「目の前のことを着々と、やれる限りやる」——新年の抱負はその一言に尽きる。生活けテぶれの書籍刊行、葛原ゼミの始動、各地での体験会と研修。やることは具体的にたくさんある。その根底には、地に足のついた実践者が自分の言葉で語ることこそが、公教育を変える最も確かな力だという確信がある。年末に起きたけテぶれへの批判の波も、表層的なラベル貼りを超えた実践の深化を促す機会として受け止める。中教審の動向を踏まえても、けテぶれ・QNKS・心マトリクスの実践には向こう10年を見渡す提案可能性がある。
フルスイングする、それだけ
新年の抱負をひと言で表すなら「フルスイングする」だ。
「本当にもう目の前のことを着々と、思いつく限りのことをやれる限りのことをやっていく、まあ1年にしたいな」——今年の振り返りが「フルスイングした」だったから、来年の抱負も「フルスイングする」で変わらない。壮大な目標を掲げるのではなく、今できることを全力でやり切る。そういう地に足のついた姿勢が、この一年の土台にある。
年末には校内研修、各地への訪問、書籍の総仕上げと、怒涛のような日々が続いた。長期休暇に忙しくなるのは仕事の特性として受け入れながら、それでも動き続けた。抱負が抽象的な理想論にならないのは、やるべきことが具体的に積み上がっているからだ。
生活が土台にある——生活けテぶれという視点
2025年の大きな動きのひとつは、生活けテぶれの書籍「けテぶれ学級革命」の刊行だ。
これまでけテぶれは、主に学習・授業・宿題の文脈で語られてきた。しかし今回の本は、その一歩手前——子どもの「生活」に目を向ける。
生活は、学習実践の土台である。
「やはり一番ベース・基礎となるのはその生活部分ですからね。そこがちゃんと主体者として自立的に生活できていないと、やはり授業にも宿題にも派生していかない」——これが本書の核心的な問いかけだ。子どもが学び方を変える前に、まず生活の中で主体者として動けているかどうかが問われる。
ただし、これは一方向の話ではない。「逆もそうですけどね。授業や宿題が立っていくと当然生活の自立的な姿にはなっていくんだが、両輪ですね、どっちからでも」という言葉の通り、生活と学習はどちらからでも立ち上がる。授業実践が深まれば生活の自律にもつながるし、生活の自律が整えば授業実践が深まる。対立ではなく、相互に高め合う関係だ。
単元自由進度学習のように、子ども自身が計画・実行・振り返りをするスタイルの授業が広まる今、「学びでっていう前にまず生活でねそういう自律的な生き方というかね、いうことにちゃんと子どもたちを浸していく」という指摘は鋭い。授業のスタイルを変えるより先に、生活のあり方を問い直すことが大切なのだ。
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この本では、心マトリクスの解説にもページが割かれている。生活場面での心マトリクスの活用——自分の内側の状態を観察し、言語化する——は、生活けテぶれと切り離せない。感情の動きや行動の選択に自覚的になることが、生活の自律を支えるからだ。「心マトリクスの説明も必須というか入ってくる」という通り、生活指導の文脈でけテぶれや心マトリクスをどう使えばいいか、その手がかりを探している先生にとっても届く内容になっている。
語れる実践者が、公教育を変える
2025年のもうひとつの柱は、葛原ゼミの始動だ。
少人数で、週1回・3ヶ月間。大学院のゼミのような場で、参加者は自分の実践を文章化し、論文のようにまとめていく。目指すのは「自分の言葉で喋れる、言語化できて人に伝えられる」状態だ。
これは「広く告知して多くの人に届ける」とは逆の方向に見える。公教育という大きな主語を掲げる者が、なぜ「狭くて深い会」にこだわるのか。答えは明快だ。実践が本当に広がるのは、地に足のついた実践者が自分の学校で語り広げるときだからだ。
「地に足ついて両足踏ん張って自分の言葉でその実践を語れる方がねその学校で広げていくっていうような姿が、多分一番強いんじゃないかな」——SNSで情報が一瞬で拡散される時代でも、職場での実践の広がりはそこで働く人の言葉と行動によって起きる。深く理解し、自分の言葉で話せる人が一人増えることが、公教育を変える最も確かなアプローチだという判断がここにある。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスを「使っている」段階から、「なぜそれをするのか、子どもにどんな変化が起きているのか」を自分の言葉で語れる段階へ——そのプロセスを支えることが、ゼミの意図だ。QNKSの体験会や各地の勉強会も同じ方向性を持つ。まず実践に触れ、理解を深め、語れる人になる。その積み重ねが、一校、一地域、そして公教育全体を少しずつ動かしていく。
批判は、実践を深める契機として
年末にSNS上で、けテぶれへの批判的な投稿が連鎖する出来事があった。「けテぶれなんて所詮PDCAだ」「宗教だ」——そうした声がバーッと流れた。
こうした批判を、どう受け止めればいいか。
「あんまり実践を深くえぐるような議論というのは、そこでは起こっていなかったな」——批判の多くは、実践の深い検討から来ているわけではない。表層的なラベル貼りだ。かつてスマートフォンの新しいUIデザインが「宗教だ」と言われたように、新しい実践へのラベリングは珍しいことではない。それだけで実践の価値は変わらない。

「PDCAだ」と言われるとき、その言葉が指しているのは何か。計画・テスト・分析・練習という4つのステップを通じて、子ども自身が学習を調整し、試行錯誤を重ねながら自分の学び方を見つけていく——その具体的なプロセスは、PDCAというラベルには収まりきらない。批判を受けることで、自分が実践を本当に理解しているかどうかを問い直す機会になったはずだ。
批判の波の後、「気を引き締めて自分の実践をしていこう」と発信した実践者が多く見えた。それは批判への単なる反応ではなく、自分の実践を改めて見直す契機として捉え直した姿だ。「自分も実践中にやしつけてやっていかなきゃいけないんだなということを皆さん自覚というかね再認識して年を超えられたような」——ネガティブな情報に触れたときにこそ、自らの実践を問い直す省察が生まれる。批判に引きずられるより、自分の実践をより深く、より豊かに育てることに力を注ぐ。それが長期的に公教育を動かす力になる。
これからの10年——大丈夫、フルスイングしてください
中教審が2024年末に示した動向を見ても、けテぶれ的な実践——子どもが自律的に学習を調整し、主体者として動く授業スタイル——は「向こう10年は本当にまだまだ、これがメインストリームとして提案できていくような見通しは立つ」という確信がある。
職場でなかなか賛同を得られない、片身の狭い思いをしている——そういう先生に向けて、言葉は明快だ。「大丈夫です、本当に大丈夫です。フルスイングしてください」。
公教育の変化は、中央から一気に変わるものではない。一人ひとりの実践者が地に足をつけて実践し、自分の言葉で語り、隣の教室へ、隣の学校へと広げていく。その積み重ねが、教育の軸足を一歩ずつ動かしていく。2025年も、その一歩一歩を着々と、フルスイングで歩んでいきたい。