えることが求められます。
こうした理解を子ども本人と共有できたら、次はクラス全体にも同じ言葉で語りかけます。「この子だけが特別で、君たちは普通」という語り方ではなく、全員が同じルールの中にいることを伝えるために。

生活のバランスが崩れていること、所属感を感じにくくなっていることが、授業への意欲を奪っているケースも少なくありません。学級との繋がりが薄れれば、頑張れない自分への負い目が生まれ、さらに孤立が深まるという循環にもなりかねません。その子の状況・心情・行動について共通理解をつくることが、その循環を断つ第一歩です。
全員の共通ルール:「今必要なことを精一杯やる」
葛原が提示する共通ルールはシンプルです。「今あなたに必要なことを精一杯やる——これが全員の人生のルールである」ということです。
授業中に寝る必要がある子は、今その子にとってそれが最優先かもしれない。九九がまだ身についていない高学年の子は、クラスの授業についていけなくなってしまうなら、まず九九に戻ることがその子の唯一の選択肢です。「みんなと同じ空間に座って聞いていれば合格」というのは、その子の心と体が本当に必要としているものに応えていません。九九カードを使いながらでも構わない。それを使いながら練習している中で、「カードなしでやった方が早い、先の世界にも繋がる」と気づくのは子ども自身です。もっと子どもを信じてよい、と葛原は言います。

一方で、内容を早く理解した子がのんびりと時間をやり過ごしているなら、それは同じルールの下で問い直されます。今の現在地にあぐらをかいて、自分の心と体が本当に必要なことに耳を傾けずただだらだらしていないか——学力が高い子の停滞も、このルールの上では等しく問われるのです。
できるできないは人それぞれで、本当に関係ない。大切なのは、やるかやらないか。この価値基準が教室に定着すれば、九九の習得に一歩近づいた子の振り返りには「星何個上げたらいいか分からないくらい感動する」場面が生まれます。現在地から精一杯やっている子の歩みが光り輝く教室が、少しずつつくられていきます。
それぞれの現在地から始まる教室へ
この一連のアプローチを振り返ると、各段階に一貫した姿勢が流れていることが分かります。全員が同じことを同じタイミングでやることをゴールにするのではなく、それぞれの現在地を認め、そこから今必要な一歩を踏み出せる教室をつくること。これはそのまま、個別最適な学びの本質に重なります。
けテぶれを導入したばかりで「やらない子がいる」と壁を感じている先生へ。それは失敗ではありません。そこから始まる関わりの積み重ねの中に、教室が変わっていく手がかりがあります。