自由進度学習は、子どもに任せるだけで成立する実践ではありません。むしろ、子どもに任せるからこそ、教師がこれまで自分の内側で行ってきた学び方、考え方、教材との向き合い方を、子どもに渡せる形へ構造化する必要があります。
その中核にあるのが、けテぶれとQNKSです。これらは単なる学習法ではなく、子どもが全教科で教材世界を自分で進むための、やってみることと考えることの両輪です。
さらに、自由な学びの余白が生まれるほど、子どもたちの良さ悪さ、人間性、関わり方が見えやすくなります。だからこそ、心マトリクスのような共通言語が必要になります。そしてそのさらに土台には、「自分は何者か」「何を願っている存在か」という自己探究があります。
自由進度学習の本質は、教えないことではありません。子どもが自分で学びを進められるように、学び方の見方・考え方と、自分自身を見つめる構造を系統的に手渡すことにあります。
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自由進度学習は、なぜ今求められているのか
現在、自由進度学習への関心が高まっています。その背景には、教育の大きな揺れとして、系統主義と経験主義の往復があります。
系統主義とは、子どもたちに必要な知識や技能を、系統的に教えていく考え方です。一方で経験主義は、教え込みや詰め込みだけでは子どもの主体性が縮んでしまうため、子ども自身の実体験や活動を重視しようとする考え方です。
ただし、経験を増やせばそれでよいわけではありません。過去の総合的な学習や生活科の実践でも、「子どもたちは楽しそうに活動しているが、学びとしてどこまで深まっているのか」という問いがありました。いわゆる、活動あって学び無しの問題です。
今回の自由進度学習も、同じ危険を抱えています。子どもに任せること自体は大切です。しかし、任せるだけで深い学びが生まれるわけではありません。放っておけば、また「やはり子どもに任せても学べない」という揺り戻しが起こり、系統主義へ戻っていく可能性があります。
だから問うべきなのは、「教えるか、教えないか」ではありません。「任せるために、何を教えるのか」です。
任せるために、何を教えるのか
自由進度学習を考えるとき、しばしば「教師が教えない」「子どもに任せる」という面だけが強調されます。しかし、それでは実践は上滑りします。
子どもに任せるなら、教師はまずこう考える必要があります。
任せたときに、子どもが自分で学びを進めるためには、何を知っていなければならないのか。どんな見方を持っていなければならないのか。どんな考え方や手順を使える必要があるのか。
ここで重要になるのが、学び方の見方・考え方です。
これまで教師は、教材研究の中で多くのことを自分の内側で行ってきました。教材を読み込み、問いを立て、つまずきを予想し、練習の順序を考え、どこで深まりが生まれるかを見極めてきました。そのうえで、子どもたちにコツやポイントを伝えてきたわけです。
しかし、自由進度学習では、その学びの営みそのものを子どもに委ねます。そうであるなら、教師が内側で行ってきた思考のプロセスを、子どもに渡せる知識・技能として構造化する必要があります。
教師の研究三位一体でいえば、教材研究だけを深めていればよいのではありません。教材世界を子ども自身が進めるようにするために、教師が自分の学び方、考え方、試し方、振り返り方を見つめ直し、それを子どもに渡す必要があるのです。

この視点が抜けると、自由進度学習は「教科書を渡して、あとは自分で進めなさい」という形になってしまいます。それでは、教材の世界を深く冒険できる子と、そうでない子の差が広がるだけです。
任せるためには、教えるべきことがあります。それは、答えを教えることではありません。子どもが自分で答えに向かっていくための、学び方の見方・考え方を手渡すことです。
けテぶれとQNKSは、全教科を支える両輪である
ここで、けテぶれとQNKSが重要になります。
