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ほったらかしの自由進度学習を越えて、公教育を次の段階へ進める

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公教育はこれまで、経験主義的な改革が登場するたびに「活動はあるが学びが生まれない」という批判を受け、系統主義へと引き戻される流れを150年にわたって繰り返してきました。今まさに広まりつつある自由進度学習も、子どもをただ「ほったらかし」にするだけでは同じ轍を踏みます。しかし、だからといって元の一斉指導・教え込みに戻ることは、公教育の本当の終わりを意味します。必要なのは「何を教えるか」のアップグレードです。150年間で積み上げられた教科指導の蓄積を踏み台にして、子どもたちに学び方・考え方を教える段階へ、公教育を螺旋上昇させる時が来ています。

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公教育の危機と、言い切る覚悟

このチャンネルでは、日本の公教育を一歩前に進めるための具体的な提案を続けてきました。ただ、最近はその発信スタイルをもう一段変えようと考えています。

公教育がかなり危ないフェーズに入ってきているという感覚が、ぬぐえません。「いろいろあるよね」「みんなはどうだろうね」という相対化した発信は、安定した状況では丁寧さになりますが、今は違います。言い切るということは、それだけ違和感も生みます。その違和感を包含してなお進められるだけの主張になっているかどうか、自分自身の実践の強度が問われることでもあります。それでも今の公教育の局面は、そういったギアチェンジを求めていると判断しました。

繰り返されてきた「逆戻り」の歴史

自由進度学習が広まりつつある今、「子どもたちが活動しているだけで学びが生まれていない」という声が聞こえてきます。しかし、こうした違和感はまったく新しいものではありません。

少し前に経験学習が大切だと言われて、総合的な学習の時間や生活科が取り入れられたときも、まったく同じことが言われました。「ほったらかしで活動あって学びなし」という批判です。そのたびに日本の教育が選んできた答えは何だったか。「やはり学ばせなければならない、教え込まなければならない」という系統主義への回帰でした。

大正自由教育に始まる経験主義的なムーブメントは、歴史を通じて繰り返し現れてきました。しかし全体の傾向としては、教え込みを基本にした系統主義が続き、その中に時折「それだけでは」というムーブメントが現れては消え、また元の世界に戻っていくというサイクルが、この150年間繰り返されてきたのです。いわゆる系統主義と経験主義のシーソーと言われますが、実態はほぼ系統主義の世界に、ムーブメントが現れては消えていくという構図です。

今回の自由進度学習の流行が、またその同じ流れに終わるとしたら、どうなるか。ここが最終フェーズです。これ以上の繰り返しに同じ結末をつけてはいけない局面に来ています。

日本の教育が結果を出してきた本当の理由

「日本の教育はすごい」「国際学力調査でも結果を出している」という声があります。それは事実です。ただ、「すごいのは公教育のシステムではなく、そのシステムの中で働き、学んできた個々人の能力だ」という点は、はっきり見ておく必要があります。

画一的なペースで、方法さえ自分で決められない環境の中で、それでも子どもたちはちゃんと学び、先生たちは心も体もボロボロになりながらそのシステムを支えてきた。個々人の力がすごいのであって、システムそのものがすごいわけではありません。

今の不登校数の増加グラフを見てください。先生の病気休業の増加グラフを見てください。オンラインスクールやフリースクールという別の選択肢が現れた途端、子どもも先生もそちらへ向かっています。東京都がフリースクールへの助成を出すところまで来ています。これは「個人が弱くなった」という話ではなく、公教育というシステムの限界が、もう隠しきれなくなってきているということです。

だからこそ、今また積み込み型の一斉指導に戻ることは、本当の意味での終わりを意味します。

「ほったらかし」になっていないか

自由進度学習を「いいね」と思った先生たちには、きっとこんな思いがあったはずです。教科書がここまで洗練されているなら、子どもたちが自ら学べる世界に移行できるはずだ、と。その直感は正しいのです。

