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新人教師が変える公教育の再生産

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新任の先生が、職場の先輩のけテぶれ実践に魅力を感じて、自分も始めようと決めた。これは一つの実践紹介にとどまる出来事ではありません。学校現場で先輩から新人へ受け継がれる教育観が、少しずつ更新され始めている兆しです。

公教育が変わりにくい理由の一つは、制度や方針だけではなく、現場の中で「学校とはこういうもの」「教師とはこうあるべき」という感覚が再生産され続けるところにあります。だからこそ、けテぶれ・QNKS・心マトリクスのような実践が、学習指導要領の掲げる生きる力を明日の授業に落とし込み、その教育観が新人教師へ受け継がれていくことには、大きな意味があります。

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公教育が変わる小さな音

ある新任教師の方が、職場の先輩がけテぶれを実践している姿を見て、その実践に魅力を感じ、自分も取り組もうと決めたそうです。

この出来事を、単に「けテぶれを始める人が増えた」という話として受け取るのは、少しもったいないのです。ここで起きているのは、職場の中で、先輩教師の実践を通して新人教師に新しい教育観が伝わっていくということです。

公教育のボトムアップ改革は、制度の上からだけでなく、こうした半径5メートルの継承から始まります。

新任の先生は、期待と不安を抱えて学校に入ってきます。大学や研修で学んだこと、子どもにこう関わりたいという願い、自分なりの違和感や理想を持って、教室に立ちます。そのとき、最も強く影響を与えるのは、目の前の職場の先輩です。

その先輩が、子どもを疑い、管理し、否定する方向で学級や授業を動かしていれば、新人も知らず知らずのうちにその教育観を受け継いでいきます。反対に、先輩が子どもを信じて、任せて、認める実践を具体的に行っていれば、新人は「こういう教育のあり方があるのか」と感じることができます。

今回の出来事は、まさに後者でした。

変わりにくさの正体は、教育観の再生産にある

公教育が変わりにくい理由は、学習指導要領が変わらないからだけではありません。むしろ現場では、先輩から新人へ受け継がれる教育観の再生産が、非常に大きな力を持っています。

たとえば、学校に入ったばかりの先生が、子どもを大切にしたい、自分で考える授業をつくりたいと思っていたとします。しかし職場で、「学校とはこういうものだ」「教師はこうあるべきだ」と繰り返し言われる。子どもを統制できることが教師の力だとされる。怒鳴ること、泣かせること、全員を同じ方向に向かせることが、指導力のように扱われる。

そうした空気の中にいると、新人は違和感を持ちながらも、「そういうものなのか」と受け入れてしまうことがあります。右も左も分からない時期であればなおさらです。多少おかしいと思っても、周囲がみなそうしていれば、自分の感覚の方が間違っているのではないかと思ってしまう。

これが、教育観の再すり込みです。

もちろん、若手教師の違和感が常に正しいわけではありません。経験が浅いからこそ見えていないこともあります。しかし、だからといって、その違和感がすべて間違っているわけでもありません。

むしろ、最初に抱いた違和感の中には、学校文化を更新する芽が含まれていることがあります。

違和感は、育てなければ消えてしまう

学校文化への違和感は、時間が経つと消えてしまうことがあります。

最初の数年は「これは本当に必要なのだろうか」「この指導で子どもは育っているのだろうか」と思っていたとしても、周囲から言われ続け、仕方がないと受け入れ続けるうちに、やがて違和感そのものを感じなくなってしまう。

これは、とても危ういことです。

たとえば、宿題のあり方に対する違和感。一斉授業で、教師が描いたストーリーラインに子どもを乗せて、面白おかしく進めていく授業への違和感。授業がエンターテインメントのようになり、子どもの学びよりも教師の満足感が前に出てしまうことへの違和感。

そうした感覚は、現場に入ったばかりだからこそ見えるものでもあります。

大切なのは、その違和感を乱暴に肯定することでも、すぐに否定することでもありません。語り合い、現在地を確かめながら、教育として妥当な形へ育てていくことです。

新人教師が先輩のけテぶれ実践に出会い、「これだ」と感じたという流れには、この意味があります。違和感が消される前に、別の教育観と出会ったのです。

単線型の授業の再生産が、そこで切れた

今回の出来事が重要なのは、従来の再生産の流れがそこで切れたように見えるからです。

これまでなら、新人教師は職場の先輩から、単線型の授業観を受け継いでいたかもしれません。教師が一つの正解ルートを用意し、全員をそこに乗せる。教師が管理し、子どもは従う。教師の説明を聞き、同じタイミングで同じことをする。

もちろん、単線型の授業にも一定の機能はあります。しかし、それだけが授業であり、それだけが教師の力であるかのように受け継がれていくと、子どもが自ら学ぶ力は育ちにくくなります。

その流れの中で、職場の先輩がけテぶれを実践していた。そして新人教師がそれを見て、自分もやってみたいと思った。

これは、単線型の授業の再生産が、けテぶれを通じて一度立ち止まった瞬間です。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

けテぶれは、子どもが自分で計画し、実行し、振り返り、改善していく学びの型です。そこには、教師がすべてを決める授業とは違う、子どもを学びの主体として見る教育観があります。

だからこそ、新人教師がけテぶれに魅力を感じたという出来事は、単なる方法の導入ではありません。授業観、子ども観、教師観の継承が変わり始めたということです。

次に起こるのは、子ども時代の学びの再生産

教育が変わらないもう一つの理由は、教師が自分の受けてきた教育を再生産しやすいことです。

自分が受けてきた授業、自分が経験してきた学校、自分が見てきた教師像。それらは、無意識のうちに「学校とはこういうものだ」という基準になります。教師になったとき、人はどうしても、自分が受けてきた教育をなぞりやすいのです。

