中学校の現場では「努力は損」という価値観が蔓延し、子どもたちの学ぶ意欲が失われつつあります。この問題の根源は、子どもたちが集団の空気に影響されやすい小学校時代、特に3・4年生の時期にあるのではないかと指摘します。公教育が子どもたちの好奇心や自己効力感を育む場として機能不全に陥っている現状に、強い危機感を投げかけます。
はじめに:教育の「リアル」との遭遇 週末に公園で偶然出会ったパパ友は、中学校の先生であり、なんと「けテぶれ」の実践者でした。教育について話が盛り上がる中で、私が普段の発信活動ではなかなか触れることのない、教育現場の厳しい「リアル」を垣間見ることになりました。
私たちがオンラインの勉強会やSNSで出会う先生方は、非常に意識が高く、教育に対して前向きなエネルギーを持っています。しかし、そうした方々の声は、日本の教育現場全体から見ればごく一部なのかもしれません。
今回、そのパパ友から聞いた地方の中学校の現状は、私の想像をはるかに超えるものでした。それは、先進的な取り組みの難しさといった次元ではなく、もっと根源的な価値観が崩壊しているという、深刻な問題でした。
「努力は損」―中学校現場の衝撃的な実態 彼が語ってくれた中学校の現状は、一言で言うと「頑張ることへの価値観が総崩れしている」状態でした。
- 努力 = 損、馬鹿なやつがすること
- 頑張る = 格好悪い
- 楽できる場所にひたすらに向かい、そこから出てこようとしない
さらに深刻なのは、他者の自由を侵害するレベルの自己中心的な行動に対しても、罪悪感を全く持てない子どもたちがいるという事実です。
例えば、ある生徒は授業がつまらないからという理由で教室を抜け出し、授業中の他のクラスに勝手に入って友達と話し始めたそうです。理由を尋ねると、「授業が暇で、隣のクラスに友達がいたから行きました。何が悪いか分かりません」と答えたといいます。
このような行動原理が、一部の生徒だけでなく、少なからず共有されているという状況は、私たちが自明のものとしてきた世界の前提が、静かに崩れ始めていることを示唆しているのかもしれません。
人間が本来持つ「学ぶ喜び」はどこへ消えたのか 「努力に価値はない」「勉強は意味がない」という考え方は、果たして人間が本来持っている感覚なのでしょうか。
もちろん、楽をしたいという気持ちは誰にでもあるでしょう。しかし、それと同時に、私たちは知る喜びや学ぶ楽しさ、そして努力の先にある達成感といった、人間的な欲求も持っているはずです。
生まれたばかりの赤ちゃんや幼児が、「試行錯誤は無意味だ。ただ楽に過ごしたい」と考えているでしょうか。目の前に飛び箱が現れた時、虫を見つけた時、あるいは理科の実験道具に触れた時、彼らの目には好奇心の輝きが宿ります。
小学校に入学する時、「これから勉強を頑張るんだ」と胸を膨らませていた子どもたちが、なぜ学ぶことへの意欲を軒並み失い、「撃沈」してしまうのでしょうか。
それは、彼らが本来持っていたはずの素晴らしい可能性を、後天的な環境によって捨てさせられてしまっているように思えてなりません。
負の価値観を生み出す「生産工場」としての小学校 では、その「後天的な環境」とは何なのでしょうか。 私は、その根源が小学校教育にあるのではないかと考えています。中学校に入学してきた時点で、すでに「努力=損」というマインドセットが固まってしまっているのなら、その価値観は小学校の6年間で形成されたと考えるのが自然です。
つまり、日本の小学校が、期せずして「努力することは損である」という負の価値観を子どもたちに学習させる「生産工場」になってしまっているのではないか、という仮説です。
価値観が固定される「小学3・4年生」という重要な時期 特に、私が担任をしていて強く感じるのは、小学3・4年生という時期の重要性です。この時期の子どもたちは、集団の中に存在する考え方や価値観を非常に敏感にキャッチし、それによって自分自身を規定していきます。
- 「頑張るのって、なんだか格好悪い」
- 「学校って、くだらない場所だ」
- 「面倒なことから、いかにうまく逃げるかが賢い」
といった文化やノリがクラスに蔓延してしまうと、子どもたちはあっという間にその価値観に染まっていきます。そして、「自分は頑張れない人間だ」と、本来の自分とは異なるレッテルを自ら貼ってしまうのです。
一度このマインドセットが固まってしまうと、高学年、そして中学校で方向転換させるのは非常に困難になります。子どもたちが持つみずみずしい好奇心や達成意欲、そして「自分はできる」という自己効力感を育む上で、この時期の環境がいかに大切か、改めて痛感させられます。
まとめ:公教育の役割を問い直す この国に生まれ、家族に大切に育てられ、希望を胸に小学校の門をくぐった子どもたち。彼らが本来持っているはずの輝きや学ぶ意欲が、公教育という場で失われていく現状は、あまりにも悲しく、そして深刻な問題です。
これは単に「日本がダメになる」といった大きな話だけではありません。目の前にいるその子、一人ひとりの人生が、本来あったはずのワクワク感から遠ざけられてしまっているという、非常にかわいそうな事態なのです。
すべての子どもたちが、自ら考え、学び、自らの人生を生きられるようになるために、私たちは公教育のあり方を根本から問い直す必要があるのではないでしょうか。