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柔軟な教育課程は、空いた時間ではなく学びの基盤から作る

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学校が時程や時間割を自由に編成できる方向へと制度が変化しつつあります。これは、管理職が教員の余裕を生み出し、けテぶれ心マトリクスのような新しい実践を全校で試みる機会を作れるという意味で、大きな追い風です。しかし、45分授業を40分に短縮して生まれた約127コマだけに「主体的な学び」を詰め込み、残り1000コマ以上を旧来のまま保存するなら、それは改革の本体とはなり得ません。

学習と探究は午前と午後に分けるものではなく、45分の中で往還する両輪として回る必要があります。生み出した時間があるとすれば、それは学習内容をさらに増やすためではなく、学習方法と自己省察を扱う時間として活かすべきです。そして不登校、特異な才能、日本語指導といった多様な子どもへの支援は、制度や特別プログラムだけでなく、通常学級の包摂性と学びの基盤から見直すことで、はじめて根本から機能していきます。

柔軟化は追い風だが、空いた時間だけでは足りない

教育課程の柔軟化の動きが進んでいます。各学校が時程や時間割を自律的に編成できる余地が広がることで、これまでは難しかった試みが現実になりつつあります。ある学校では、校長の判断で時間割を大きく組み替え、金曜日は子どもたちが昼で帰るほどの時程を実現しました。そしてその時間的余裕を土台に、全校でけテぶれに挑戦してみないかと教員に提案できたと言います。

心マトリクスのような実践は「難しい」「今の働き方では余裕がない」と言われることが少なくありません。それは確かに正しい声でもあります。自分が深く考えてきた実践ならともかく、忙しい教員生活の中に新しい発想を入れていくことは、確信もワクワク感もなければ前に進まないものです。だからこそ、管理職が時間的余裕を生み出し、そこに新しい実践を提案できる構造は大きな意味を持ちます。時程の柔軟化は、管理職レベルで教員の余裕を生み出し、新しい実践を全校で提案できる追い風です。これは各担任レベルではなかなかできないことだからこそ、管理職の動きがここで効いてきます。

では、生み出した時間をどう使うかという話に移ります。具体的な実践事例として、1授業を45分から40分に変更し、午前中に5コマを行うことで、1015コマ分の5分、約127コマ・5000分を生み出すというものがあります。その時間の活用として、子どもが教材・ペース・場所を自分で選ぶ単元内自由進度学習(マイプラン学習)や、ギターの探究など自分のテーマを持ち込むフリースタイルプロジェクトが挙げられています。

方向性としては理解できます。しかし、ここで問わなければならないことがあります。40分に短縮された1015コマを旧来のまま保存して、生まれた127コマだけを「主体的な学び」に充てるとしたら、それは比率として約10対1の世界です。残りの1015コマは「自分で選べない授業」で、生み出した127コマだけが「自由」という構造になります。1015コマを手つかずのまま保存して127コマだけに自由を置いても、それは改革の本体にはなりません。

けテぶれやQNKSの発想では、1015コマ全体をマイプラン学習であり、フリースタイルプロジェクトでもあるように変えることこそが問われています。127コマを自由にするのではなく、1015コマそのものを変えていく。午前中の40分は主体性を否定し、生み出した時間だけ主体性を尊重するという構造は、子どもたちにとっても整合性がありません。それが今の公教育が直面しているフェーズだと言えます。

けテぶれとQNKSを両輪で回す学びの構造
けテぶれとQNKSを両輪で回す学びの構造

学習と探究を分けず、両輪で回す

時間割改革の議論でたびたび登場するのが、「午前は学習、午後は探究」という発想です。1日の前半で教科の学習内容を終わらせ、午後の時間を探究的な活動に充てるという構造です。一見バランスよく見えますが、これは学習と探究の関係を根本から誤って捉えていると言わざるを得ません。

学習と探究は、午前と午後に分けるものではなく、45分の中でシームレスに往還する両輪として機能するものです。片方の車輪だけを回して、もう片方はあとで回すという自転車は前に進みません。まっすぐ走るためには、両輪が同時に回り続ける必要があります。学習していたことが探究につながり、探究していたことが学習に戻ってくる。この往還が45分の中に組み込まれてこそ、子どもたちの思考は深まっていきます。

