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子どもが自ら学ぶ理科の授業へ ― 「ドラえもん」からの脱却

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重さの単元を1日かけて学ぶ「スーパー理科デー」の実践を題材に、理科の実験授業で子どもが自ら学ぶ場をどのようにつくるかを語ります。実験道具は魅力的なだけに遊びへ流れやすく、学びの問いとの対応を失いやすい。だからこそ、教師は「全部を前から引っ張る」役割から降り、けテぶれとQNKSという道具を渡し、子どもが教科書を読んで自分で計画し、班で実行できる場をつくることを核としています。一斉型の授業を否定するのではなく、子どもが自己選択・自己決定できる場との両立を目指す視点を提案します。

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スーパー理科デー ― 1日がっつり理科を学ぶ

ある水曜日、時間割が特殊な構成になりました。1時間目から理科・理科・理科・学活という流れで、子どもたちにとっての「スーパー理科デー」です。時間割変更の積み重なりで理科の時間が逼迫し、もう日もない、ならばいっそ1日まとめて理科をやり切ってしまおうという判断からです。

単元は「重さ」。粘土を形変えても重さは変わらない、アルミホイルを丸めても重さは変わらない、そして同じ大きさでも素材が変われば重さが変わる、という学びです。台ばかりと実験キット、粘土が教室の中央にまとめて並べられ、班単位でその日の単元を全部やり切るという設計です。

この実践を通じて問われているのは、教師が何をするかではなく、子どもが何をするかです。

遊びの価値と、遊びだけでは散らかる理由

理科の実験の強みは、実際に手で触れ、目で確かめられることにあります。その強みがそのまま「学びが遊びに流れやすい」という課題にもなります。

台ばかりが目の前に置かれたら、測りたくなります。それは自然なことです。いろんなものを乗せてみたくなる気持ちは否定できません。遊びから本質的な気づきへ向かうベクトルは、学びとして確かに価値があります。仮説と検証が高速回転するような探究的な思考が生まれれば、それは深い学びです。

ただし、そこには膨大な時間が必要です。 遊びの特徴は、興味関心が向こう方向へガーッと推進力を持って展開していくことにあります。どこに引っかかってどこに没入していくかは、コントロールができません。積み木遊びが始まることもあれば、粘土を別の用途で使うこともある。それは遊びとして正当な姿です。

一方で、授業には単元のねらいがあり、限られた時間があります。その制約の中で「とりあえず与えて遊ばせてみる」という状態を容認すれば、学びは散らかって終わります。戦略的に「今日の最初の1時間は遊ぶ」と意図的に組み込むなら話は別ですが、そうでなければ、遊びをそのまま単元に持ち込むだけでは学びは成立しません。

遊びの価値を認めつつも、それがどのような学びの問いと対応しているのかを子ども自身がつかむこと、これが理科の実験授業で最初に問われる力です。

授業の始め方 ― 語りと道具の手渡し

この授業の背景には、年初の心マトリクス導入から続けてきたドラえもんの語りがあります。

ドラえもん・のび太・ジャイアン、それぞれがどのような立場にいるか。映画版ののび太とジャイアンが変わる理由は何か。ドラえもんが壊れたり、静香ちゃんがさらわれたりするから、彼らは変わります。つまり、道具や助けてくれる存在がいなくなるとき、人は自分の力で動き出す。この1年の学びをそういう場にしたい、ということを伝えます。

「先生は消えます」という宣言です。ただし、本当に消えるわけではない。見守り、困ったら助ける。けれど基本的には、君たちが学びのコントローラーを使って、自分の現在地から一歩でもあるべき姿に向かって進む、そういう場をつくりたいという語りです。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

この語りで子どもたちに手渡してきたのが、けテぶれとQNKSです。 ドラえもんがいなくなっても、映画版ののび太がタケコプターや空気砲を使えるように、この道具があれば進めるという位置づけです。「先生は秘密道具を渡します。それがけテぶれとQNKSです。手渡した瞬間、私は消えます」という形で、年初から道具と見通しを渡してきたわけです。

