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学校教育が植え付ける「正しさ」の呪いをほどく

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学校で示される正解やあるべき姿を真面目に再現し続けると、その「正しさ」の根拠を自分で考えないまま大人になりやすい。その正しさは他者に依存したものであるため、異なる価値観に出会ったとき、相手を否定したり、自分が壊れる恐れを感じたりしやすくなる。正しさには正しくなさが内包されており、両面を循環的に扱いながら、その中心に自分の深い願いを見出すこと——それがしなやかに生きるための思考の土台になる。

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正しい子どもは、なぜ脆い大人になるのか

学校には、正解とあるべき姿が示されています。それはある意味で当然のことで、入り口としては問題ないのかもしれません。しかし、その正解を真面目に再現し続けることに全力を注いできた子どもが、そのまま出口まで来てしまうとき、何かが抜け落ちます。

学校でずっと正しくあり続けた人ほど、「正しさとは何か」を問わないまま大人になりやすい。

正しい行動を繰り返してきた結果、自分の中に「私は正しい」という確信が積み上がっていきます。でもその確信の根拠を辿ると、「みんながいいと言っているから」「先生がいいと言っているから」「いい子はこういうものだとされているから」という外側にしか根拠が見当たらない。正しさとは何か、本当にそれは正しいのか——そういう思考を経ないまま、与えられた正しさに自分を当てはめて満足してきた、ということです。

これが問題になるのは、その正しさが「かなり他者依存的である」という点です。外側にしか根拠がない正しさは、絶えず外側からの承認を必要とします。その不安定さに気づかないまま大人になると、自分とは異なる価値観に出会ったとき、それを受け入れる回路がなく、否定や攻撃という形でしか反応できなくなりやすいのです。

「正しさ」への無思考が生む問題

他者依存的な正しさの怖さは、それを絶対視してしまうことにあります。自分自身の中に根拠がないため、検証する手立てもない。「だってみんなが正しいと言っているから」が最終根拠になっているとき、その正しさを疑う回路が最初からありません。

すると何が起きるか。その正しさを否定されたとき、自分という存在がどこに根を張ればいいか分からなくなる。 自分が砕け散るような恐ろしさを無意識に感じるため、誤りを認めることができなくなります。議論は進まず、異なる意見を持つ相手との関係は成り立ちにくくなる。SNSで誰かを徹底的に叩いてしまうような姿の背景には、こうした「正しさへの思考の浅さ」が関係しているのではないか、と感じます。

しかもそれは当人にとっても、決して楽な状態ではありません。他者が保証する文脈の中でしか価値判断ができていないことを、無意識のうちに感じ取っているため、どこかで抜け落ちそうな不安定感の中で生活をしているのです。その歪みは、他者との衝突の場面でより鮮明に現れてきます。

特に教師が問い直すべきこと

ここで少し立ち止まって考えたいのは、教師という立場についてです。

学校で与えられた正解と価値基準に自分を当てはめ続け、正しい自分でいることを選んできた人が取る選択肢として、教師という道はとても自然にあり得ます。学校を求めることで評価された経験があるからこそ、学校という場に留まることを選ぶわけです。

ところが教師という立場には、自分の中の正しさに他者を引き込むことが「仕事として認められている」という側面があります。「こうしましょう」「これが大切です」と価値を語ることが許されている——それが教員という立場の本質的な性質の一つです。

問題になるのは、その指導者がこれまでの人生の中で、正しさについてどこまで深く内省的に考えてきたかという点です。自分の外側に根差した正しさを、そのまま子どもたちに振りかざすことは、人権的な観点からも侵害的な行為になり得ます。価値観の安定が望めない今の社会では、かつての正解を目の前の子どもに押し付けることの危うさは、以前より格段に大きくなっています。

できるできない
できるできない

もちろん、教師が価値を語ること自体を否定するわけではありません。むしろそれは必要なことです。ただ、その価値について、自分自身がどこまで問い直してきたか——そこに自覚的でいることが、今の時代の教師には求められているのではないでしょうか。

