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トップダウンで命じない。生駒市の伴走越境型研修に見る、ボトムアップ教育改革の作り方

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奈良県生駒市では、けテぶれ自由進度学習を軸にした「伴走越境研修」が市単位で進んでいます。教育長がけテぶれの価値を深く理解していても、市内全員へのトップダウン指示にはしない。その代わりに、希望制・越境・ハブ人材の巡回・場づくりという構造を組み合わせることで、先生の主体性を支えながら改革を前に進めています。この記事では、市内規模での教育改革を「トップダウンでも放任でもない」かたちで実現するための条件を、生駒市の実践から整理します。

生駒市で進む伴走越境型研修

奈良県生駒市では、子どもたちの主体性を大切にした学びのあり方を模索する研修が、1年以上にわたって継続しています。この研修が「伴走越境型」と呼ばれるのには理由があります。1回きりの外部講師による講演ではなく、講師が付き添いながら継続的に関わる伴走型であること。そして、生駒市内の先生だけでなく、市外の先生も参加できる越境型の設計になっていること。この2つの特徴が、この研修を他の取り組みと一線を画するものにしています。

市内の状況を率直に言えば、全員が自由進度学習やけテぶれに取り組んでいるわけではありません。さまざまな現在地の先生がいて、教育改革に懐疑的な声があることも確かです。しかし、止まっているか進んでいるかといえば、確実に進んでいる。その進み方が、特定の方法を上から押しつけるのではなく、先生一人ひとりの意欲と文脈を尊重したものになっているところに、生駒市の取り組みの核心があります。

では、なぜこの設計なのか。希望制にすることで、「まず動きたい」という先生が自分の意思で参加できます。希望者が来る場をつくることは、一見すると小さな工夫に見えますが、改革の第一歩としては非常に合理的な判断です。強制参加では生まれない自発的な問いとエネルギーが、希望制の場には宿ります。

さらに、越境型であることによって、市内だけで募集する場合よりも先行実践者がコミュニティに入る確率が高まります。けテぶれや自由進度に造詣が深く、実践歴が長い先生が場にいるかどうかは、その場の高まりに大きく影響します。先を走っている人の存在が、まだ試行錯誤中の先生にとって具体的な道標になるからです。こういう実践に対して造詣が深い先生が参加してくれる確率を上げるには、越境型という設計が実務的にも理にかなっています。

一方で、越境型には注意点もあります。参加者が地理的にあまりにも離れすぎると、研修がオンラインだけの関係に閉じてしまいます。市内の取り組みとしての最大の強みは、距離が近く、顔が見え、実際に教室に行けることにあります。この地理的近さをいかしながら、越境型の多様性も取り入れる。その両立こそが、生駒市の研修設計のポイントです。二律背反に見える要素を同居させる設計として、今年度はチューニングがなされてきました。

希望制の場と先行実践者から学びの熱を広げる構造図
希望制の場と先行実践者から学びの熱を広げる構造図

なぜトップダウンではうまくいかないのか

この取り組みを理解するうえで欠かせないのが、トップダウン的な推進を意図的に選んでいないという事実です。生駒市内で変化を起こしてきた中心人物は、けテぶれの価値を早くから深く理解し、さまざまな場面で葛原を引っ張ってきた方です。教育長もけテぶれのオープンチャットに参加しているほど関心を持っており、けテぶれについてある程度の理解を示しているという状況があります。

それほどの理解があってもなお、「市内全員にけテぶれをやりなさい」とはなっていない。これは偶然ではなく、意図的な判断です。

なぜか。トップダウンで教育実践の方法を命じることは、ほぼ確実にうまくいかないからです。先生の主体性を大切にした学びを育てたいのに、その教師自身の主体性を蔑ろにする方法で推進することは、構造として矛盾しています。命令によって形式だけが広がることはあっても、実践の質が伴うことは稀です。「止めるけどね」という感覚は、現場でこうした動きを長く見てきた人間の実感から来ています。

しかし、だからといって「主体性に任せるしかない」という放任も、また違います。変えたい先生を孤立させ、動きたいエネルギーを散らしてしまう。意欲があっても、構造がなければ前には進めません。トップダウンでも放任でもない。それを実現するのが、構造としての伴走越境型研修です。

そして、この構造の中で重要なのが「評価主義」という視点です。「けテぶれだけが正しい」という絶対主義でもなく、「あなたのやり方もいい、私のやり方もいい」という相対主義でもない。教育目標——子どもが主体的に学ぶ力を育てる——という共通のものさしに照らして、どの実践がより近づき得るかを比べ合い、積み上げていく。絶対主義が先生の主体性を殺すとすれば、相対主義は実践の深まりを止めてしまいます。評価主義はその両方を避ける、第三の立場です。

教育委員会のハブ人材が文脈を編む

この研修の成功を支えた大きな要因のひとつが、教育委員会側に入ったハブ人材の存在と、その人物の動きかたにあります。

そのハブ人材が徹底的に行ったのが、市内全校への巡回訪問です。一校一校を繰り返し訪れることで、ほぼすべての学校の先生の顔と名前が分かるようになります。逆に言えば、市内のすべての学校の先生がそのハブ人材のことを知っている状態になっていく。「今日、来てくれたんだ」という継続的な関係性が、少しずつ紡ぎ上げられていきます。

この巡回の価値は、情報収集以上のところにあります。1回きりの訪問では成立しないことが、繰り返し関わることで見えてくるからです。「この前取り組んでいたあれ、どうなりましたか」「子どもたちが少し変わってきましたね」という会話ができるのは、文脈として理解しているからこそです。先生にとって、自分の実践の経緯を知っている人に話すことと、初対面の人に最初から説明することとでは、相談のしやすさがまったく違います。

