欠点を直そう、自分を変えようという意識から始まる努力は、苦しく長続きしにくい。それは意志の弱さではなく、出発点の問題だ。人の特性は状況や関係性によって意味が変わるため、単純に「間違い」とは言えない。外側の言葉や方法に救われることはあっても、「自分は自分でいい」という内側の安心感を土台として育てることが、失敗を受け入れ、持続的に前進し続けるための根拠になる。
努力の「出発点」を問い直す
他のVoicyやSNSを聞いていると、さまざまなハウツーや実践法が紹介されています。それらに触れて「自分は向いていないと思っていたけど頑張ろう」と思う場面もあり、それ自体は素敵なことだと思います。ただ、そうした自己否定や課題感を出発点にした努力は、めっちゃしんどいだろうな、とも感じます。
欠点を埋めようとする努力、歪んでいるものを正そうとする努力。そこに向かうエネルギーの継続のしんどさは、ダイエットの失敗がいかに多いかを見るだけでも想像できます。ダイエットですら続かないのに、もっと内的な性格や特性を変えようとする努力が根本から変わり続けるものなのか——本当にそれを目指すべきなのかと、ずっと感じてきました。

「自分は自分でいい」という感覚が土台にある人と、ない人では、同じ失敗や課題に出会ったときの受け取り方がまったく違います。前者は「じゃあ次どうしようか」と考えられる。後者は「やっぱり自分はダメだ」という地点まで行ってしまい、次の挑戦ができなくなる。この違いは、方法論や意志の強さよりもずっと深いところにある出発点の差です。
特性は「間違い」なのか——状況と関係性の問題として考える
Voicyプレミアムで「誤概念と概念変化」について話したことがあります。概念変化とは、人がある概念の理解を根本的に更新するプロセスのことです。歴史的に言えば、天動説はニュートン以前の時代には「正しい理解」であり、ニュートン力学もアインシュタイン以前の時代には通用していました。より広いスケールで見たとき初めて、それが部分的な理解だったと分かる。
「合っている・間違っている」は、どの文脈・スケールで見るかによって変わる。
これを自分の特性に当てはめると、「今この状況や関係性の中でうまくいっていない特性」であっても、それが本質的に間違いとは言えないことがほとんどです。ある環境ではそごを生んでいるだけで、別の文脈では強みや魅力になりうる。
教員1年目のとき、「もっと人に聞きなさい」と何度も言われました。それはつまり、「自分で考えるというあり方が間違っている」という指摘だったわけです。確かに、分からないことは聞きながら進もうとしていました。でも、一緒に組んだ方が仕事に真剣に向き合ってくれていないように感じられ、聞いても要領を得ない返答ばかりだった。だから自分で考えるしかなかった、という実態がありました。
その忠告を真に受けて「自分はそういうところが間違っているから、もっと人に聞くように努力しよう」と発想を変えたとして——果たして、実践を作っていくエネルギーが湧いてきたでしょうか。少なくとも自分にはそう思えませんでした。
重心が定まらない人の「球」は弱い
面白いことに、2年目に入ってさまざまなきっかけで職場の人間関係が変わったとき、「人に相談しろ」とはもう言われなくなりました。自分のあり方を変えたわけでも、努力で「聞く人間」になったわけでもありません。関係性が変わり、状況が変わっただけです。
アドバイスの表面だけを追いかけて右往左往し続けると、軸足が定まらない。
ピッチャーがマウンドで両足をしっかり踏ん張れていなければ、球は弱く、制球も定まりません。それと同じで、自分の重心が定まっていない状態では、30人の主体性ある子どもたちと向き合うことはできない。子どもたちのエネルギーに押し流されてしまいます。

教師が「自分は自分でいい」という感覚を持っていること——それは傲慢さや自己満足ではなく、子どもたちと向き合うための土台です。自分の子どもを担任してくれる先生にも、そう思っていてほしいと心から感じます。「自分、最高だよな」という感覚は、基本であってほしい。それを忌避したり、そんな考えは傲慢だと思い込んでしまったりすることは、実は人間として生きていく上での基盤を自ら掘り崩すことになります。
自己受容があるから、失敗をそのまま認められる
「自分は自分でいい」という土台が実際の行動にどう現れるか、ひとつの具体例があります。
学年で組んでいた先輩と一緒に、なにか不手際があって校長先生に報告する機会がありました。その流れの中で自分が担っていた部分もあり、「すいません、これがこうなってこうなって、自分のミスです」と、特に気負うこともなくサクサクと説明したんです。すると周りの先生方から「あんなにすらすら謝れるのがすごい」と言われました。
正直、驚きました。自分からしたら、ただ事実を説明しただけのことが、周りからは珍しく見えたのです。自分のミスは自分のミスだし、それが事実なのだから申し訳ないと思う。ただそれだけのことでした。

このとき気づいたのは、失敗を認める瞬間に「止まってしまう人」が少なくないということです。自己弁護をしたくなる、だってこっちの事情があるから、しょうがないじゃないか——そういう思考が出てくること自体は理解できます。でも、そこで止まってしまうと、前に進むのがしんどくなる。
失敗を受け入れることが、そのまま自分の価値の否定につながると感じてしまうと、防衛的な言葉や攻撃的な反応が出てきやすくなります。それは自分を守ろうとするためですが、自分を守ることが目的になって表面が強い言葉になると、前進するエネルギーが失われてしまいます。
「じゃあ次どうしようか」と考えられるのは、基本のところで「自分は自分でいい」と思えているからこそです。失敗しても、それで自分の丸ごとが否定されるわけではない。だから、失敗という事実をそのまま受け止めて、現在地から次の一歩を考えることができる。
内側の安心感を育てることを、後回しにしない
外側の言葉や方法に救われることはあります。誰かの実践やアドバイスを聞いて、エンパワーされる経験は決して無駄ではない。それを否定したいわけではありません。
ただ、その基盤には、「自分は自分でいい」と思える感情をどう育てるか、という問いがあります。外側の言葉を受け取る器を育てることなしに、どれだけ方法を集めても、重心が定まらないままでは持続しません。得意なことやワクワクすること、エネルギーが出ることに向かって全力で動けるのは、その土台があるからこそです。
自己改善をしなくていい、ということではありません。特性を変えようとすること自体が問題なのではなく、出発点が自己否定になっている状態を、そのまま続けることに無理があるという話です。外側の何かで欠点を埋めようとするより、内側の安心感を育てながら挑戦と改善を続けるほうが、パワーも上がり、持続可能性も高い。
「自分は自分でいい」という感覚は、傲慢でも怠惰でもありません。人間として生きていく上での基盤であり、失敗を認め、次を考え、前に進み続けるための根拠です。教育に携わる者が、まずそれを自分の中に育てることから始めてみることを、改めて大切にしていきたいと思います。