正しさには、正しくなさが内包されている

では、どう考えればよいのか。ここで重要なのは、正しさというものには、いつも正しくなさが内包されているという見方です。

陰陽の太極図のように、正しさと正しくなさはくるくると回っています。正しさが強調されすぎたとき、その中に正しくなさの種が出てくる。その種を自分で否定してしまえば、正しさが暴走し、やがて大きな正しくなさを呼んでしまう。だからこそ、自分の中の正しくなさをいかに認め、自覚的に取り扱っていくかが大切になります。

心マトリクス
心マトリクス

心マトリクスが「逆の世界も描きながら、そうではない自分というものを認める」という構造を持っているのも、この両面を扱うためです。正しい自分だけを見て、正しくない自分を切り捨てていくのではなく、その両面が循環する中に、自分の軸となるものを見出していく。その循環の中心に現れてくるのが、自分の深い願いというものです。

自分の正しさと他者の正しさが出会ったとき。「あなたはそうなんだね、私はこう思うけれど」と受け止めること——価値を相対化し、自分の正しさの世界に相手を引き込まずにいられるか、というのがここでの問いになります。これは相手の価値観をすべて肯定するということではなく、自分と異なる正しさがそこにあることを、まず受け止める姿勢のことです。

徹底的に孤独で、それでも他者とつながる

ここまでの話を進めていくと、一つの厳しい事実に行き着きます。

目の前にコップがある。あなたも私もそれを「コップがある」と認識する。でも、あなたが見ているコップと私が見ているコップは、本当に同じものかどうかは検証のしようがありません。リンゴは赤いと二人が言ったとき、あなたが感じている「赤」と私が感じている「赤」が完全に一致しているという保証は、どこにもない——これがクオリアの問題と呼ばれるものです。

同じ世界を見ているようで、私たちは完全に同じ世界を共有できていないかもしれない。他者依存的な正しさを手放し、自分の正しさを相対的に問い直していくと、徹底的に孤独な自分というものに気づかざるを得ない瞬間が来ます。

しかし、だからといって孤立を礼賛することではありません。本質的にあなたと私は分かり合えない存在であるかもしれないとしても、それでもなお他者とつながろうとすること、共通理解や心の通い合いというものを信じてコミュニケーションをすること——この孤独と接続の両面を同時に生きようとすることが、ここでの重要な論点です。

孤独であると同時に、孤独ではない。AとBが両方あって、その両方がくるくると回り合う中で、世界は成り立っている。この見方に立ったとき、あらゆるものをきっぱりと否定することは難しくなります。水に馴染むように、いろんなことが相対的に流転するものとして捉え、その中でたゆたうように生きること——このしなやかさこそが、本当の強さなのかもしれません。

人格の完成とは、あなたがあなたでいること

こうした流転の世界観の中で、人格の完成というものをどう捉えるか。

それは、遠くにある立派な理想像を建てることではありません。「あなたがあなたであること、それが成り立っているとき、あなたの人格は完成している」——そういう発想で見たいのです。

あなたは最も輝く
あなたは最も輝く

逆に言えば、人格が完成していない状態とは、あなたがあなたらしくいられていない瞬間のことです。その瞬間に気づいたとき、どうすれば自分があなたのままでいられるかを考えること。正しさと正しくなさの両面を見ながら、その流転の中心に自分らしさを置いていくこと——それが人格の完成に向かう道として描けます。

それはどこか遠くにある固定された完成形ではなく、今この瞬間に「あなたがあなたでいられているか」という問いかけの積み重ねとして存在しています。

正しさをしなやかに扱うために

こういう見方をすぐに実践できるかと言えば、そう簡単ではありません。AはAだと判断し、それは間違っていると強く思う場面は、誰にでも日常的に訪れます。それもまた、人間らしい自然な姿です。

ただ、こういう構造の中で「こういう見方もできる」ということを知っておき、意識しておくこと——それは自己研鑽の方向として、大きくは外れていないと思います。

正しさとは何かを問う習慣を持つこと。自分の正しさの根拠がどこにあるかを時々確かめること。他者の正しさと出会ったとき、まず「あなたはそうなんだね」と受け止めてみること。そして、正しさと正しくなさの両面を自分の中で循環させながら、その中心にある深い願いを見失わないでいること。

学校教育が示す正しさは、学びの入り口として大切なものです。しかし出口まで無思考に進んでしまわないために——正しさを疑い、相対化し、しなやかに扱える思考の土台を、教師自身が先に育てていくことが、今の時代に求められているのではないでしょうか。

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