学習指導要領3観点のうち「主体的に学習に取り組む態度」は、子どもが自分で学びを動かせる状態になっていないかぎり、指導も評価もできません。まず「自分でやってみてよい」という場をつくり、その機会が連続するよう設計することが出発点です。そのうえで、浮き輪を外す前に泳ぎ方を教えるように、けテぶれやQNKSという学び方の型をスキルとして手渡して初めて、子どもは学びの主体者として立つことができます。
前提中の前提 ― コントローラーが渡っていない場では育てられない
「主体的に学びに向かう態度」の指導と評価に悩んでいる先生は多いと思います。ただ、その問いに答える前に、どうしても確認しておきたい前提があります。
子どもたちに学びのコントローラーが渡っていない状況では、主体的な学びに向かう態度は指導し得ません。評価もできません。
コントローラーとは何か。「自分の学びを自分で動かしてよい」という権限のことです。教師がコントローラーを握ったまま、言い換えると子どもたちから学びのコントローラーを取り上げたままの状態で、主体的に学びに向かう態度を評価しようとするのは、構造として無理があります。

まず問うべきは、今の自分のクラスでコントローラーは渡っているかどうかです。その問いを飛ばして「なぜ子どもが主体的にならないのか」を考え始めても、答えは見つかりません。主体的に学びに向かう態度の問題は、子どもの性格ややる気の問題ではなく、場の構造の問題から始まります。
「自分でやってみる」場をつくる、そして続ける
コントローラーを渡すというのは、一言でいえば「まず自分でやってみなさい」と言える場をつくることです。ただしこの場には、もう一つ大切な条件があります。
次の段階はそれが連続的にあるかどうかです。
一度だけ「今日は自由に考えてみよう」という時間を設けても、翌日には教師主導の進行に戻ってしまうなら、子どもたちに粘り強さも調整力も育ちません。一回だけ与えられた場では、子どもたちはそこを「何とかしよう」と考え始める前に時間が終わってしまいます。やってみる⇆考えるという往還が起動するのは、次もその次もこういう場があるという保証があってこそです。
学習指導要領3観点でいえば、「粘り強く取り組む」ことと「学習を調整する」という2つの側面は、この連続性なしには成立しません。前の回転と次の回転がちゃんと繋がっていてこそ、子どもたちは主体的に学びに向かうことを思考し、努力を上手に扱えるようになっていきます。
一斉授業で誰が最も主体的に学んでいるか
自分でやってみる場を増やすにあたって、まず立ち止まって考えてほしいことがあります。今の授業の構造において、いったい誰が最も主体的に学んでいるかという問いです。
一斉授業で子どもたちの発表がバーッと出てきて、それを教師が黒板にまとめていく。そのとき一番頭を使っているのは誰でしょうか。多様な意見を整理して、関係性を見つけて、「つまりこういうことだよね」とまとめているのは教師です。子どもたちの側からすれば、意見を一つ投げれば、あとは先生が勝手にまとめてくれるのを眺めてノートに写せばいい、という構造になりやすい。
一番誰が主体的に学んでいるかといえば、教師です。 そういう場の質は、なかなかまずいよねということはよく言われます。
この構造を乗り越えていこうとするとき、「自分でやってみなさい」という言葉が活きてきます。子どもたちは初めて「自分の学びを自分で動かしていいフィールドのゲーム」に参加するわけです。そうなってやっと、学びの主体者としてそこに存在できるようになります。学習力が子どもたちに宿り始める構造に変わるのです。
任せれば育つわけではない ― 浮き輪を外す前に泳ぎ方を教える
ただし、「じゃあ子どもに任せればいい」という話ではありません。ここがとても重要なところです。
全員できますか。できませんよ。だから指導が必要なのです。
水泳の比喩で考えてみましょう。今まで教師に浮き輪をつけてもらい、引っ張ってもらっていた子どもたちの浮き輪を、いきなり外したとします。当然、溺れます。「だから任せられない」という感覚は一面正しい。ただ問題の核心は、今まで泳ぎ方そのものを教えていなかったことにあります。
今までの授業が「プールを眺めながら泳ぎ方について黒板に書くデザイン」だったとしたら、水の中に入っても動けないのは当然のことです。足りていないのは、学び方というスキルそのものです。
「できない子がいるから任せられない」という論法は、「鉄棒ができない子がいるから鉄棒の授業はしない」「算数が苦手な子がいるから割合の単元には入れない」と言っているのと同じ構造です。できない子がいるからこそ指導が必要なのであって、できないからやらないという判断は、学びに向かう態度の指導においては成り立ちません。学習指導要領3観点として評価項目に挙げられているということは、「指導してください」という意図が込められているのです。
では何を指導するのか。学び方っていうものがちゃんとスキルベースで子どもたちに紹介されないと、浮き輪は外せない。それが揃って初めて、教師は子どもたちに学びを任せられるし、子どもたちも学ぼうとするチャレンジができるようになります。
義務教育で手渡す基本の型 ― けテぶれとQNKS
では、学び方のスキルとして何を手渡すのか。
義務教育、それも小学校で全員に手渡す「本当の本当の型」として私が答えを出しているのがけテぶれです。計画→テスト→分析→練習という、自分の学びを自分で回すための型です。もう一つがQNKS、問い(Question)・抜き出し(Nukidashi)・組み立て(Kumitate)・整理(Seiri)という思考の型で、学びの対象に対して自分の頭を使うための道具です。

この二刀流さえあれば、という言い方ができます。競泳選手やシンクロナイズドスイミングの選手になる必要はありません。クロールと平泳ぎのように、どんな学びの環境においてもおおむね自分で泳げるだけのスキルとして機能します。全員がすぐに使いこなせるわけではない。だからこそこれを「できるようになる対象」として教室に位置づけ、スキルベースで示し、練習し、一つずつできるようにしていくデザインが必要です。
算数には教科書があるからどんな子がいても単元が進みます。学び方にはこれまで教科書がなかったから、挑戦できなかった。それを徹底的に具体化して手渡すことが、指導者の役割として問われています。
学びの海を、恐れずに泳ぐために
学び方の型を持つということは、その子の人生において「学ぶ」という選択肢を残すことでもあります。
海が怖いと感じてしまったら、海に関わる選択肢がすべて人生から消えてしまいます。それと同じで、学ぶことが怖いと思ってしまったら、学ぶという選択肢が人生の中から消えてしまいます。
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けテぶれとQNKSを手渡すことは、その子が学びの海に入ったときに怖がらずに楽しむことができる力を渡すことです。大海原へ無防備に送り出すのではなく、浅瀬でちゃんと泳ぎ方を身につけて、少しずつ深みに向かえるようにする。確実に学び方の見方・考え方がスキルベースで示され、できているかどうかを練習し、一つずつできるようになっていく。そのデザインがあってこそ、子どもたちは学びの主体者として教室に立てるようになります。
主体的に学びに向かう態度の指導は、「任せるか任せないか」の二択ではありません。コントローラーを渡し、連続する場を設計し、泳ぎ方を丁寧に教える。その条件が揃って初めて、子どもたちは本当の意味で学びの主体者になることができます。