けテぶれは、子どもが自分で学習を進めるためのサイクルです。QNKSは、問いを立て、考えを深め、知識を構造化していくための思考の側を支えます。言い換えれば、けテぶれとQNKSは、やってみることと考えることの両輪です。
自由進度学習で必要なのは、子どもがただ自由に活動することではありません。自分で教科書を開き、分からないことに出会い、試し、考え、判断し、表現し、また修正していくことです。
そのときに、子どもが何を頼りに進めばよいのか。そこで渡すべきものが、けテぶれとQNKSです。

この両輪は、小学校教師にとって特に重要です。小学校では、担任が全教科を担います。もちろん理科には理科の、社会には社会の、国語には国語の固有の学び方があります。中学校や高校の専科では、教科ごとの専門的なサイクルをさらに磨いていく必要があるでしょう。
しかし小学校では、全教科に通用する学び方を子どもに渡すことが大きな役割になります。国語でも算数でも理科でも社会でも、自分で学びを進めるための基本的な知識・技能を渡す。その抽象度で考える必要があります。
学習指導要領3観点でいえば、単に知識を知っているだけでは足りません。生きて働く知識・技能として使えること。未知の状況において思考し、判断し、表現できること。そして、学びに向かう力や人間性へつながっていくことが求められます。
未知の状況に出会わなければ、未知の状況に対応する力は育ちません。自分で教科書を開き、「分からない」に出会い、そこで考え、試し、表現する経験が必要です。
だからこそ、自由進度学習には意味があります。ただしその自由は、放任ではありません。教科書や単元時数という枠組みの中で、子どもが未知の世界に出会い、自分の力で進んでいくための構造を用意することです。
系統主義か経験主義かではなく、どちらも必要である
ここで大切なのは、系統主義と経験主義を単純に対立させないことです。
経験主義的に、子どもに任せる。けれども、学び方の見方・考え方は系統的に教える。これが自由進度学習を成立させるための要点です。
つまり、教材の中身をすべて教師が先回りして教え込むのではありません。一方で、子どもに丸投げするのでもありません。子どもが自分で教材世界を進めるように、学び方を構造化して手渡します。
この両立がなければ、自由進度学習は過去の経験主義的な失敗を繰り返します。活動はある。子ども同士の関わりもある。楽しそうな雰囲気もある。しかし、「この一年で、あなたは何ができるようになりましたか」と問われたときに、子どもが答えられない。そうなってしまう危険があります。
自由進度学習は、負担軽減のための仕組みではありません。教師が楽をするために、子どもを自立した学習者という言葉で突き放すものでもありません。
小学校教師が担うべきことは、全教科に通用する学び方を、子どもに渡すことです。自立した学習者とは、放っておけば勝手に育つ存在ではありません。自立に必要な構造を受け取り、使い、振り返り、自分のものにしていく中で育っていく存在です。
自由な学びほど、良さ悪さが露出する
自由進度学習には、もう一段深い問題があります。
子どもに学び方の見方・考え方を渡し、自由に学ぶ余白をつくると、そこには子どもたちの良さ悪さが現れます。どのように人と関わるのか。分からない友だちにどう接するのか。自分の都合だけで動くのか。よりよく学ぼうとするのか。そうした人間性の問題が、見えやすくなります。
教師が一斉に説明し、子どもが座って聞いているだけの空間では、この問題は表面化しにくいものです。本当は存在していても、見えにくい。しかし、自由に学ぶ空間を立ち上げた瞬間、その余白の中で一人ひとりの判断や関わり方が現れてきます。
だからこそ、自由進度学習には心マトリクスが必要になります。
心マトリクスは、単なる心理ケアの道具ではありません。自由な学びの場で、子どもたちが良さ悪さを見つめ、共有し、自分自身や他者との関わりを考えるための共通言語です。

学びのコントローラーの構造で考えると、上の段を子どもに渡せば、次の段が問題になります。教材の学びを子どもに任せれば、学び方の見方・考え方が必要になります。学び方を渡せば、自由に学ぶ中で現れる良さ悪さの判断基準が必要になります。