この日の理科の冒頭では、その前提に立って教科書とQNKSで単元の全体像をつかむところから始めます。道具を渡すこと、そして子どもたちへの信頼を言葉にすること。この2点が、自走する学びの場をつくる出発点です。

教科書とQNKSで、単元の全体像をつかむ

語りの後、子どもたちがまず取り組むのは教科書を読むことです。

「最初に教科書を読んで、この単元はどのような実験をしてどのようなことを確認していくのか、QNKSで単元構造図を書く」という手順を渡します。QNKSとは問い(Question)・抜き出し(Nukidashi)・組み立て(Kumitate)・整理(Seiri)の4段階で思考を進める道具です。単元の全体像を構造的に書き出すことで、「この単元では何をやらなければならないのか」を子ども自身が気づいていきます。

QNKS(基本)
QNKS(基本)

教科書には実験の問いも、予想の問いかけも、手順も、ほぼすべて書かれています。それを子どもが読み、「次はこれを確かめるんだ」と自分でつかむのが出発点です。教師が一つひとつ読み上げて、みんなで一緒に進めていく必要はありません。教科書に書いてあることは、教師が再演するのではなく、子どもが読んで実行する対象として扱います。

この感覚は、チャイムと同じです。小学3年生にもなれば、チャイムが何を告げているかはみんなわかっています。わかっているなら、先生がもう一度「はいチャイム鳴ったぞ、掃除始めるぞ」と言う必要はない。聞こえている、理解できている、なら動く。教科書も同じで、「書いてあるなら読める、読めたならやれる」というのが一貫した発想です。

班で学ぶなら、計画も班で立てる

今日の授業は班単位です。実験のコントローラーが班の数分用意されていて、班で全部の学習を進めていきます。

このとき、「自由に進めてよい」だけでは足りません。班で学ぶときには計画も班で立てます。 一人で計画を立てるときと同じように、今日何をどの順でやるかを班で話し合い、4人が共有した状態で動き出す。個人の思いつきで動いているだけでは、置いてきぼりが生まれ、4人の学びが連動しなくなります。

実際、計画段階は比較的落ち着いてできていました。QNKSで単元構造図を書き、班の中で見合って「これでいいね」と確認できた。ところが実験が始まると崩れやすくなります。道具を取りに行くとき、教科書の順番ではなく気になったものを持ってきてしまう。台ばかりを手にした途端、測れるものを片端から測ろうとする。問いと実験の対応が切れる瞬間が、ここに起きます。

教師の役割 ― 現在地へ戻す問い返し

この場面で教師がすることは、叱ることではありません。

台ばかりを使って何かを測っている子のところへ行き、まず認めます。「あ、台ばかりちゃんと動いてるね」。そのうえで聞きます。「ところで、これは教科書のどこの何を確かめようとして測ってるの?」

言えなければ、そこで止まります。「そうか、とりあえず測ってみたかったんだね。気持ちはわかる。じゃあ次どうする?」と続けます。教科書を開かせ、「一番最初に何が書いてある? アルミホイルだよね。じゃあ最初に測るべきはアルミホイルのはずだ」と返す。子どもを現在地へ戻す問い返しです。

同様に、粘土を1個測って「次」と進もうとしている班には、「粘土の重さを測ったら終わりなの? 教科書にそう書いてあった?」と問います。3ページ先の内容を先にやっていた班には、「その班の計画はそうなっていますか? 1ページ目の問いはもう済んでいますか?」と確認します。

心マトリクスで言えば、これが「地に足のついた学び」から遠ざかる瞬間への対処です。 道具や実験の楽しさに引っ張られて宙に浮きかけた学びを、現在地へ静かに戻す。見守りながら、でも軽く、問い返しで戻す。それが教師の実質的な仕事です。

「指導書通りは面白くない」の誤解

「指導書通りの授業は面白くない、だから教師はオリジナルの工夫を入れなければならない」という発想があります。これに対して、この実践は真っ向から別の方向を向いています。

