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「やり方」より「あり方」が問われる時代へ

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学習者主体の学びや自由度の高い授業づくりに取り組むとき、教師に問われるのは方法論だけではありません。コーチングとけテぶれを組み合わせた研修イベントでの気づきをもとに、演出された楽しさの限界・一方通行の授業が子どもに仮面をかぶらせる構造的な危険・そして教師自身が人生の主体者として立つことの意味を考えます。

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「コーチング×けテぶれ」研修から見えたこと

先日、コーチングの専門家と共同で研修イベントを開催しました。「コーチング×けテぶれ」という組み合わせで、単に午前・午後をそれぞれ独立して担当するのではなく、互いの話に不規則に割り込みながら対話を深めていくスタイルをとりました。相手が話しているところへ「ちょっと待った」と入り込み、別角度から問いかける。その即興性が非常に良い緊張感を生み出していました。

振り返って一つ気になったのは、参加者の方に渡せる時間が短くなってしまったという反省です。けテぶれ初参加の方も多かったため、インプット多めになるのはある程度やむを得ない。それでも、参加者主体・学習者主体の場づくりという観点から見ると、もっと思考を渡す時間をつくれたのではないかと感じています。

一方向に語り続けるだけでは、主体的な学びの場とは言えません。語りっぱなしにならず、どのようにすれば参加者が自分で考え、動き出せる時間をつくれるか——これはあらゆる「ゆるアツ」系の会で模索し続けているテーマです。

「楽しんでいる」のか「楽しまされている」のか

クロストークの中で、ある問いが引っかかりました。「楽しんでいるのか、楽しまされているのか」という問いです。

テレビゲームを例に考えてみましょう。ゲームをプレイしている子どもは確かに「楽しい」と言います。しかしそれは、脳の報酬系をしっかり刺激するよう、ランダム性・選択性・達成感が緻密にデザインされた結果として「楽しいと感じさせられている」状態かもしれません。

授業にも同じことが言えます。教師が徹底的にデザインし、エンターテインメント的に作り上げた45分。わかりやすい言葉で、笑顔で語りかければ、子どもたちは確かに「楽しかった」と言うでしょう。しかしそれは、子どもが自分で楽しんでいる状態と同じではない可能性があります。

本当の楽しさは試行錯誤のサイクルから生まれる

では「楽しむ」とはどういうことでしょうか。

能動的に試行錯誤を重ねながら「やってみる⇆考える」を回す。そこに自分で差異を見出し、疑問や気づきが生まれる。その気づきがまた次の一歩を促し、さらなる差異を生む——こうしたサイクルが回っていること。それが本当の意味での「楽しむ」だと思います。

やってみる⇆考える(学ぶ)
やってみる⇆考える(学ぶ)

けテぶれの「計画・テスト・分析・練習」のサイクルも、まさにこの構造です。何かをやってみて現在地を確認し、差異から考え、また踏み出す。この往還の中に能動的な楽しさが宿ります。演出された報酬を受け取る楽しさとは、根本的に異なるプロセスです。

一方通行のお膳立てされた構造の中で生まれる教育効果は、本当に浅くしか響きません。たとえそれが精巧に作られた45分であったとしても、その楽しさは「楽しませている」にとどまる可能性を、教師は意識しておく必要があります。

作り込まれた授業が生む「仮面」

一方通行の授業構造には、さらに深刻な問題があります。

教師の求めに応じて、求められる姿を振る舞えば褒められる。その繰り返しの中で、子どもは自分の内側ではなく外側の評価に応じる仮面を身につけていきます。「どんな仮面をかぶれば褒められるか」の競争が、知らないうちに学級全体に広がっていく構造です。

より深刻なのは、その仮面をかぶり続けることで仮面そのものが自己像になってしまうリスクです。大人になったとき、「自分が何者なのか」が見えない。楽しませてもらってきた自分はいるけれど、自分が本当に何を願っているのかが分からない。自分の人生を自分で受け取ろうとした時に、そこに立つべき自分がいない——こういった状態は、過度に演出された環境の中で育った場合に起こりやすいものです。

先人たちが積み上げてきた授業のかたちを全否定するつもりはありません。しかし一方通行の構造が子どもの自己像に与える影響への目線は、持ち続ける必要があると思っています。

自由度を上げるほど、教師自身が問われる

不要な管理を減らし、子ども主体の空間をつくっていくと、必然的に自由度は上がります。しかしそれは、教師が何もしないということではありません。

むしろ逆です。目の前の子を一人の人間として徹底的に尊重しようとするとき、自由度は上げざるを得ない。そしてその分だけ、教師自身が学びの主体者として・人生の主体者として両足で踏ん張れているかどうかが、空間にそのまま影響します。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

子どもたちに学びのコントローラーを渡し、「あなたたちは学びの主体者だ、人生の主体者だ」とメッセージを発し続けるとき、その教師自身が「自分の評価が下がらないか」「周りからどう見られるか」という不安で頭がいっぱいの状態であれば、子どもたちの主体性に飲まれてしまいます。

信じて、任せて、認める——これは単なる指導の技術ではありません。教師自身が自分の人生に対してそれをできているかどうか、そのあり方が問われるのです。

教師として「語る」責任

子どもの主体性を尊重することと、教師として方向を示すことは、矛盾しません。

子どもの主体性は尊重されるべきですが、それがこの社会において「より良い」方向に向いているかどうかは、まだ分かりません。文化・倫理・知識教養、そして学習指導要領が示す知識・技能——これらを子どもたちに授けていくのが教師の仕事でもあります。

「語り」は、わかりやすく明るく話す技術のことではありません。何を信じ、何を良しとし、どこへ向かうのかを語れる存在でいること。地に足のついた言葉で、子どもたちにより良さの方向を示すこと。そういう責任を持ちながら、子どもの主体性を尊重する空間をつくること——この両輪があってこそ、自由度の高い授業は生きてきます。

あなたは何を願う存在なのか。それを自分の言葉で語れる教師でいること。方法論の前に問われるあり方とは、まさにその一点に尽きるのかもしれません。

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