衆議院議員を迎えた対談後半では、発信の姿勢から始まり、吹きこぼれ・発達特性・インクルーシブ・AI時代の学び・放課後児童クラブまで、多岐にわたる話題が展開された。通底するのは、子どもが現在地から自分で学びを舵取りする力を育てることこそ公教育の役割だという確信である。知識を詰め込む場ではなく、思考の核と主体性を育てる場として学校を問い直す、葛原実践の核心が語られた。
自分の言葉で、自分の経験を語る
葛原はSNSでの発信スタイルについて、率直に語った。フォロワーは数万人いながら、投稿の反応はいつも数件程度に留まる。それでも、ある姿勢を変えるつもりはないという。
> どう見せるかってすごく大事なんだけど、何を語りたいかとか何を伝えたいかっていうのがまず大原則としてあって。その上でどう伝えたいか、じゃないと、どう伝えたいかから中身を作り出すと、もうちょっとその時点で終わってると思いますね。
葛原学習研究所のミッションを体現し続けることが先にある、という言葉は、教育実践者としての姿勢を端的に示している。バズる方法論はAIが教えてくれる時代だからこそ、中身が枯渇しないための「語り」の根を持つことが大切だという逆説的な指摘でもある。
語りを支えているのは積み上げてきた実体験だ。「自分で行動して、自分でちゃんと経験して、その経験した価値を語りしていく」という言葉が、発信の構造をそのまま示している。見せ方の工夫は手段であり、その先に伝えるべき経験の蓄積があって初めて、言葉は人に届く。
教員1年目から問い続けた「任せる」実践
葛原の実践の土台は、教員としてのキャリアのごく初期から形成されている。最初に配属された学校が、たまたま子どもに学びを任せる方向性を目指していた。校長の方針のもとでそうした授業づくりが模索されていた環境に飛び込んだことが、以後の実践の礎になった。
信じて、任せて、認めるスタイルの授業を、葛原は1年目から試行錯誤してきた。その間、「やってみる⇆考える」の往還を繰り返してブラッシュアップを続けてきた10年以上の歴史が、今の実践の厚みを作っている。
「ラッキーな状況はあった」と振り返りながらも、その環境を活かして実践を積み上げてきたことに誠実さがある。理論から始まったのではなく、子どもたちと向き合った現場の試行錯誤から、方法論が育ってきた。
吹きこぼれと向き合う — 先に進むより深める学びを
「落ちこぼれじゃなくて吹きこぼれの方で学級が崩壊しちゃう」。葛原がこう語るとき、それは日本中で増えていく現象への見通しを含んでいる。塾で知識を先取りしていたり、もともとの理解力が高かったりして、学校の授業では退屈してしまう子どもたちが、周囲を巻き込みながら学級の秩序を崩していくケースだ。
ここで重要なのは、「ではその子を飛び級させればよい」という方向に話が向かわないことである。葛原が提示するのは、先に進むのではなく深める学びの空間だ。すでに内容を理解しきっている子どもが「教えてあげる」という役割を担う場面を想像してほしい。
> 教えてあげるっていうことは、自分の理解を語りすることも大切だし、なおかつその子が何に迷っているのかを洞察して、その子に必要な情報を出す。つまり、全部出さないみたいな。
これは知識を伝えるだけでなく、相手の迷いを読み取り、必要な情報だけを選んで届けるという高度な認知的作業だ。大人でも難しいこのチャレンジに、子どもたちが本気で取り組んだとき、他者の100点に心から喜べるようになっていく、と葛原は語る。
吹きこぼれの子に「あなたは小学校5年生の知識はよく理解できている。では残りの小学校生活で、何に命を燃やすか」と問いかける。知識の先取りではなく、語る力・洞察する力・コミュニケーションとしての学びに、その子の命を燃やす場を用意すること。それが葛原の実践の中心にある。
多様な子どもが集まる場が、学びを深める
吹きこぼれの話は、そのまま多様性とインクルーシブの話につながっていく。
> 多種多様な子どもたちが集まれば集まるほど学びが深まる。