しかしその後、何が起きたか。教科書・ドリル・ワークシートを子どもに渡して、あとは任せた——そこで止まってしまっているのが、ほったらかしの自由進度学習です。

子どもたちは行き場を失います。努力のベクトルを失います。何をどのようにやればよいかの見通しがないまま、ただごたごたと知識をかき集めるだけの状態に陥ります。活動はある、しかし学びが生まれていない、地に足のつかない学びの状態です。

こういう状態を見て「自由進度学習なんて最悪だ」となるのは、ある意味で当然の反応です。でも、そこで元へ戻ることがどれほど危ういことかを、しっかり受け取っておく必要があります。

元へ戻るのではなく、何を教えるかをアップグレードする

「やはり教えなければならない」「示さなければならない」という意識そのものは、正しいのです。問題は、その意識を「教科の細かな内容をさらに噛み砕いて与える」という方向に向けてしまうことにあります。

ここで「何を教えるか」をアップグレードしなければなりません。

教科指導を否定したいわけではありません。むしろ逆です。これまでの150年間で、教科の見方・考え方、本質的な価値、思考の道筋は、かなり言語化され整理されてきました。各社の教科書を読めば、その教科で学ぶべきこと・考えるべきことが凝縮されています。国民誰もが低価格で手にできる一冊の本の中に、150年間の研究と研鑽が総動員されているのです。それこそが150年間の集大成です。

その蓄積があるからこそ、次のステージへ進める準備が整っているとも言えます。教科書をいつまでも先生が握って、一つひとつ噛み砕いて与え続けることをやめ、子どもたちが教科書を使って自ら学べる世界に移行していく——それが今の流れの本質だったはずです。任せた後に「自分はやることがない」と止まってしまうのは、そこから先に教えるべきことがあることに、気づいていないからです。

次に教えるべきもの:学び方・考え方、そして生き方

海に入れていきなり「さあ泳いで」と言っても、泳げる子はいません。泳げるようになるためには、泳ぎ方を教える必要があります。教科書を使って自ら学べる子を育てたいなら、自ら学ぶための学び方・考え方を、教師が明確に教える必要があります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

学び方・考え方を教えるということは、子どもたちに「自分で学ぶためのコントローラー」を渡すことです。目標を立て、試し、振り返り、練習を重ねるという一連の流れを自分で動かせるようになること。どう考えれば問題が解けるか、どう学べば理解が深まるか——そうした学び方の見方・考え方を、繰り返し練習させていくことが教師の次の役割です。

けテぶれマップ
けテぶれマップ

この力が育つことで、子どもたちは単線型の授業で全員が同じペースで引っ張られなくても、自分のペースで学びを進めていける自立した学習者になります。ただ手を放すことと、信じて任せることはまったく別物です。自ら学ぶための道具を渡した上で任せること——それが本当の意味で「信じて、任せる」ということです。

学び方・考え方の次には、生き方があると考えています。これはもう少し先の話になりますが、教師が子どもたちに伝えるべきことの射程は、そこまで伸びていくものだと思っています。

公教育を螺旋上昇させる

自由進度学習の場に「何か頼りない」「学びが生まれていない」という違和感を覚えたとき、その違和感を「だから元へ戻ろう」の理由にしてはいけません。

その違和感は、次へ進むためのシグナルです。

系統主義と経験主義のシーソーを同じ高さで繰り返すのをやめなければなりません。ぐるっと回ってまた同じ場所に戻るのではなく、一段上に積み上げていく。公教育を螺旋状に進化させていく必要があります。

150年間の教科指導の蓄積という土台はあります。そして今、その上に「学び方・考え方を教える」という次のステージを積み上げる準備が整っています。自由進度学習の違和感を「失敗の証拠」にするのではなく、「次へ進む契機」として受け取ること。それが、公教育を一歩前に進める本当の意味での改革につながります。

公教育は消えません。意識や経済力や立地に関わらず、すべての子どもを受け入れる場として公教育はあり続けます。だからこそ、その中身を一段上に引き上げることに、これほど大きな意味があります。今は本当に瀬戸際です。同じ繰り返しをもう一度するか、それとも螺旋上昇を選ぶか——その分岐点に、今の公教育は立っています。

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