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子どものエネルギーをふさがず、学びへ変える

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富士山とローソンが重なって見える撮影スポットに人が集まり、混雑対策として黒い幕が張られたという話題がありました。教育の場でも、これに似たことが起きます。子どもがタブレットを触りたがる。ゲームに流れる。新しい道具に夢中になる。そのとき、大人はつい「禁止しよう」「ルールで縛ろう」と考えます。

けれども、そこにはすでに強いエネルギーが生まれています。大事なのは、そのエネルギーを最初からふさぐことではありません。まず試し、結果を一緒に見て、次の一手を子ども自身が考える構造をつくることです。そこに、子どもが自分を乗りこなし、学びへ向かっていく入口があります。

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黒い幕を張る教育になっていないか

富士山ローソンの話題で印象的なのは、「自然に人が集まってしまう場所」に対して、黒い幕を張って見えなくしたという対応です。迷惑や混雑への対応として考えれば、事情はあったはずです。ただ、教育の比喩として見ると、ここには大切な問いがあります。

自然にエネルギーが発生している場所を、ただふさいでしまっていないか。

学校でも同じことが起こります。たとえば、子どもたちの手元にタブレットがある。新しい道具に触れたい。何ができるか試してみたい。友達と見せ合いたい。ゲームをしたくなる子もいる。そこには、確かに強い関心と行動のエネルギーがあります。

そのときに、「危ないから禁止」「遊ぶから禁止」「最初から細かいルールで縛る」とだけ考えると、それは教育の中に黒い幕を張ることに近づいていきます。

もちろん、何でも自由にさせればよいという話ではありません。授業には目的があり、学級には共同生活があります。周囲への影響もあります。けれども、最初からすべてをふさいでしまうと、子どもは自分の行動の結果を受け取る機会を失います。

「先生に止められた」 「タブレットを取り上げられた」 「禁止されたからできない」

その意識のままでは、子どもの目は自分の行動に向きにくくなります。自分で選び、自分で結果を見て、自分で次を考える経験が抜け落ちてしまうのです。

子どものエネルギーは、学びの原動力になり得る

子どもが何かをやりたがるとき、そこには「命のエネルギー」とでも呼びたくなるような力があります。タブレットを使いたい。心マトリクスを触りたい。調べたい。試したい。時には、ゲームをしたいという形で表れることもあります。

このエネルギーは、大人が完全に作り出せるものではありません。いつ出てくるか、いつ弱まるかも分かりません。だからこそ、発生したエネルギーをただ否定するのではなく、学びへ向かう構造に乗せることが大切です。

ここで必要になるのが、教育的合気道の見方です。子どもの内側から湧く力を真正面から押さえ込むのではなく、その力の流れを受け止め、方向を整えていく。子どもの「やりたい」を否定せず、その先に「では、どう使うか」「何のために使うか」「使った結果どうなったか」を置いていくのです。

そのために必要なのが、学びのコントローラーという考え方です。タブレットも、鉛筆やノートと同じように、自分の賢くなるために使う道具です。道具そのものが問題なのではありません。問題は、その道具に自分が使われてしまうのか、それとも自分が道具を使えるのかです。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

子どもに渡したいのは、「これは使ってよい/悪い」という単純な線引きだけではありません。自分の行動、自分の時間、自分の注意、自分の学びを、自分で扱っていく感覚です。これが育たないまま道具だけを管理しても、教師が見ていない場面では同じ問題が繰り返されます。

まず試し、結果を一緒に見る

けテぶれ的に考えるなら、順序は「最初に完璧なルールを作る」ではありません。まずテストする。やってみる。その結果を分析する。そこから次を考える。

タブレットが入ってきたときにも、最初から細かなルールをすべて決めることはできません。どの子がどう使うのか。どこで流されるのか。どんな場面では学びに向かうのか。実際に使ってみないと見えてこないことがあります。

たとえば、鉛筆には細かい使用ルールがありません。けれども、体育でバレーボールをするときに鉛筆を持ってプレーする子はいません。給食の最中に鉛筆を出して遊ぶことがおかしいことも、子どもは判断できます。

では、タブレットも同じように文房具として扱えないか。

「出すべき瞬間に出す」 「使うべき方向に使う」 「今はしまう必要があると判断する」

こうした判断を、子ども自身が少しずつ身につけていく。そのためには、判断する場面が必要です。最初からすべてを大人が決めてしまえば、子どもは判断する必要がありません。判断しないまま、従うか、隠れて破るかになってしまいます。

もちろん、試した結果、うまくいかないこともあります。むしろ、そこが大事です。うまくいかなかった結果を、教師が一方的に裁くのではなく、子どもと一緒に見るのです。

「今、学びに向かえているかな」 「楽しくて流されているよね」 「このままだと、自分たちはどうなりそうかな」 「次はどうする?」

ここで、現在地が見えてきます。禁止される前には見えなかった自分の姿を、子どもが自分で受け取ることができるのです。

ゲームに流された子どもたちが、自分で一度やめた

実際に、タブレットを自由に使い始めた学級で、一部の子どもたちがゲームに流れてしまったことがありました。タブレットが楽しい。目の前にあると触りたくなる。学習に使うつもりでも、気づけば別のことに向かってしまう。

ここで最初から「だから禁止」としてしまえば、話は簡単です。教師の管理としては、問題が見えにくくなるかもしれません。しかし、それでは子ども自身の中に成長の芽が生まれにくいのです。