勉強が得意な子と苦手な子、動くのが速い子と遅い子が一緒にいることを「混乱の原因」とするのではなく、「それぞれの強みが交わる場」として捉えるとき、学級の文化は変わる。算数を教えている子が、体育の場面では逆にその子に教えてもらう関係性が自然に生まれ、「勉強はこいつに教えてあげるんだけど、体育はこいつが助けてくれる」という紐帯が学級に編まれていく。
発達特性のある子どもについても、同じ視点で語られた。発達障害というカテゴリーで固定的に見るのではなく、現在地の違いとして受け止めることが大切だという。
> あなたの位置から、あなたが現在地っていうところをみんなで頑張ろうねっていうことにすると、それぞれ現在地違うのは当たり前で、それがたまたま落ち着かないとか座れないとか、座れないのは立てばいいだけの話で、そんな感じで目立たなくなっていく。
どうしても座っていられない子だけが立っているのではなく、立ちたい時に誰でも立てる学級では、「落ち着きがない」ことは目立たなくなる。外から分類されるラベルよりも先に、子どもの現在地を出発点にした空間設計が機能するという、実践から生まれた知見だ。
もちろん、特別な環境が助けになる場合もある。保護者が特別支援学級を選ぶ判断を一方向に否定することは、この対談ではされていない。ただ、多様な子どもたちと接する機会を失うことは、特別な支援を受ける子どもにとってだけでなく、クラスの他の子どもたちにとっても損失である、という視点が示された。
> そういう子どもたちと接する機会を失った子どもにも影響を及ぼすし、そっちは私はどっちかというとマイナスの方が多いと思うけど。
社会に出れば多様な人が存在する。その現実を、教室の中で育つことの価値。インクルーシブは「困っている子を助ける仕組み」であるだけでなく、全ての子どもの学びを豊かにする場の設計として語られている。
AI時代に、学びのコントローラーを渡す

インクルーシブの話から、対談はAI時代の教育へと向かっていく。
インターネットが広がった時代に「知識は記憶しなくていい、ググればいい」という感覚が広まった。AIの時代には、そこからさらに一歩進んで、知識だけでなく「考えること」さえ代替される局面が来ている。
> 考える教育を受けていない、とことん考える実践をしていない人が、自分より賢いAIを使えるかというと、多分無理なんですよね。
葛原が強調するのは、AIを「使う」ことではなく、AIに「使われる」側にならないための主体性の問題だ。自分の思考の核がなければ、どこまでが自分の思考でどこからがAIの出力なのかが分からなくなる。それはやがて、自分が何者かも分からなくなるアイデンティティの問題に直結する。特に、自我がまだ形成される途上にある子どもたちにとって、思考の外側にAIが先回りしている状況は、単なる利便性の問題では済まない。
この議論で大切なのは、AIそのものを否定するのではないということだ。葛原自身も仕事でAIをよく使うと語る。問題は「主として組み立てているのは自分だよ」という主体性が成立しているかどうかである。
学びのコントローラーが子ども自身の手に渡っているとき、AIは「自分の学びを補強するもの」として機能する。コントローラーを持たないまま流れに任せると、学習そのものが外側から動かされてしまう。タブレットを使わせる際に葛原がこだわるのも、同じ理由だ。学び方という「考え方」が先にあって、道具はその後に来るものだという原則が、AI時代になっても変わらない問いとして提示されている。
けテぶれとQNKSという方法論

AIに奪われない主体性を育てるための具体的な方法論として、葛原が提示してきたのがけテぶれとQNKSだ。
> けテぶれQNKSというのはもう一つの提案で、それは考え方です。思考を深めるっていう方法論としてちゃんと子どもたちに教えて、考えるということを意図的に実行していくっていうことを全教科を通じて練習していく。
けテぶれは「計画・テスト・分析・練習」を通して学習を自己調整する方法論であり、QNKSは思考を言語化・深化させる方法論である。この二つは両輪をなし、「やってみる⇆考える」の往還を全教科で意図的に回す仕組みとして機能する。
重要なのは、これを「使える学習テクニック」として捉えないことだ。この方法論は、人生・主体性・アイデンティティ・公教育の役割にまで接続して語られている。そのことは、漢字の小テストという一見日常的な場面が語られる中に、はっきりと現れている。
