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なぜ「けテぶれ」を実践するのか――自分自身を見つけるための学びの本質

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けテぶれは、学習効率を高めるための技術ではありません。子どもが自分で考えて自分でやってみる経験を重ねることで、「自分がどういう存在か」を自分自身で発見していくための実践です。外側から正解を飲み込ませる教育だけでは失われていく「自分を知る機会」を、けテぶれは取り戻そうとしています。そして、そのけテぶれを子どもたちに届けるために、教師自身が提唱者の語りを丸呑みにするのではなく、自分の納得の範囲で体重を乗せて語ることが求められます。全校実践の本当の力は、そうした多様な語りが重なり合うことで、一人ひとりの子どもに届く入口が増えていくことにあります。

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「なぜやるのか」に立ち戻る時間

ある全校実践校での研修でのことです。一学期の振り返りとして実践交流が行われた後、もう一時間、先生方と「なぜけテぶれをやっているのか」を改めて考える時間が設けられました。研修のデザインは学校の研究団が担い、「なぜ実践するのか」という問いの部分を担当してほしいという依頼でした。

この問いの立て方そのものが示唆に富んでいます。実践が積み重なり、各学年でオリジナルのシートが生まれ、低学年からも子どもたちが主体的に取り組んでいる——そういう段階だからこそ、「なぜやるのか」という根っこに立ち戻ることに深い意味があります。

先生方はまず自分たちで「なぜけテぶれをするのか」を言語化する作業に取り組みました。2学期の始めに学級向けに「けテぶれ通信」を書くとしたら、どう書くか。そこまで具体的な課題として文章化することを求めた上で、提唱者としての持論を提示するという設計です。「考えてから聞く」という順序が、この研修には大切なものとして組み込まれていました。

「自ら学ぶ」ことは「自らについて学ぶ」ことである

私が先生方にお伝えした核心は、一言でまとめるとこうなります。

「自ら学ぶことによって、自らについて学ぶ」

つまり、学校で得られる最も大切な情報は、教科の知識ではなく、自分についての情報だということです。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

自分で考えて自分でやってみた経験の積み重ねの中に、「自分らしさ」が映し出されます。その足跡こそが、自己像を形作っていく素材です。そうして自分で作り上げた履歴がないまま大学生になり、就職活動で「自己分析をしましょう」と言われても何も浮かばない——よく言われるのが、「小学校のころ好きだったものは何ですか」というところまで遡らないと、自分が何者なのかが分からないという話です。

なぜそうなるのか。それは、自分で考えて自分で選ぶ経験をしないまま育ってきたからです。小学校のころから自分を作ることをやめてしまっていませんか、という問いがそこには含まれています。

外側の正解を飲み込ませることの問題

旧来の教育が「子どもたちの外側にある正解を飲み込ませること」を中心にしてきたことを、全否定するつもりはありません。知識を身に付けることには確かな意味があります。

問題は「それだけ」になることです。

外側からあれせこれせと指示し、正解を押し付け続けると、勉強的な知識はつくかもしれません。しかしその反対側で、ゆっくりと壊れていくものがあります。それが、「自分はそもそも何がしたいんだっけ」という感覚です。

何が正しくて何が間違っているかをひたすら教え込まれ続けると、詳しくはなるかもしれない。でも「じゃあそもそも自分って何がしたいんだったっけ」ということを、まったく考えないまま育ってしまうのです。旧来の教育では、その問いを考えさせないまま、子どもたちが大学生まで育ってしまうことがあります。

さらに今の子どもたち、特に都市部では、放課後も習い事に追われ、自分で考えて自分でやってみるような時間が極めて少なくなっています。放課後や遊びの中で自分らしさを発見する余地そのものが、削られてしまっているのです。だからこそ、学校の中にその機会を意図的に作ることが、ますます重要になっています。

自分で考えてやってみることのしんどさと、その意味

やってみる⇆考える(自分)
やってみる⇆考える(自分)