指導書通りの授業が面白くない理由は、「指導書通りだから」ではありません。「教師が全部コントロールして子どもにやらせようとしているから」です。教科書に書いてある同じ内容を、教師が演じるか、子どもが自分で読んでやるかで、全く違う学びが生まれます。

教師がオリジナルの教材を作ることに時間と労力をかけていくと、その効果は「その1時間、その1単元」の中に局所化されます。一方、「教科書を読んでやりましょう」という発想は、全教科に即時に展開できます。理科だけで終わらない。1年間のすべての授業に通じる構え方です。

1時間あたりの効果で言えば「1歩」かもしれませんが、1年1000時間の方向性として見ると「1キロ」進む発想です。教師が工夫して授業を面白くする方向より、子どもが自分で教科書を読んでやる方向への一歩が、結果としてはるかに遠くへ連れていきます。

自己調整学習とは「必要なことを必要なだけやること」

この日の語りの締めに、「理科の自己調整学習って何?」と子どもたちに問います。答えは「必要なことを必要なだけやる」です。

教科書の問いをQ1・Q2と確実に消化し終えたら、その先はオリジナルの問いを立てていい。「もっと調べたいことがある」「こうだったらどうなるだろう」という問いをストックしておいて、教科書の学びが終わったら個人で追うことができる。これが自己調整の実際です。

文部科学省が「学びに向かう力」を育てようとしているとき、それを評価する根拠はどこにあるかという問いは重要です。教師が手取り足取りで進める一斉授業の中で、子どもたちはいつ、どこで、どのように学びを自分で調整できるのでしょうか。自己調整する余地がなければ、自己調整する力は評価のしようがありません。 評価できないものは、通知表の季節に「なんとなく」でつけることになります。

子どもが自分でペースを決め、自分で確認し、自分で次を選ぶ場をつくることではじめて、学びに向かう力は実質を持ちます。そしてその結果として、学習の成績も上がります。苦手な子が自分のペースで練習を重ね、得意な子が先へ進み、困ったら友達を頼る。短所で愛されて長所で頼られる場が生まれます。

一斉型と複線型 ― どちらかではなく両輪として

ここまで書いてきて、誤解を招かないために補足します。

この実践は、一斉型の授業を全面否定するものではありません。「要所要所で使い分けることはもちろん大切」というのが正確な立場です。一斉型のよさを認めながら、「だから一斉型だけでいい」という方向には進みません。

問いたいのは、一斉型の授業を大切にしている方々が、その反対側に何を置いているかです。子どもの自己選択・自己決定を許容した、個別最適で協働的な学びの場をつくろうとしているかどうか。どちらが正しいかという問いではなく、両輪をつくれているかどうかです。

単線型の授業と複線型の学びは対立するものではなく、組み合わせて機能するものです。全体で概念を確認し、あとは自分たちで進める。道具を渡して場を開き、要所で全体に戻る。このデザインの中で、信じて任せて認めるという構えが、子どもたちの自走を少しずつ育てていきます。

読後に

理科の実験は、道具が魅力的な分だけ、子どもが学びの問いから離れやすい場面があります。それはある意味、自由進度の学びが最も試される教科とも言えます。

この実践から取り出せるのは、特別な教材や豪華な仕掛けではありません。単元の最初に教科書を読ませ、QNKSで全体像をつかませ、班で計画を立て、教科書の問い・予想・実験・結果を自分たちで対応づけながら進む。教師は最初の語りで道具を渡し、班を回りながら「今それは教科書のどこに当たるの?」と現在地へ戻す問い返しをする。

「教科書に書いてあるなら、自分で読んでやればいい」という発想の転換が、すべての起点です。 それは教師の仕事を減らすことではなく、教師が何をすべきかを根本から問い直すことです。子どもたちに道具を渡し、信じて、任せて、認める。その構えを育てることが、学びに向かう力を地に足のついた形で育てることにつながります。

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