> 漢字のテストにもあんだけ努力してめちゃくちゃ頑張れたなっていう経験が、やっぱり努力するっていうところに対する子供たちが進んでいけるようなエネルギーになる。
小さな学習の一つひとつに「自分で取り組む」経験を積み重ねること。それが、生涯にわたって学び続けるエネルギーの源になる。勉強が嫌いになって小学校を卒業していく子どもたちの現状を変えるための根本的な問いが、ここにある。
兵庫県のある小学校で全校けテぶれに取り組んだ実践では、3学期に3年生が「来年度の漢字学習はこう学びたい。なぜならこの1年間でこういう失敗と成功と気づきがあったから」と語り合い、4月から自分たちの学びの見通しを持って新しい学年を始めるという姿が生まれた。学びが「させられるもの」から「自分がするもの」に変わるとき、子どもは全教科を通じて主体的な学び手になっていく。
けテぶれとQNKSは、AIが個別の思考プロセスに代わって介在する余地がない領域だと葛原は語る。漢字を覚える泥臭いサイクルも、思考を言語化しながら深めていく往還も、子ども自身がやってみることでしか積み上がらない経験だ。だからこそ、AIがそれを「助けてくれる」としても、主として組み立てているのは自分だという構造を守り続けることが、学習力の土台になる。
学校の外でも、学び方の共通言語を
対談の後半で加わったのが、放課後児童クラブという視点だ。低学年の子どもは、学校と同じくらいの時間を放課後児童クラブで過ごす。しかし現状では、宿題を終わらせて安全に過ごすことが主な目的になっており、学び方を育てる場としての可能性は十分に活かされていない。
葛原の実践の出発点は「学校から帰ってからちゃんと学べますか」という問いにある。そう考えると、低学年の子どもが放課後の多くの時間を過ごす場は、葛原実践の射程として自然に浮かび上がってくる。
> 学校より自由度が高いし、あとは異年齢っていうのが面白いですよね。年齢・学齢が関係ないから、いろんな学年の子供がいるから、教え合うみたいなのももっと本当は有機的にできるかもしれない。
放課後児童クラブは学校の代わりになる場所ではない。学年で区切られた学校にはない自由度と、異年齢が自然に混在するという固有の豊かさがある。そこにけテぶれやQNKSという学び方の共通言語があれば、年齢を超えた教え合いがより有機的に生まれる可能性がある。
全校でけテぶれに取り組んでいる学校では、学年や教科を超えた対話的な学びがすでに起きている。方法が揃っているとき、子どもたちは学習の中身だけでなく、学び方の水準で話し合い、教え合うことができる。放課後という時間がその舞台になるなら、協働的な学びはさらに広い文脈で育っていく。
学びの海を、自分の力で泳ぐ
葛原は、子どもたちの学びを「学びの海」に例える。
> 自分で学びの海を泳ぐっていうことの楽しさとか価値とか、もしくはスキルというものがちゃんと育っていくっていうことが、やはり子どもたちの人生で考えたときに大事じゃないかなと思いますね。
小学校は中学校のため、中学校は高校のため、という連鎖の中で子どもが生きると、どこにも「今ここで学ぶことの喜び」が生まれない。かつては「いい大学に入ればいい就職先がある」という船が用意されていたが、今その船は消えつつある。自分で泳ぐ力そのものを育てることが、公教育の問いとして正面に立っている。
学びのコントローラーが子ども自身の手にあるとき、たとえ目の前の内容が小さなものであっても、その過程で感じる手応えや、うまくいかなくても前に進もうとする意志が育っていく。けテぶれとQNKSはその手応えを可視化し、「やってみる⇆考える」の往還を意図的に繰り返す仕組みだ。それはAI時代になっても、子どもの手から取り上げられることのない経験の核をつくる。
知識を先に与えるのではなく、学び方を先に育てる。 公教育がボトムアップで変わっていくことへの問いを、葛原は現場から発し続けている。こうやって熱の広げ方な場で対話が積み重なっていく——実践者たちが集まり、議員との対話が生まれ、それがまた実践の場に還っていくこと自体が、葛原学習研究所のミッションが広がっていく姿でもある。