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自由を任せて育てる教育とは何か

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自由は、突然与えられて扱えるようになるものではありません。守られた学校環境の中で、失敗も含めて練習する対象です。教師がすべきことは、自由にする前に見通しを立てさせ、実際にやってみて、最後に振り返るというサイクルを回し続けることです。失敗したときに自由を奪い返すのではなく、フィードバックをして次の作戦を一緒に考える。そのサイクルを増やし続けることで、子どもは自由の扱い方を学んでいきます。

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「自由の教育」が足りない

教育界では「○○の教育が足りない」という声が絶えません。お金の教育、プログラミング的思考、表現力、探究心——そういったコンテンツが次々と現場に持ち込まれては、結果的にどれも十分に届かないまま埋もれていきます。詰め込む量が増えるほど、一つひとつの学びは薄まっていく。現場にいる教師なら、この構造を肌で感じているはずです。

そのような状況の中で、あえて一つだけ「本当に足りないものを挙げるとしたら何か」と問われたとき、葛原が答えるのは自由です。自由を受け取ること、自由を扱うこと——その練習を、学校で積むことができていない。これは比喩的な話ではなく、かなり具体的な教育上の問題として現れています。

自由を手にした経験がないまま成長し、大学や社会に出た瞬間に突然大きな自由が与えられる。その結果、急性アルコール中毒で命を落とすような事例も起きます。「何するか分からない」状態で育ってきた人が、自由の扱い方を知らないのは当然のことです。練習してこなかったのだから。

守られた場だからこそ、自由を任せる

では学校はどうかというと、「自由にしたら何するか分かんないから、私の命令に従っておきなさい」という環境がいまだに続いていることがあります。そのまま小学校、中学校、高校と過ごしたとき、15歳まで自由を管理され続けた子どもが、大学でいきなり自由になる。それでは何するか分からない、ということになるのは当然です。

教師が自由にさせたくない理由は正直な感覚です。予測不能で、コントロール不能な未来が想定できるから、踏み出せない。しかしその論理をいつまでも続ければ、子どもたちは自由を扱う練習をしないまま成人します。

小学校は守られた場です。命や人生に関わるような失敗が起こらないよう、仕組みと環境が整えられています。失敗が許容される場です。だからこそ、「その中だからこそ、自由にしてごらん」と言えるはずなのです。「何するか分かんないからやらせない」ではなく、「何するか分かんないからこそやらせる」——この発想の転換が、自由の教育の出発点です。

自由を教育的に扱う構造 — 見通し・やってみる・振り返り

自由にすることと、自由を教育的に扱うことは別物です。ただ放置して、好きにさせて、終わりにするだけでは教育にはなりません。自由の中での振る舞いや失敗を顧みることなく、ただ自由を貪るだけならば、それは今の大人たちが繰り返している自由の失敗と同じ姿です。放置すれば、そのまま大人になってしまいます。

自由を教育的に扱う構造は、シンプルです。

まず、自由にする前に見通しを立てさせる。「これからこういう時間帯、こういう幅で自由な時間があなたに訪れます。あなたはどのように過ごしたいですか」と問い、ノートに書かせます。ただし、立てた計画が自由な世界に踏み出した5分後には頭から吹き飛んでしまうことも、ある意味では織り込み済みです。それ自体が学びの素材です。

次に、自由な世界に飛び込んでやってみる。この「やってみる」の中身は、文脈によって差し替え可能です。算数の問題を解くことでも、飛び箱を飛ぶことでもよい。今回であれば、「自由」がそこに代入されます。自分が見通した通りに動けるのか、実際にやってみる。

やってみる⇆考える
やってみる⇆考える

そして最後に、必ず振り返る。自由な場でどう振る舞ったか。それは成功だったか、失敗だったか。そこから引き出せる教訓は何か。振り返りは5分でも、高学年なら10分でもよい。自分がやったことだから、理由と原因は自分が一番よく知っています。その深みから教訓を引き出す時間を確実に取る。