比率の問題もあります。仮に午前5コマ・午後1コマという構造にすれば、学習と探究は5対1の割合になります。これほどのアンバランスがあれば、子どもたちの思考は大きく偏った方向で進んでいくことになるでしょう。子どもたちはその比率を自分で調整することができません。学校が決めた時間の中でやりましょう、という構造である以上、その比率も学校が決めてしまっているからです。仮初めに渡されたわずかな自由の中で探究し、翌朝になればまた一斉授業に戻るという繰り返しでは、主体性は育ちにくいものです。

また、生み出した時間を「学級裁量の時間」として「空いたからご自由に」とすることにも注意が必要です。総合的な学習の時間と同様、目的と基盤のないまま渡された自由は、活動はあるが学びが深まらないという状態を生み出しやすくなります。時間を作ることと、その時間の中で何を育てるかは、まったく別の問いです。

生み出した時間は、学び方と自己省察に使う

では、もし40分授業によって午後に時間が生まれたとして、その時間を何に使うべきでしょうか。

けテぶれ的な学習を進めると、子どもたちの振り返りには2つの観点が必要になることが見えてきます。それが「学習内容」と「学習方法」です。現在の時間割は、ほぼ100%が学習内容を扱うものです。算数を学ぶ、国語を学ぶ、理科を学ぶ。その時間は十分に設定されています。一方で、どうやって学ぶかという「学習方法」を学んだり考えたりする時間は、時間割上にほとんど存在しません。総合的な学習の時間をこの「学び方の探究」として活用するという提案も以前からありますが、それと同じ発想がここでも使えます。

生み出した時間があるとすれば、学習内容ではなく学習方法を扱い、大分析・大計画を通じて翌日の学びを考える時間にすることが、最も価値ある使い方です。午前中の学習全体を振り返り、「今日の自分の学びはどうだったか」を分析して、「明日はどうしようか」を考える。これが大分析・大計画です。午前中の学習を午後で分析し、明日の計画を立てる。このサイクルが回ることで、子どもたちは学びの外側からではなく、自分自身の内側から学び方を問い直す機会を持てます。

さらに、学び方を考えるということは、単なるスタディスキルの話に留まりません。「明日どんな学習をするか」を考えることは、「明日どんな生活を送るか」「自分にとって大切なことは何か」という問いにつながっていきます。外側の世界に向けて正しい方法を学ぶことと、内側に潜って自分は何がしたいのかを見つめることは、表と裏の関係です。学び方を考えることは、明日の選択・生活・行動を考える深い自己省察であり、生き方を考える時間に直接つながります。それは学習指導要領が大切にしている「自らの生き方を考える」というキーワードとも、ダイレクトに接続するものです。

今の学校生活において、外側への学び(学習内容・知識・技能)の時間は十分にあります。足りていないのは、内側を見つめる時間です。学習方法を扱い、自分の学びを分析し、明日の自分を考える時間。その空白を、柔軟化によって生まれた時間で埋めることができるとすれば、それは本当に意味のある改革になります。

多様な子どもをグラデーションで見る

教育政策の議論では、「特定の分野に特異な才能のある子どもが2.3%」「学習面・行動面で一時的に困難を示す子どもが10%」「不登校傾向が11%」といった数値が示されます。これらは特定の状態にある子どもへの支援を考えるうえで有用な情報です。しかし、読み取り方を誤ると、かえって多くの子どもたちを見えにくくする危険があります。

数値を「0か100か」で読むことで、2.3%に入る子どもたちと、97.7%のそれ以外の子どもたちという単純な二分法になってしまいます。しかし教室は、そのような断絶ではなくグラデーションです。2.3%や10%という数値を0/100で読まず、教室はつねにグラデーションであると捉えることが、多様な子どもを見る出発点になります。特異な才能を持つ子どもが2.3%だとしても、残りの97.7%が「普通の才能の子ども」なわけではありません。上位5%・10%のゾーンにいる子どもたちは確かにいて、日々の教室に座っています。

ここで注目すべき問題があります。目立つほどの尖りがある2.3%の子どもは、才能の顕れとともに、苦手な部分も目立ちやすくなります。そのため周囲も気づきやすく、ケアにつながりやすい面があります。一方、上位10%・20%あたりにいる子どもたちはどうでしょうか。こうした子どもたちは、「何でもそこそこできる、いい子」として社会の中に適応してしまいます。本来持っている尖りを調節し、抑え込み、自分の特性が十分に発揮されないまま学校生活を過ごしてしまうことが少なくありません。