けテぶれは、楽な活動ではありません。先生の話を聞いて黒板をきれいに写しているだけなら誰にも何も文句を言われない——そういう時間と比べれば、自分で考えて自分でやるという空間に置かれることは、とてもしんどいことです。特に中学生になってからけテぶれに出会う子の中には、「なぜ自分でやらなければならないのか」と反発する子も出てきます。省エネで過ごせていたのに、そうでなくなるわけですから、それは当然の反応とも言えます。

それでもなぜ取り組むのか。

それは、「あなたがあなたを見失わないため」です。

自分で考えて自分でやってみることを繰り返さないと、自分が分からなくなっていきます。自分という存在と向き合い、自分で自分を動かそうとするしんどさ——その苦しさを引き受けることは、裏返せばそこからしか得られない充実感でもあります。そしてその充実感は、これからあなたがあなたの人生を進めていく上での力、すなわち生きる力に、確実につながっています。

けテぶれをやらせることで子どもたちに課している苦しさの意味を、教師自身がちゃんと言葉にできるかどうか。それが、この実践の深さを支えることになるのです。

語りの力は「納得感」で決まる

提唱者として考えていることをお伝えしたとしても、それを全員が丸呑みしてほしいわけではありません。

QNKSという考え方があります。問い(Question)を立て、大切な部分を抜き出し(Nukidashi)、自分の文脈で組み立て(Kumitate)、整理する(Seiri)——提唱者の語りをそのまま写すのではなく、自分でこうした思考を経てはじめて「自分のもの」になります。先生方に求めたいのも、まさにこれです。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

人間の語りは、納得感が背景にあるかどうかで、まったく力が変わります。自分でも分かります。体重が乗っている語りと、べき論で語っているだけの語り——語気も、伝わり方も、まるで異なります。

自分で分かることは、子どもたちにも伝わっています。

だから、自分が納得できて体重を乗せられる範囲において、けテぶれを語ることが大事なのです。提唱者の語りは、先生方の納得の範囲と重ね合わせて「位置づける」ためのものです。それをそのまま学級通信として使うようなものではありません。もし、なぜやらなければならないのか、自分の中でまだ納得できていない部分があれば、子どもたちにそう伝えても構わない。「この部分については、先生もまだよく分かっていない」と正直に話せる関係があってよいのです。

全校実践の価値――多様な語りが重なる力

全校実践では、30人、40人の先生方それぞれが、けテぶれを語ることになります。全員が同じ深さ、同じ広さで精通している必要はありません。むしろ、それぞれの先生の納得の範囲が異なるからこそ、学校全体としての力が生まれます。

A先生の語りではけテぶれがピンと来なかった子が、B先生の語りで初めてその意味をつかむ——そういうことが実際に起こり得るのです。教師ごとの語りの違いが重なり合うことで、子どもたちに届く入口が増えていきます。

これが全校実践の本当の価値であり、多様性が実践の強さにつながる理由です。熱の広げ方でいえば、グラデーションの中で複数の語りが響き合い、子どもたちの中に少しずつ広がっていく——そういうイメージです。画一的な語りを一本通すよりも、それぞれが自分の言葉で語ることの方が、学校全体として子どもたちへの届き方が豊かになります。

実践の根っこを自分の言葉で

「なぜけテぶれをやるのか」という問いは、実践が深まった学校ほど改めて立ち戻る価値があります。

けテぶれは、子どもが自分で考えて自分でやってみる経験を通じて、自分自身を知り、人生を進める力を育てるためにあります。それは決して簡単ではなく、苦しさも伴います。しかしその苦しさの意味を、教師自身が自分の言葉で語れるかどうかが、実践の深さを決めます。

大切なのは、あなた自身がその言葉を自分の経験に照らし合わせ、自分の納得の範囲で子どもたちに語りかけることです。そうして一人ひとりの先生の語りが重なるとき、学校全体として「自分で考えてやってみる」ことの価値を、子どもたちに届けることができるのだと思います。

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