「見通してやってみて振り返る」というこのサンドイッチは、OECDが示すAARサイクルとも、自己調整学習の「予見・遂行・省察」とも一致します。けテぶれで言えば「計画と振り返り」がそれにあたります。どの枠組みで見ても言っていることは同じで、やってみる前に考え、考えたらやってみて、やってみたら振り返るという繰り返しです。この繰り返しの中に、自由の扱い方も含まれます。

他者の自由を妨げずに自分の自由を扱う

自由の教育には、もう一つ重要な視点があります。自由は、いつも一人で扱うものではありません。学級というソーシャルな場で自由を手にしたとき、そこには必ず他者がいます。

自分の自由を行使しながら、他者の自由を妨げない。これはかなり高度な社会的スキルです。そのスキルを期待するだけで、練習の機会を与えないでいれば、大人になってからも他者の自由を踏みにじることになる。ハラスメント問題の遠因の一部は、「自由の扱い方を練習してこなかった」ことにあるかもしれません。

フランス革命以降、人類は自由を獲得してきた。しかしその自由を適切に行使する力は、自然に育つものではありません。自由の扱い方には、見方考え方も、知識技能も、思考・判断・表現の力も必要です。自由の扱い方を学ぶことは、教科横断の本質的な力と深くつながっているのです。

失敗は奪い返す理由ではなく、次の作戦の素材である

見通しを立てて自由な時間に飛び込んだ子どもたちが、最初から上手くいくとは限りません。ぐちゃぐちゃになって、喧嘩が起きて、振り返りには「最悪だった」「自分は悪くない」と書く。この状況は、想定の範囲内です。

しかし実際には、この状況で教師が諦めてしまうことがあります。「やっぱりダメだ」と手綱を握り直し、自由を奪い取って管理に戻る。この瞬間に、練習が止まります。

自由にしたら失敗した。だから自由にしない。この論理は、自由を扱う力を育てません。「大きくなれば自然にできるだろう」と精神的発達に任せて放り投げることも同じです。それは教育の責任放棄に近い。

自由を乗りこなせていない子どもを見たとき、教師がすることは管理への回帰ではなくフィードバックです。何が起きたか、その原因はどこにあるか、背景にどんな構造があるか。みんなで同じ方向を向いて考えて、「ここを変えたら次は豊かになるかもね」と一緒に作戦を立てる。そして次も、また自由な世界に飛び込む。

一度目の失敗よりも少し場が豊かになったなら、それをみんなで喜ぶ。そうやって、一人ひとりが、そして学級全体として、自由を扱えるマインドセットと技術を獲得していく。これが「自由を教育的に扱う」ということです。

サイクルを回し続けることが育てる

大切なのは、このサイクルを一度実現して終わりにしないことです。「サイクル」と呼ぶ以上、回り続けることに意味があります。一度やってみて終わりでは、育ちません。

週1回しか自由の経験ができなければ、年間35回です。しかし全授業・全時間でこのサイクルが回るなら、年間1000回になります。回転数が違えば、育ちは圧倒的に違います。

ここで重要なのは、このサイクルを実現するために新しい制度や特別な仕組みを作る必要はないということです。今ある教育課程、今ある学校の建物、今の授業時間——そのすべてをそのまま使って実現できます。変えるのは制度ではなく、意味づけです。今やっていることの「意義」「位置づけ」「見方」を変えること。全国のどの公立小学校でも、明日から始められる可能性があるのはそのためです。

画一的な教育の構造が全国で共通しているからこそ、その構造をそのまま活かしながら変えていける。新しい学校を作る必要はない。今の場所で、今の時間の中で、意味を変えることで、子どもたちが自由を練習できる環境をつくることができます。

自由を任せる。失敗してもサイクルを続ける。フィードバックをして次の作戦を考える。管理の手を緩めることへの怖さは当然あります。しかし守られた場の中で、教師が見守りながら、子どもたちが自由を練習できる回転数を積み上げていくこと——それが今の学校にできる、誠実な教育の一つではないでしょうか。

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