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なぜ「けテぶれ」は一手法ではなく、公教育のボトムアップ改革なのか

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けテぶれは、漢字の宿題という小さく低リスクな入口から始められ、全授業・全生活・全学年へと展開できる体系を持ちます。子どもが自分で決め、実行し、振り返り、再挑戦する力は、向き不向きで外してよいものではなく、算数・国語と同じく公教育が全員に保障すべき基盤的資質能力です。現場での視察依頼や地域への広がりという生きたエビデンスが積み上がるなか、改革の最小単位は学級全体の成功だけでなく、一人の子どもが自分で学ぶ感覚を取り戻すことにまで降りていきます。それが「公教育のボトムアップ改革」の実像です。

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「1時間の実践」で閉じてはいけない

教育の在り方を議論する場では、「担任レベルで、1時間単位で実現できる方法論が求められている」という声がよく聞かれます。これ自体は正しい指摘です。けテぶれはすでに体系化されており、考案者だけの実践ではなくなっています。方法論として切り出され、その構造をなぞれば再現できるところまで仕上がっています。

しかし、問題は「1時間の実践で閉じてしまってよいか」という点です。

公教育そのものの在り方を更新しようとするなら、「算数のやり方はこうです」「社会科ではこう取り組みます」という教科単位の提案では力不足です。 特に小学校での実践を踏み台として中学校・高校へつながっていく立て付けを考えると、基本的な「学習に向かうための資質能力」を前提に、各教科の専門的な学習が積み上がっていく構造が必要になります。

ところが現実には、授業を受けたこととその内容が身についたこととが混同されてきました。「履修した=わかった」という前提のもとで、口を開けて知識を入れてもらうだけのサイズを超えた学習量が要求されてきた。その結果、高校生になっても分数の計算ができない、自分で勉強の進め方を決められないという状況が生まれています。これは子どもの問題ではなく、学び方を学ぶ機会が公教育の中に十分に確保されてこなかった、仕組みの問題です。

漢字の宿題から、全授業・全生活へ

けテぶれの大きな強みは、入口の小ささにあります。

宿題の漢字練習という、ミニマムで、仮に失敗してもやり直しのきく領域から始められます。担任一人が、明日からでも試せる。そこがスタートラインです。

けテぶれと学習サイクル
けテぶれと学習サイクル

そして、この入口で終わらないのがけテぶれの本質です。「漢字の宿題から始めたとして、どこまで展開できるか」——その問いへの答えは明確です。全授業・全生活まで、いけます。

学び方について自分なりの方法を追求できる権利を保障するという方向性は、すでに書籍にもまとめられています。個人の担任レベルでの実践にとどまらず、1年生から中学3年生まで、全国の多くの学校で実際に取り組まれ、実現可能であることが示されています。制度的な大改革を待たなくても、一つの教室から、一人の担任の判断から始められる——そのスケールの自由さが、けテぶれという構造の力です。

「向き不向き」の議論と、基盤的資質能力としての位置づけ

けテぶれに対してよく挙げられる批判のひとつが、「方法は向き不向きがある。けテぶれに合わない子もいる」という指摘です。これ自体は正論です。ある方法を目的に対する手段として相対化して見る視点は大切です。

ただ、ここで立ち止まって考えたいのは、同じ論法が算数や国語に対して使われないという事実です。

数学には向き不向きがあります。行動遺伝学の双子研究によれば、数学的な才能には遺伝の影響が非常に大きいことが示されています。数学が不得意な子は相当数います。それでも「向いていない子が多いから算数はやめよう」とはなりません。なぜなら、社会生活を送る上で必要な基盤的な力だからです。

では、「自分で決め、実行し、振り返り、再チャレンジの方向性を見出す力」は、どうでしょうか。

現場の先生から「学力以前に、自分で自分をコントロールできていない子が多い」という声が上がっています。中央教育審議会も「自分の人生を舵取りできる力を育てる」という方向性を示しています。それは何年も前から言われてきた「生きる力」そのものでもあります。となれば、この試行錯誤する力は、向き不向きで取捨選択してよい領域ではなく、算数・国語と並ぶ基盤的資質能力として位置づけるべきではないでしょうか。

