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自分を貫く教師、相手に染まる教師

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教師のあり方は、一つではありません。自分の軸を貫き、「私は私」として子どもたちの前に立つ教師もいれば、一人ひとりの子どもに合わせて、自分の見え方や関わり方を変えていく教師もいます。

この記事では、けテぶれサロンプラスで生まれている実践対話、子どものノート写真をSNSに出すことへの注意、そして送別会で出会ったある教師の実践を手がかりに、教師の多様なあり方を考えます。

最後に、けテぶれ・QNKS・心マトリクスを、葛原氏個人のスタイルではなく、子どもたちの学習力を高めるための「学び方・考え方の実技的な知識体系」として捉え直します。

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共通言語があると、実践対話は深くなる

けテぶれサロンプラスでは、参加者同士の実践共有や対話が活発に行われています。そこにある強さは、単に同じ場所に人が集まっていることではありません。

同じ共通言語を持ち、同じ学びのコントローラーを見ていること。

この感覚があるからこそ、実践の話が深まりやすくなります。

葛原氏は、それを「同じゲームをしている感覚」と表現しています。同じゲームをしている人同士であれば、「ここではこうするといい」「このアイテムはこう使える」「こういう進め方もある」といった攻略の話が自然にできます。

教育現場も、ある意味では似ています。日本の学校教育は、地域や学校による違いはありながらも、大きな構造としてはかなり共通しています。同じような時間割、同じような教室、同じような学年や教科の枠組みがあります。

しかし、その中でどんなプレイスタイルを選ぶのか、どんな学びを目指すのか、どんな道具を使って子どもたちの学びを支えるのかまでは、必ずしも共有されていません。

そこで、けテぶれやQNKS、心マトリクスのような概念が、単なる方法論ではなく「共有のアイテム」として働きます。使っている道具が同じであれば、理解度や熟練度の違いも見えやすくなります。「そんなふうにも使えるのか」という学び合いも起こります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

学びのコントローラーを共有するということは、子どもの学びをどう見るか、教師がどこに働きかけるかを共有することでもあります。だからこそ、実践共有は単なる報告ではなく、学び方の見方・考え方を磨き合う場になっていきます。

実践共有には、場の設計が必要です

一方で、実践を共有する時には注意も必要です。特に、子どものノート写真をSNSに直接出すことについて、葛原氏は強い危うさを語っています。

もちろん、子どものノートには価値があります。学びの変化、考えの深まり、けテぶれの積み重ねが見えることもあります。教師同士がそれを見合うことで、実践の質が高まることもあります。

しかし、SNSは誰が見るか分かりません。たとえ子どもや保護者の許可を取っていたとしても、そのノートに対して否定的な反応が向けられる可能性があります。

葛原氏が耐えられなかったのは、自分に批判が向くことではありませんでした。ノートを書いた子どもに向けて、否定的な言葉が向けられてしまうことでした。

これは、実践共有そのものを否定する話ではありません。むしろ、実践共有には大きな価値があります。だからこそ、どこで、誰と、どのような関係性の中で共有するのかが重要になります。

信じて、任せて、認める関係がある場で、なおかつ個人情報に十分配慮しながら共有する。

閉じすぎる必要はありません。しかし、開きっぱなしにしてよいわけでもありません。子どもの学びの記録は、教師の実践を証明する素材である以前に、その子自身の情報です。

守秘義務や個人情報への配慮を前提にしながら、実践共有をどう設計するか。これは、これからの教師コミュニティにとって大切な課題です。

厳しいのに、子どもが離れない教師

今回の中心にあるのは、送別会で出会ったある教師の事例です。

その教師は、6年生を多く担任してきた先生で、生徒指導も担当していました。授業はとてもオーソドックスで、特別に目新しいことをしているわけではありません。学年集会や学級では、子どもたちにかなり厳しいことを言う場面もあります。

しかし、不思議なことに、子どもたちはその先生から離れません。厳しいことを言われても、楽しそうに過ごし、最後には豊かな関係の中で卒業していきます。

葛原氏は、その理由を尋ねました。すると、その先生は少し照れながら、こういう趣旨のことを話したそうです。

「全員から好かれようとしている。」

ここだけを切り取ると、迎合のように聞こえるかもしれません。しかし、そうではありません。その先生は、全体に向けて厳しく語る自分を持ちながら、同時に、一人ひとりの子どもにとっての自分を変えていたのです。

葛原氏はそれを「玉虫色」と表現しています。

全体の前で語る先生としての自分がいる。一方で、ある子どもから見た自分と、別の子どもから見た自分は違っていてよい。その子に合わせて、その子色に自分がなる。

これは、単なる甘さではありません。むしろ、一人ひとりの子どもを見続け、自分の関わり方を調整し続ける高度な教師のあり方です。

教師の研究三位一体
教師の研究三位一体

ここで大切なのは、教師の研究三位一体を語る時にも、それを唯一の正解にしないことです。葛原氏自身の教師像は、比較的「私は私」というあり方に近いものです。自分を磨き、自分の本音や軸を大切にしながら、子どもたちの前に立つ。

けれども、そのあり方だけが正解ではありません。自分を貫く教師がいる一方で、相手に染まる教師もいる。そのどちらも、子どもとの関係を豊かに紡ぎうるのです。

日記への返事という、個別のフィードバック

その先生が具体的に何をしていたのか。象徴的なのが、週末の日記の宿題です。

子どもたちは週末に日記を書きます。月曜日に提出された日記に対して、その先生は一週間かけて全員に返事を書きます。

しかも、ただ一言コメントを書くのではありません。

子どもが5行書いたなら、先生は6行書く。

そう決めていたそうです。

子どもがアニメの話題を書いてきたら、そのアニメを調べます。キャラクターの関係や物語の流れを知った上で、「それが好きなんだね」と受け止めるだけでなく、「先生はこの場面やこのキャラクターもいいと思った」と返していく。