尖りがあるからこそ才能がある。しかしそれを社会に合わせて調節できてしまうがゆえに、発見されないのです。能力があるのに、それを発揮する機会も、育てる働きかけも受けられないまま過ぎていく。これは非常にもったいないことです。教室をグラデーションとして見るということは、こうした「見えにくい子ども」に目を向けることでもあります。人間の特性は正規分布します。教室にもつねにばらつきがあると考えることが、支援の起点になります。

不登校支援は通常学級の包摂性と両輪で考える

不登校の要因は多様です。社会生活への強い不安、集団の中での身動きの取りにくさ、あるいはこれまでの経験によるトラウマ。それぞれに応じた支援が必要であることは言うまでもありません。教育支援センターや学びの多様化学校(独自の教育課程を編成しながら卒業資格を得られる仕組み)といった制度的な支援は、確かに必要です。

しかし制度的な支援だけを拡充するという方向には、立ち止まって考える必要があります。不登校支援において、通常学級そのものの包摂性を最大限に高めることは、制度的支援と両輪で進められなければなりません。

「一つの教育課程では対応が難しい子どもたち」という言い方があります。それは正しい認識です。ただ、その「一つの教育課程」の中身を問うことなく、制度上の出口だけを増やしていくとすれば、根本は変わりません。けテぶれ的な学習空間に転換することで、不登校が解消したという例は実際にあります。通常学級の授業そのものを変えることで包摂できる子どもたちがいるという事実は、制度論と並べて必ず議論されるべきことです。

教育支援センターの在り方についても課題があります。居心地のよい空間はもちろん大切です。しかし、居場所機能だけで満足してしまうと、学習意欲や資質能力の向上という教育的役割が後退してしまいます。実際に、「自由だから朝から夕方まで好きに過ごしてよい」という場を見た保護者が、その場を選択肢から外してしまい、子どもが行き場をなくすというケースも起きています。居心地がよいことと、教育的な役割を果たすことは、どちらかでよいものではありません。教育支援センターは、居場所として機能しながら、同時に学びの意欲と基盤を育てる役割を持つ必要があります。

個別の指導計画という観点でも課題があります。算数や理科の進度を記録するだけの指導計画では、不登校の子どもたちの実態には届かない場合が多くあります。「聞く」という目標が指導計画に書かれていたとして、「聞く」とは具体的に何をすることなのか。そこが言語化されていないと、指導のしようがありません。コンテンツの進度よりも深い層にある「自分の学習を自分で進められる」という基盤を、具体的な言葉にして指導計画に落とし込むことが求められます。それこそが、けテぶれや心マトリクスの出番です。

特異な才能を特別枠だけに閉じ込めない

特定の分野に特異な才能のある子どもへの支援として、外部の専門プログラムへのアクセスや、高度な学習内容を提供するプログラムの開発といった方向が検討されています。才能をさらに伸ばしたいなら、その分野の専門環境に接続することは観点として成り立ちます。中学校の部活動が地域クラブへと移行しつつあるように、学校の中で完結しない学びの場を外部に求めることは、一つの合理的な選択です。

ただ、ここで問わなければならないのは、公教育が担う役割は何かということです。特異な才能を持つ子どもが示す「学習上・生活上の困難」は、高度な内容を提供するだけでは解消されません。特異な才能への支援は、選ばれた子どもだけの特別プログラムではなく、通常教室の中で尖りと苦手が響き合える文化づくりと両輪で考える必要があります。

教室にIQ140・150の子どもがいるとき、教師の仕事は何でしょうか。その子だけを別の場所に送り出すことではなく、その子の尖った才能と苦手な部分が、30人の学びの共同体の中で溶け合い、響き合える文化と環境をつくることです。情動やモチベーションと折り合いながら安定した学びの生活を送れるかどうか、自分の能力を社会の中でどう循環させていくかという問いは、どれだけ才能があっても避けられません。それを育てるのが学校であり、そのときにけテぶれや心マトリクスが基盤として機能します。