大切なのは、やってみた結果を一緒に受け取ることです。

「今、ぐずぐずになっているよね」 「タブレットがあると、学びよりもそちらに流されているよね」 「では、どうする?」

すると、子どもたちは自分たちで考えました。そして、「自分でコントロールできたらいいけれど、今は流されるからやめる」と判断し、しばらくタブレットを使わない選択をしました。

これは、大人が取り上げたのとはまったく違います。子ども自身が、自分の状態を見て、自分の次の行動を選んだのです。ここに自己省察があります。ここに自律の入口があります。

その後、時間が経ち、学級全体として自分をコントロールして学ぶ力が育ってきた頃に、再びタブレットの使用を提案しました。すると子どもたちは、以前とは違う使い方をし始めました。今度は、学習のための道具として、学びのコントローラーとして使えるようになっていったのです。

この事例は、「ゲームも常に許可すればよい」という話ではありません。むしろ逆です。子どもが結果を受け取り、自分で一度やめるという選択をしたところに意味があります。

失敗を避けるより、失敗を受け取る構造をつくる

教育の中では、失敗を起こさせないように先回りしたくなります。問題が起きないようにルールを作る。叱らなくて済むように禁止する。学級が荒れないように、危険なものを最初から遠ざける。

もちろん、安全や人権に関わる場面では、大人が止める必要があります。けれども、すべての失敗を避けようとすると、子どもは自分の行動の結果を引き受ける練習ができません。

間違いは成長の種です。

失敗する。失敗した結果を見る。一緒に考える。次の一手を自分で決める。この流れがあるから、子どもは自分の行動に目を向けます。

やってみる⇆考える
やってみる⇆考える

やってみる⇆考えるが回っているとき、教師の言葉は子どもに届きやすくなります。まだ何もしていない段階で、「こうしなさい」「こうなるからやめなさい」と言っても、子どもには実感がありません。しかし、自分でやってみて、流されて、困って、現在地が見えたあとなら、同じ助言でも受け取り方が変わります。

これは放任ではありません。むしろ、かなり丁寧な構造づくりです。

最初はニュートラルに始める。子どもが試す。結果を一緒に見る。必要な語りやフィードバックを入れる。次の行動を本人が考える。その循環をつくることが、教師の仕事になります。

「疑い、管理し、否定する」だけでは育たない

子どもを見たときに、「どうせ遊ぶだろう」「どうせ崩れるだろう」「どうせ管理しないとできないだろう」と考えることは簡単です。実際に、そう見える場面もあります。

しかし、その前提だけで学級をつくると、子どもはいつまでも管理される側に置かれます。大人が疑い、管理し、否定するほど、子どもは自分で考える機会を失います。

反対に、信じて、任せて、認めるという態度は、何でも許すことではありません。子どもを信じるからこそ、結果も一緒に見ます。任せるからこそ、うまくいかなかったときに問い返します。認めるからこそ、「今のままで本当にいいのか」と成長に向けて関わります。

ここで大切なのは、子どもの自由をただ放置しないことです。自由にさせて、あとは知らないということではありません。自由に試せる場をつくり、その結果を受け取れる場もつくる。そこまで含めて、子どもに任せるのです。

教師が火をつけ続けるのではなく、子どもが自分を乗りこなす

子どものやる気に、教師が毎回火をつけ続けることはできません。楽しい導入、盛り上がる教材、やる気を引き出す声かけ。それらは大切ですが、それだけに頼ると、子どもは自分の外側に火種を探すようになります。

教師がいないと動けない。 誰かが盛り上げてくれないと始まらない。 やる気が出る環境でなければ学べない。

そうではなく、子ども自身が自分を乗りこなす必要があります。自分の心と体、時間、注意、行動を、自分で扱っていく。もちろん、最初から完璧にはできません。だからこそ、学校の中にその練習時間をたくさん確保する必要があります。

子どもの内側に湧くエネルギーは、いつ出てくるか分かりません。だから教師がすべてを管理することはできません。できるのは、子どもが自分で気づき、自分で扱い、自分で学びへ向け直せるような構造を用意することです。

その入口は、子どもの「やりたい」を頭ごなしに否定しないことです。そして、やった結果を一緒に見ることです。うまくいかなかったときに、そこで終わりにしないことです。

「では、次はどうする?」

この問いを、子ども自身が持てるようにする。そこに主体性が育ちます。

黒い幕ではなく、次の一手を

タブレットを使いたがる子どもに、黒い幕を張るように禁止することはできます。ゲームに流れる前に、すべてを取り上げることもできます。そのほうが、一時的には静かに見えるかもしれません。

けれども、それだけでは、子どもが自分の行動を受け取り、自分を乗りこなす力は育ちにくいのです。

必要なのは、禁止か放任かの二択ではありません。子どものエネルギーを否定せず、まず試し、結果を一緒に見て、次の一手を本人が考える構造です。そこでこそ、けテぶれの順序が生きます。そこでこそ、教育的合気道として、子どもの命のベクトルを学びへ向けていくことができます。

教師がすべてを操作するのではありません。子どもが自分で自分を扱えるようになる時間を、できるだけ多く確保するのです。

黒い幕を張る前に、そこに生まれているエネルギーを見る。

そのエネルギーを、どうすれば学びに変えられるかを考える。

子どもが自分の人生を自分で歩いていくために、学校でこそ、その経験を積ませたいのです。

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