「特別な教科としての学び方」——学び方を学ぶ機会を、公教育の中にパッケージとして組み込んでいくことが求められています。

学習の基盤となる資質能力
学習の基盤となる資質能力

この考え方が示すように、基盤的な資質能力が育まれてこそ、各教科の学びが積み上がっていきます。逆に言えば、この基盤なしに教科の知識だけを積み上げようとしても、高学年・中学・高校と学習の密度が増すにつれて、その無理が露顕してくるのです。

「けテぶれだけではない」という批判への応答

「けテぶれは一つの実践にすぎない。他の方法もある」という指摘も、もっともです。ある方法論が目的に対する手段として相対化されるためには、同等の代替手段が存在することが前提になります。それは理性的な議論の作法として正しいと思います。

ただ、率直に言うと、同等の展開可能性を持ち、全国規模でエビデンスが揃い始めているような構造を持つ実践が、今のところなかなか見当たらないというのが現状です。

「けテぶれでなくてもよい。比較対象を示してほしい」という問いかけには、真剣に向き合いたいと思います。比類する構造を持つ実践が出てきたとき、はじめてけテぶれは本当の意味で相対化されます。そのときを、むしろ歓迎しています。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

けテぶれは万能ではありませんし、唯一解でもありません。しかし、漢字の宿題という最小単位から出発し、全授業・全生活・全学年へと展開できる体系を持ち、それが現に全国で機能していることを示す実践が積み重なっている——その現実は、議論の土台として真剣に受け止める必要があるはずです。

現場で起きていることが、最も確かなエビデンス

エビデンスといえば、統計的な数字や調査研究が思い浮かぶかもしれません。もちろんそれも意味はあります。しかし、今この瞬間、全国の現場でけテぶれが機能し、視察の依頼が届き、地域へと広がっている——この事実こそが、最も確かなエビデンスです。

統計学的な手法で平準化された数字よりも、生きた現場で今起きていることの方が、実践の根拠として確固としています。体系化と言語を受け取った先生が、それを自分の教室で実現し、その実践が視察を呼び、地域に広がっていく——この連鎖こそが、机上の理論ではなく「現場で結果として表された」証明です。

改革の広がりは、制度の力だけでは起きません。一人の担任が試し、子どもが変わり、その様子を見た別の先生が興味を持ち、学校全体へ、地域へという流れは、まさに現場から積み上がるボトムアップの動きそのものです。

改革の最小単位は「一人の子ども」

公教育のボトムアップ改革というと、学校全体や地域全体が変わることをイメージしがちです。しかし、そのボトムはもっと深いところまで降りていきます。

学級全体でけテぶれに成功したかどうかも大切な目標です。しかし、全員に火をつけきれなかったとしても、ただ一人、自分で学ぶということに目が開き、世界が開き、自分の人生を舵取りする感覚を思い出した子どもが一人でも出れば——それが、まさに公教育のボトムアップ改革です。

学級担任として子どもたちと向き合っていたとき、全員をけテぶれ一色に染め上げたわけではありません。いろいろな子がいて、いろいろな意思があり、いろいろな価値判断がある。その中でそれぞれの子どもが生活しています。それでよいのです。

大切なのは、その中で「自分って素敵だな」と感じる経験を、それぞれが自分の価値観の中で持てることです。その感覚こそが、人生を自分で舵取りするための最も深い土台です。「自分って素敵だな」という感覚がなければ、自分の人生を自分で動かそうという意欲は湧いてこない——それは、方法論の手前にある哲学の問題です。

方法論と哲学の両輪で

けテぶれを広める活動には、二つの柱があります。

一つは、実践者同士が伴い合える場をつくること。オンラインサロンとして全国の先生がつながり、経験を持ち寄りながら前進できる環境です。もう一つは、自治体からの研修依頼を一件も断らずに受け続け、言葉を届け続けること。その先生が自分の学校で実践を立ち上げ、視察が来て、地域へ広がる——この流れを、地道に、何度も作り続けていくことです。

しかしそれだけでは不十分です。方法論とともに、「自分って素敵だな」という感覚を土台に置く哲学が必要です。子どもに語りかけるだけの強い言葉と、実践者が頼れるだけの確かな構造——この方法論と哲学の両輪がそろってこそ、葛原学習研究所のミッションは前進していきます。

全国60万人の先生すべてに直接伴走することはできません。しかし、けテぶれという構造が広まっていくことで、一人の子どもが自分の人生を舵取りする力を手にする。そのボトムまで届く改革が、今少しずつ現場で実現されつつあります。

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