この動きを見ていると、授業中に担任が子どもたちのあいだを回りながら「今どんな感じ?」と聞く場面に重なります。それと同じことを、市内全体のスケールでやっている。教室で担任が子どもの現在地を見取る動きの、市内版と言えます。管理職との関係はもちろんのこと、個別の先生一人ひとりに声をかけ、文脈を理解していく。これがハブ人材の本質的な役割です。

巡回によって市内の全体像を把握できると、もう一つの重要な動きが可能になります。それが「つなぐ」ことです。市内のあちこちでけテぶれや自由進度に取り組む先生を見つけ、「あの学校でも同じ悩みを持っている先生がいる」「同じ通り道にいる人がいる」ということが分かれば、その人たちを引き合わせることができます。自由進度学習で言えば「あそこでも同じ悩みをしていた」「あそこで同じ通り道を歩んでいる」——バラバラに孤独に悩んでいた先生が仲間を見つけられる構造が生まれます。

リアルの巡回に加えて、オンラインのDiscord上でも先生たちとやり取りを続けています。対面とオンラインの両方を組み合わせながら、ハブ人材は市内の実践者ネットワークを少しずつ織り上げていきます。

ハブ人材に求められるのは、圧倒的な実践値と、それを押し付けない姿勢の両立です。

自分自身が主体的な学びを深め、本を書くほどのレベルまで実践を高めてきた人物だからこそ、それぞれの先生の現在地を見取り、それぞれの次の一歩を一緒に考えるという視点が自然に持てます。「それぞれの文脈を見ながら、それぞれの次の一歩を一緒に考える」というスタンスは、実践の深さがある人間であればこそ自然に体現できるものでもあります。だから先生たちも頼りにする。こういう教室をつくれる方がこのポジションについたことが、今年の市内改革の大きな成果になったと言えます。

次の一手は、つながれる場を作ること

ハブ人材が先生同士をつなごうとしても、そのための「場」がなければつなぎようがありません。学校でも同じような実践をしていると知っても、互いに自発的に連絡を取り合うことを期待するだけでは、つながりは生まれにくい。教室であれば「席を移動させればいい」という話ですが、それに相当する動きを市内規模でやるには、意図的に場を設定する必要があります。ハブ人材が「場があるから行っておいで」と言える状態があって、初めてつなぎ合わせることの具体的な道筋が見えてきます。

現在、けテぶれ・自由進度・サークルタイムといった関心の近い先生たちが集まり、話題を共にする動きが生まれています。次の一手として構想されているのは、小教研などの既存の枠組みと連動しながら、年間を通じて固定するのではなく、テーマに応じて流動的に会議を作っていく形です。ハブ人材が「あなたの文脈だったら、この会議に行ってみたらどうですか」「ないなら作るお手伝いもできる」と橋渡しできる。場があるからこそ、つなぐという行為に具体的な道筋が生まれます。

こうした構造が整っていくと、個別最適でありながら協働の強度も高い学びの環境が市内全体でも実現できる可能性が見えてきます。それぞれの先生が自分のペースと関心に応じて動けながら、テーマ別のコミュニティで深く交差する。個と集団が有機的につながっていく、流動性の高い状態です。

また、市単位で動くということは、教育委員会や学校だけを相手にすればいいわけではありません。市議会や議員との連動も大きな課題になってきます。教育改革は学校内だけで閉じる話ではなく、行政全体との関係の中で進めていく必要があります。これは課題でもありますが、学校単位や地域単位では動かしにくい力を、市単位だからこそ動かせるという側面でもあります。

多様な実践を高める共通言語としてのけテぶれ

先生の主体性を尊重し、多様な実践が生まれる場をつくること。これはとても大切なことです。しかし、「何でもよい」という相対主義に陥ってしまうと、実践は深まりません。

この点は、岡山での取り組みを振り返った際にも強く感じたことです。共通言語や共通技能があることで、異なる実践同士を比べ合うことが初めて可能になります。「あなたの実践もいい、私の実践もいい」の先に何があるのかが見えてこなければ、それぞれの実践はそれぞれのまま、孤立したものとして終わります。

多様な実践を高め、練り上げるためには、共通言語・共通技能が必要です。それは多様性を消すためにあるのではなく、多様な実践を比べ合い、互いから学び合うためにあります。共通のものさしがあるからこそ、違いに意味が生まれます。

このプロセスに圧倒的な説得力を持って機能しているのが、市内のある実践者の教室です。実際に教室を見せること、そこで子どもたちが自ら動いている姿を見ることが、最大の説得力になります。「けテぶれがいい」という言葉よりも、けテぶれを通じた実践の結果として子どもがどう変わっているかを目の当たりにすることが、評価主義の根拠になります。言葉ではなく、現実の教室が証拠になる。

その根幹に駆動しているのがけテぶれという枠組みですが、それは「けテぶれが手柄を取りに来ている」という話ではありません。長期的に見て選択肢として残り、実践を確実に変えていく枠組みとして示す。それぞれの先生のやり方を否定するのではなく、より深い場所で連帯できるための共通言語として機能させていく。そのプロセスを、着実な一歩として積み重ねていくことが大切です。

そこで目指す姿は「全員が同じことをやっているが、全員が違うことをやっている」という状態です。

型として共有されているものがあるからこそ、それぞれの教室で異なる展開が生まれる。型があるから個性が際立つという、逆説的な豊かさです。これをある程度実現できるという景色が生駒市では見え始めています。

その良さが伝わるように。そして、その伝え方とはどういうものなのかを探究しながら、市内での実践は続いていきます。

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