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衝撃の研究授業から見えた、教師自身の「コア」が持つ本当の価値

ある国語の研究授業は、従来のセオリーから外れているにも関わらず、驚くほど豊かで心地よい学びの空間を創り出していました。

その授業の根底には、教師自身の「好き」という純粋な思いがあり、それが子どもたちの自由な解釈を楽しむ雰囲気へと繋がっていました。

この経験から、教育実践の根幹をなすのは、教師が自分自身と向き合う「自己研究」であり、そこから見出された「コア」となる価値観こそが、豊かな学びの場を創り出すのだと再認識させられました。

はじめに:研究授業で揺さぶられた私の授業観 最近、校内研究などで他の先生方の授業を見る機会が増えています。多くはオーソドックスな一斉授業ですが、私自身の授業観が変わってきたこともあり、自己分析をしながら授業を拝見しています。

そんな中、先日参観した6年生の国語「やまなし」の研究授業が、私にとって非常に衝撃的でした。まるでボディブローを食らったかのような、予想外の角度から「学びとは何か」を問い直される経験だったので、その時の興奮と学びを共有したいと思います。

衝撃的だった6年生「やまなし」の研究授業 その授業は、宮沢賢治の「やまなし」に出てくる謎の存在「クランボン」を題材にしたものでした。

たった一つの主発問で進む45分 授業の中心にあった問いは、「クランボンとは何だと思いますか?」という、たった一つ。 驚くべきことに、授業は終始、先生が挙手した生徒を指名し、生徒が意見を述べ、先生がそれを受け止める、という形式の繰り返しで進んでいきました。

正直なところ、最初の10分間は「マジか…このまま続くのか?」と戸惑いを隠せませんでした。特に、私が重視してきた次のような点が、ほとんど見られなかったからです。

  • 追求の不在: 先生は生徒の意見に対し、「本文のどの叙述を根拠にそう考えたの?」といった深掘りをほとんどしません。
  • 厳密な読解の不在: 生徒たちも、必ずしも本文の叙述に厳密に基づいた意見を述べているわけではありませんでした。

指導助言の先生方からは、「国語科なのだから、本文の記述を根拠にした意見構成をさせないと、何でもありになってしまい深まりがない」というご意見も出ていました。その視点から見れば、まさしくその通りだと私も思います。

違和感が「心地よさ」に変わった瞬間 しかし、授業が15分ほど経過した頃、私の感じ方は大きく変わりました。「なんて心地の良い空間なんだ」と感じ始めたのです。

給食後の5時間目、満腹の6年生。普通なら、一人の発表を延々と聞くような授業は成立しないはずです。しかし、このクラスでは成立していました。

  • 脱落者がいない: 発表を聞いている生徒たちは、のんびりとメモを取ったり、頷いたり、ユニークな意見に笑ったりと、誰もがその場に参加していました。
  • 柔らかな空気: 生徒たちの解釈が一つひとつ丁寧に取り上げられ、先生はそれを否定も肯定もせず、ただ面白がって受け止めていました。

この空間が生まれていた背景には、先生による丁寧な事前準備がありました。並行読書や登場人物の背景学習を通して、生徒たちが豊かに解釈するための知識と思考の土台がしっかりと作られていたのです。

それでも、従来の私の考え方では、「生徒が受け身になる時間は最小限にすべき」「国語の技術に基づいた発言を促すべき」という思い込みに囚われていました。しかし、この日の授業は、そうした私の授業観を根底から覆すものでした。

そこには、正しさや効率とは別の、圧倒的に豊かで知的な空間が広がっていたのです。

授業の価値は「好き」を共有するアンニュイな空間にあった では、この授業の本当の価値はどこにあったのでしょうか。

同僚である担当の先生に話を聞くと、事前研究会で次のように語っていたそうです。 「自分は小説を読み、同じ本を読んだ友達と『ああでもない、こうでもない』と語り合う時間が大好きなんです。その文章の楽しみ方、その場の空気感を、なんとか子どもたちにも味わってほしい」

まさに、この授業はその思いがそのまま形になったものでした。

私たちが友人同士で映画や小説の感想を語り合うとき、「どの表現を根拠にそう言っているの?」などと問い詰めたりはしません。もっとアンニュイで、自由な意味のキャッチボールがそこにはあります。その時間や対話は、決して貧しいものではなく、むしろ非常に豊かなものです。

今日の授業の価値は、まさにそこにありました。教師自身の「好き」という思いを再現し、子どもたちとその感覚を共有する。それは、たまたま生まれた奇跡ではなく、明確な意図をもって設計された空間だったのです。

教師自身の「コア」を探求する自己研究の重要性 この授業を見て、私は「教師である自分とは何者か」という問い、つまり自己研究の重要性を改めて痛感しました。

今日の授業が成立したのは、先生の中に「自分が大切にしたい時間や価値観を、子どもたちにも経験してほしい」という確固たる思いがあったからです。この「コア」となる価値観が土台にあるからこそ、一見セオリーから外れた実践も、豊かで意味のあるものになるのです。

私自身の経験:「Who am I」テストとの出会い 実は私自身も、この「自己研究」に救われた経験があります。教師1年目の頃、私は毎日のように「辞めたい」と思い詰め、定時で帰っては近所の公園を「辞めてやる」と呟きながら歩いていました。

そんな葛藤の中で出会ったのが「Who am I テスト」です。これは、以下のようなシンプルな方法で自分と向き合うテストです。

1. 「私は〇〇です(I am 〇〇)」という構文で、自分について表現する文章を書き出す。 2. 制限時間(例:5分間)で、思いつく限りひたすら書き続ける。 (例:「私は男です」「私は教師です」「〇〇が好きです」など)

これを月に一度続けることで、私は自分の内側にあるものを徹底的に言語化していきました。その中で、「学ぶことの楽しさや豊かさを伝えたい」「一人ひとりが自分らしくいられる豊かな世界を作りたい」といった、自分自身の深い願いや価値観が浮かび上がってきたのです。

血まみれになりながら自分の内面を掘り起こしたような、この苦しい自己研究の経験があったからこそ、今の私の教育実践の「コア」が形成されました。

まとめ:自分を知ることが、豊かな学びの場を創る 今日の研究授業は、教師自身の「コア」が、いかに豊かでユニークな学びの場を創り出すかを教えてくれました。

  • 自分を知る: 学校で得られる最も大切な情報は「自分自身に関する情報」です。自己研究を通して自分の中にある価値観を深く理解すること。
  • 価値を再現する: 自分が大切にしたい学びの形を、授業という空間で再現すること。

これこそが、私たち教師が目の前の子どもたちに提供できる、かけがえのない価値なのではないでしょうか。

学級担任制の良さは、一人の人間として、深く子どもたちと関われる点にあります。専門知識を教えるだけでなく、自分が大切にしている思いや願いを伝えることで、子どもたちの人生を支える何かに繋がるのかもしれません。

今日の授業は、そんな教育の本質に立ち返らせてくれる、素晴らしい時間でした。

おわりに 今回の放送回のタイトル、何がいいでしょうか。暫定でつけてみましたが、もしこの記事を読んで「こんなタイトルがいいのでは?」というアイデアが浮かんだ方がいらっしゃれば、ぜひコメントで教えてください。ピンときたものがあれば、積極的に採用させていただきます!