その判断基準を共有しなければ、自由な学びは好き放題に流れてしまいます。子どもたちが同じ言葉で自分たちの姿を見つめ、よりよい学びとは何か、よりよい関わりとは何かを考えるために、心マトリクスが必要なのです。
心マトリクスの土台には、自己探究がある
さらに、心マトリクスを渡したとき、その下にある土台が問題になります。
良さ悪さを見つめる主体は誰なのか。揺れ動きながら判断している「自分」とは何なのか。ここで自己探究が必要になります。
自己探究とは、「自分を大切にしましょう」という表面的な話ではありません。自分は何者なのか。自分はどういう存在なのか。自分は何を願っているのか。そうした根本に向かっていく営みです。
子どもは、自分自身を直接見ることはできません。だから、足跡が必要になります。ここでノートや振り返りの意味が変わります。
ノートに書くことは、単なる学習記録ではありません。自分がどのように考え、どこでつまずき、何を試し、どう変わったのかを残すことです。つまり、足跡を残すことです。
歩いた後に振り返るから、自分の歩幅や軌道が見えてきます。同じように、学びの足跡を振り返るから、自分自身を洞察できます。思考を文字にして捕まえることは、自己省察と自己探究の入口になります。
けテぶれとQNKSによって、子どもはやってみることと考えることを往復します。その経験の足跡をノートに残し、振り返ることで、「自分はどのように学ぶ人なのか」「何に向かおうとしているのか」が少しずつ見えてきます。
自分の深い願いから、人生を動かす力へ
自己探究のさらに奥には、自分の深い願いがあります。
私たちは日々、外側から与えられた課題をこなして生きています。学校でも、仕事でも、やるべきことは次々にやってきます。その中で、目の前の課題を処理することだけが学びになってしまうことがあります。
しかし、本来の人生は、外側から押し付けられた他者の願いを実現するだけのものではありません。自分が何を願い、何を実現したいのか。その深い願いから、自分の人生を動かしていくことが必要です。
もし自分の深い願いが見えていなければ、どれだけ学びのコントローラーを持っていても、他者の願いを効率よく実現するだけの存在になってしまうかもしれません。自分で学べる。自分で考えられる。けれども、どこへ向かうのかは他者に決められている。これでは、自由な学びの本質には届きません。
だからこそ、自由進度学習は人格の完成へつながる実践として捉える必要があります。教科の学力だけではなく、学び方だけでもなく、人間性だけでもなく、自分は何を願って生きるのかという問いまで含んでいます。
自由進度学習の本質は、構造を手渡すことにある
自由進度学習を成立させるには、いくつもの層を見なければなりません。
まず、教材世界があります。子どもが教科書や課題に出会い、自分で進んでいく世界です。
次に、学び方の見方・考え方があります。ここで、けテぶれとQNKSが、やってみることと考えることの両輪として働きます。
さらに、自由な学びの中で現れる良さ悪さや人間性を見つめるために、心マトリクスがあります。
そして、その土台には、自分は何者か、何を願っているのかを問う自己探究があります。
この構造を抜きにして、自由進度学習を「子どもに任せる実践」とだけ捉えると危うくなります。任せることは必要です。しかし、任せるためには、子どもが自分で進めるための構造を手渡す必要があります。
自由進度学習の本質は、教えないことではありません。子どもが自分で学びを進められるように、教師が何を系統的に手渡すのかを明確にすることです。
それは、流行の方法論ではありません。全教科を担う小学校教師が、子どもたちを自立した学習者へ育てるために、学び方と考え方、良さ悪さの見方、そして自分自身への問いを手渡していく実践です。
子どもを信じて、任せて、認める。そのためには、任せた先で子どもが本当に歩いていけるように、足場となる言葉と構造を渡す必要があります。けテぶれ、QNKS、心マトリクス、自己探究は、そのための土台としてつながっています。