これは、フィードバックであり、語りでもあります。評価するためのコメントではなく、その子と関係を紡ぐためのオーダーメイドの返事です。

子どもが自分から教師のところへ寄ってくるタイプなら、日々の会話の中で関係が育つかもしれません。しかし、そうではない子もいます。机の周りに集まってこない子、自分から話しに来ない子、距離を保つ子もいます。

その子たちとどうつながるのか。

この先生にとって、その入口が日記だったのです。全員に同じように接するのではなく、一人ひとりに合わせて、自分の言葉を変えていく。まさに「その子にとっての自分」になろうとする実践です。

「私は私」と「あなたにとっての私」

葛原氏自身は、自分のあり方について「私は私です」という感覚を語ります。自分は自分でしかない。だからこそ、自分が自分であるとき最も輝く。自分の軸を磨き、自分の本音を大切にする。

このあり方には、大きな強さがあります。無理が少なく、持続可能で、教師自身が崩れにくいからです。

一方で、今回紹介された先生は、まったく違う方向から持続可能性をつくっています。その先生にとって自然なのは、一人ひとりに合わせて自分を変えることでした。

職員室でも同じことが起こっていたそうです。新しい職場でまだ周囲に自分が認知されていない時、その先生は一人ひとりを観察し、それぞれに合った話題や笑いを少しずつ届けようとしていました。子どもに対してしていたことと、同じ構造です。

つまり、その先生のあり方は、教室だけの技術ではありません。その人が人と関係を結ぶ時の根本的なスタイルなのです。

ここで見えてくるのは、教師の多様性です。

自分を貫く教師。 相手に染まる教師。 全体に強く語る教師。 個別に深く返す教師。 授業で引っ張る教師。 日記の返事で関係を編む教師。

どれか一つだけが正解なのではありません。大切なのは、自分の現在地を見つめることです。

あり方にも、自己調整学習がある

けテぶれやQNKSは、子どもの学びを自己調整していくための考え方として語られることが多いものです。しかし、今回の話は、教師自身のあり方にも自己調整学習があることを示しています。

自分はいま、どんな教師として立っているのか。 子どもとの関係を、どのようにつくろうとしているのか。 自分にとって無理のない関わり方は何か。 それは、子どもにとって本当に届いているのか。

こうした問いを持ちながら、自分の現在地を見つめ直すことが大切です。

葛原氏のあり方は、一つの現在地です。自分の軸を持ち、自分として立つ教師像です。しかし、それが唯一の完成形ではありません。今回の先生のように、一人ひとりに合わせて自分を変えていくあり方もあります。

重要なのは、どちらが正しいかを決めることではありません。

自分が持続可能に、しかも子どもたちと豊かな関係を紡げるあり方は何か。

その問いを、自分自身に向けることです。

けテぶれ・QNKSは、個人技ではなく知識体系です

最後に、けテぶれチャンネルとして重要な着地点があります。

けテぶれやQNKSは、葛原氏の個人技ではありません。葛原氏のキャラクターや語り方があって初めて成り立つものでもありません。

むしろ、これらは「学び方・考え方を教えるための実技的な知識体系」として捉えた方がよいのではないか、という視点です。

国語、算数、理科、社会のように、子どもたちに教えるべき内容があります。同じように、学び方や考え方にも、教えるべき内容があります。しかもそれは、知識を説明して終わるものではなく、使えるように育てていく実技科目です。

けテぶれは、計画・テスト・分析・練習のサイクルとしてよく知られています。QNKSは、問いや納得、気づき、整理といった学びの質に関わります。心マトリクスは、学びに向かう心の状態や関係性を見つめる視点を与えます。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

これらをばらばらのノウハウとして扱うと、「けテぶれはぐるぐる回すもの」「QNKSは考え方の道具」といった浅い理解で止まってしまいます。

しかし、本来はもっと深いものです。けテぶれとQNKSは両輪であり、学びのコントローラーの中に位置づくものです。学び方の見方・考え方を子どもたちに手渡すための、体系的な知識であり、実践の構造です。

だからこそ、授業で子どもを引っ張ることが得意な先生、教えることが上手な先生にこそ、これを受け取ってほしいという願いがあります。

葛原氏が開発し、構造化してきたものを、葛原氏だけが最も上手に子どもへ手渡せるとは限りません。算数という教科を作った人が、必ずしも世界で一番算数を教えるのが上手いとは限らないのと同じです。

実践を構造化する力と、それを子どもに豊かに手渡す力は、別の力です。

だからこそ、けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、特定の教師の個性に閉じるものではありません。多様な教師が、自分のあり方を通して子どもたちに手渡していけるものです。

自分のあり方で、学び方を手渡す

今回の話は、二つの問いを残します。

一つは、教師としての自分の現在地をどう見つめるかという問いです。

自分を貫くのか。 相手に染まるのか。 全体に語るのか。 個別に返すのか。 どこに力を使い、どこで子どもとつながるのか。

もう一つは、けテぶれ・QNKSをどのように子どもたちへ手渡すかという問いです。

それは、葛原氏の真似をすることではありません。自分の教師としてのあり方を通して、学び方・考え方の知識体系を子どもたちに届けることです。

自分が自分であるとき最も輝く教師もいます。 一人ひとりにとっての自分になろうとする教師もいます。

その多様性の中で、共通言語としてのけテぶれ・QNKSが働く時、教師同士の実践対話も、子どもたちの学習力も、より豊かに育っていくのではないでしょうか。

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