また、選抜された2.3%だけがプログラムの対象になるとしたら、その境界線のすぐ手前にいる子どもたちはどうなるのでしょうか。グラデーションとして見るなら、その子たちもまた同様の支援を必要としている可能性があります。特別プログラムの存在を否定するのではなく、それと並行して通常教室の包摂性を高めることが、両輪として機能していかなければなりません。

日本語指導をQNKSの領域から捉え直す

日本語指導が必要な子どもへの支援について、「表面的な日本語指導からの脱却」という方向が示されています。漢字の書き順や読み書きの練習にとどまらず、概念の理解や論理的な思考の基盤を育てる方向への転換です。

具体的には、日本語で書くことがまだ苦手な段階でも、「等しい」という言葉の意味や分数の概念を理解できるようにすること。さらに、書く際に論理の展開を考え、文章の構成を工夫できるようにすること。母語の力も活用しながら、概念理解と文章構成という深い層にアプローチしていく方向性が示されています。

日本語指導は、表面的な言語技術の習得ではなく、概念理解と論理の構成を支える方向で設計すべきであり、これはQNKSと強く接続する領域です。QNKSは、問い・狙い・核・スキルという枠組みを通じて、内容のある思考を形式として捉え直す実践です。数学的な概念を日本語でまだうまく書けなくても、式と意味の関係を理解し、その構造を論理として展開できるようにする。これはまさにQNKSが得意とするアプローチです。

漢字や書き順という表面を教えるのではなく、概念と論理という根幹を育てる。この方向性が日本語指導の文脈で明示されているということは、言語の違いを超えて「学びの基盤」を育てるという問いに、制度的な議論もようやく近づいてきていることを意味しています。そこに接続できる実践が、すでに教室の中に存在しています。

根っこにある学びの基盤へ戻る

ここまで見てきた不登校、特異な才能、日本語指導という三つの課題は、一見それぞれ別の問題に見えます。しかし、これらを「コンテンツ」つまり学習内容の問題として捉えると、それぞれに個別のプログラムや制度的対応を積み重ねるしかなくなります。各地の取り組みを見ると、アセスメントツールの開発、外部探究プログラムの導入、染め物体験など、課題ごとに異なるアプローチが並立しています。それぞれに意味はあります。しかし、根っこを見ていないまま表面に対処し続けているという感覚は拭えません。

根っこは別々に見えて、実は同じところから生えてきているのです。不登校・特異な才能・日本語指導といった課題は、コンテンツ偏重ではなく、けテぶれ・QNKS・心マトリクスという学びの基盤から見ると、共通の根を持ちます。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、教科の内容(コンテンツ)を扱うものではありません。それは、学び方・思考・心の状態を扱う「基盤」です。算数ができるかどうかよりも前の層にある、自分の学びを自分で調整できるかどうか。自分の思考を形式として捉え直せるかどうか。自分の内側の状態を把握しながら安定して学べるかどうか。こうした問いに向き合う基盤として、これらのツールは機能します。

不登校の子どもが必要としているのは、算数の進度の補完だけではありません。自分の学習を自分で進められるという自立の基盤です。特異な才能を持つ子どもが必要としているのは、高度な内容の提供だけではありません。情動やモチベーションと折り合いながら安定した日々を送れるという基盤です。日本語指導が必要な子どもが必要としているのは、漢字の練習だけではありません。概念を理解し、論理を構成するという思考の基盤です。

学習の基盤となる資質能力とけテぶれ・QNKSの対応
学習の基盤となる資質能力とけテぶれ・QNKSの対応

課題ごとに個別のプログラムを積み重ねていくと、根っこに届かないまま表面的な対処が繰り返されることになります。一方、学びの基盤そのものを通常教室の中に組み込んでいけば、多くの課題を包括的に支える力が生まれます。制度上の支援と通常学級の包摂性を両輪で進めることは、この基盤があってはじめて意味を持ちます。

柔軟な教育課程の編成を語るとき、私たちは「空いた時間に何をするか」という問いを立てがちです。しかし本当に問われているのは、「通常の1015コマを通じて何を育てるか」です。時程を変えることは手段であり、目的は子どもたちが自分で学びを調整し、学習内容と学習方法、外側への学びと内側への省察を往還できる基盤を、教育課程そのものに組み込むことです。空いた時間を作ることに先立って、その問いに向き合うことが求められています。

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