しかし、ここにも変化が起き始めています。

近年、主体性の学びの場をつくろうとする試行錯誤は、さまざまな現場で広がっています。けテぶれという言葉によって、自由な学びを支えていく実践も増えてきました。自由進度学習や個別最適な学びに関心を持つ先生も増えています。

すると、これから教師になる子どもたちの中には、自分自身がけテぶれや自由な学びを経験してきた人が出てきます。

その子たちが教師になったとき、自分の受けてきた教育を再生産しようとする心の向きは同じかもしれません。しかし、再生産される教育そのものが変わっているのです。

一歩目から違います。

教師一年目の最初の教壇に立つとき、子どもは管理される存在ではなく、自ら学ぶ存在だという感覚をすでに持っている。授業は教師が一方的に進めるものではなく、子どもが自分の現在地を見つめ、学びを進めていく場だと知っている。

そうした教師が増えていくと、公教育の再生産構造そのものが変わっていきます。

生きる力を、明日の1時間目に翻訳する

けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、特定の流派を広めるためだけの言葉ではありません。学習指導要領が掲げてきた生きる力を、現場の具体的な実践に落とし込むための案です。

平成10年の学習指導要領以降、日本の教育では生きる力が大切にされてきました。確かな学力、豊かな人間性、健康・体力のバランス。いわゆる知徳体を育てることが、教育の中心に置かれてきたわけです。

そして、確かな学力とは、単に知識を覚えることではありません。社会が変化しても、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力を含んでいます。

ここには、学習の基盤となる資質能力が詰まっています。

しかし、理念としては分かっても、現場の先生はすぐにこう問われます。

では、明日の1時間目に何をするのか。

生きる力を育てましょう。主体性を大切にしましょう。課題発見解決能力を伸ばしましょう。そう言われても、それが授業の手立てに翻訳されなければ、教室では動きません。

学習の基盤となる資質能力
学習の基盤となる資質能力

だからこそ、現場での具現化が必要です。学習指導要領の理念を、教科書とノートがある日常の授業の中で、子どもの学びとしてどう立ち上げるのか。その問いに対する一つの具体案として、けテぶれ・QNKS・心マトリクスがあります。

けテぶれは、子どもが学びを自分で回していくための型です。QNKSは、問い・抜き出し・組み立て・整理という、学びを深めるための思考の動きを支えます。心マトリクスは、子ども自身が自分の心や学びの状態を見つめるための視点を与えます。

これらは、生きる力を抽象理念のままにしないための道具です。

唯一絶対ではなく、有効な手立てとして語る

ここで大切なのは、けテぶれだけが唯一の答えだと断定しないことです。

生きる力を育てる方法は、一つではありません。子どもが知徳体を体得し、自ら課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、よりよく問題を解決していけるのであれば、別の有効な手立てもあり得ます。

葛原学習研究所のミッションは、特定の方法を押し付けることではありません。全国の子どもたちの生きる力を覚醒させる実践を、現場で使える形にして届けることです。

その意味で、けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、理念と現場をつなぐ実践群です。今ある学校の教育課程を大きく壊さず、教科書とノートのある日常の授業の中で取り組める。しかも、子どもの主体性、自己理解、意思決定、課題発見、問題解決、人間関係形成といった資質能力に接続している。

だから、妥当性を語ることができます。

単なる思いつきや流行ではなく、学習指導要領が大切にしてきた生きる力を、現場の一時間一時間にどう落とすかという問いへの実践的な応答なのです。

先輩教師が、新人教師に何を見せるか

今回の話は、新人教師だけに向けたものではありません。むしろ、若手を迎える先輩教師にこそ関係があります。

新人教師は、職場の先輩をよく見ています。授業の進め方、子どもへの声かけ、叱り方、任せ方、振り返りの扱い方、職員室での語り方。そうした一つひとつから、「教師とは何をする仕事なのか」を受け取っていきます。

だから先輩教師が何を見せるかは、とても大きいのです。

子どもを疑い、管理し、否定することを教師の力として見せるのか。子どもを信じて、任せて、認めることを、具体的な授業と学級経営の中で見せるのか。

新人教師が受け継ぐのは、方法だけではありません。その奥にある教育観です。

けテぶれを実践している先輩の姿を見て、新人教師が「自分もやってみたい」と思った。そこには、方法の魅力だけでなく、子どもをどう見るか、学びをどう捉えるかという教育観の魅力があったはずです。

公教育は、半径5メートルから更新される

公教育の改革というと、大きな制度変更や行政の方針を思い浮かべるかもしれません。もちろん、それらも重要です。

しかし、現場の教室で実際に子どもと向き合い、明日の授業をつくるのは、担任であり、教科担当であり、目の前の教師です。理念を具現化できる最前線は、現場にあります。

だからこそ、公教育のボトムアップ改革は、半径5メートルから始まります。

職場の先輩が、自分の教室で生きる力を育てる実践をする。その姿を新人が見る。新人が声をかけ、学び、自分の教室でも始めてみる。子どもがその学びを経験する。その子どもたちの中から、やがて教師になる人が出てくる。

この流れが続けば、教育の再生産は変わります。

これまで公教育を変わりにくくしていた再生産の構造が、今度は公教育を変えていく構造になる可能性があります。

小さな出来事に見えるかもしれません。けれども、新任の先生が、職場の先輩のけテぶれ実践に魅力を感じて、自分も始めようとした。その一歩には、公教育が変わる音が確かに含まれています。

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