岡山県の小学校を訪問し、けテぶれ・QNKS・心マトリクスが学校全体に根づいている姿を目の当たりにしました。校長だけが熱を持っているのではなく、若い教師一人ひとりが自分の教室でそれぞれの一歩を踏み出しており、子どもたちもまた、心マトリクスを使って自分の現在地を言葉にしていました。この記録は、公教育がまだ変わりうるという確信と、葛原学習研究所のミッションを更新する経験として書き残しておきたいと思います。
校長の4月1日から始まる一年
岡山県の学校に呼んでいただき、研修のデザインをさせていただきました。一日かけて授業を見せていただき、先生方と話し、夜の席まで語り合った翌晩、宿泊先のホテルで今日感じたことをそのまま言葉にしておこうと思い、この放送を収録しました。
その学校が、これまで見たことのない景色でした。
校長先生は4月1日から、ご自身でけテぶれのスライドを作り、職員向けにプレゼンをするところから今年度をスタートされていました。それだけでも十分すごいことです。でも、私がより驚いたのはその先でした。
校長先生が盛り上がっている一方で、職員がついていけていないというケースは、珍しくありません。私自身、初任期にそういう学校を経験しています。管理職が新しい実践を掲げても、現場の教師たちはそれぞれの教室で何も変わらない——そういう構造は、どこの学校でも起こりやすいことです。
だからこそ、正直なところ、少し心配もしていました。校長先生がここまでパワフルに動かれているなら、職員の方々が「また校長先生だけが盛り上がっている」という状態になっているのではないかと。
でも、実際に全クラスを見て回ると、その心配は完全に杞憂でした。
どの学級も安定していた
授業を見せていただいた全クラスで、安定した学習の姿がありました。しかも職員の方々はとても若い。それでも、1年目の先生が授業開始13分で「はい、じゃあ後は自分たちでやってみましょう」という展開を作っていました。不安定感がまったくないのです。
これは、けテぶれ・QNKS・心マトリクスが「やらされているもの」ではなく、それぞれの先生が「自分の教室でどう使うか」を考えながら実践しているからこそ生まれる安定感だと思います。飲み会の場でも、QNKSを社会科の授業でどう回すかというような深い話が、若い先生から自然に出てきていました。校長先生の熱量が一方向に流れているのではなく、それを受け取った先生たちが、それぞれの現在地から一歩を踏み出しているのです。
熱は、共通言語があるときにはじめて循環します。けテぶれ・QNKS・心マトリクスという言葉を全員が持っているからこそ、校長先生と若手の先生が、同じ話題を同じ解像度で語れる。その構造がこの学校の土台にありました。

この図が示すように、熱を広げるためには単なる「伝達」では足りません。受け取った人が、自分の教室でやってみるという動きが起きているとき、はじめて熱は広がっていきます。この学校で見た姿は、まさにその循環が実際に動いているものでした。近隣の学校の校長先生が研修終わりに「うちにも来てください」とその場で手帳を開いたのも、その地域全体に流れていたエネルギーを象徴していたように思います。
置物にはならなかった心マトリクス
全クラスに心マトリクスが貼ってありました。それ自体はすごいことですが、私が注目したのは「それが使われているかどうか」です。貼ってあるだけでは、やはり置物になってしまいます。
夜の席で聞かせていただいた話が、印象に残っています。去年とても大変だった子が、今年は教室で前向きに勉強できているという。その変化の要因として語られていたのが、心マトリクスでした。
心マトリクスは、その子が今の現在地を言葉にするための道具として機能していました。「今日は自分がダラダラの場所にいる」と、その子が説明できるのです。そしてそれを先生と共有することで対話が生まれ、少しずつ動いていく。「今どこ?」「今、俺はお花畑にいる」「どこに行きたい?」「月に行ってみたい」——そんなやりとりが、日常の中で起きていました。
もう一つ大切なことがあります。心マトリクスには、良い状態だけが描かれているわけではありません。ダラダラや沼のような、そうでない状態もちゃんと含まれています。
これが大事なのです。良い状態しか表現されていない地図の中では、そこからはみ出した子どもは行き場を失います。でも、今の自分の状態もちゃんとそのマップの中に描かれていれば、「自分はここにいる」と見つけることができる。見つけられるということが、安心の基点になります。宇宙空間に放り出されたように感じるのではなく、今の自分の位置がわかる。そこから、次を考えることができるのです。
道具は手段であって、目的ではない
飲み会の場では、先生方から次々と質問をいただきました。「音楽の鑑賞の評価にはどう使うのか」「できた子に対してどうするのか」「逆にできない子にはどうアプローチするのか」——深く、具体的な問いでした。
こうした質問に向き合いながら、改めて確認したことがあります。
けテぶれやQNKSは、「やれば良い」技法ではありません。教育の目標があって、目的があって、それを実現する手段として提案しているものです。だからこそ、どの文脈でどう使うかという問いには、常に丁寧に答える必要があります。技法だけが先行して、なぜそれをするのかという問いが抜けると、やらせている子どもたちにとっても、やっている教師にとっても、何のためかがわからなくなります。
この学校の先生たちがすごかったのは、まさにその問いを持ち続けていた点でした。ただ導入して運用するのではなく、「自分の授業でどう意味を持たせるか」を考えながら使っていた。だから、深夜まで話が続いたのだと思います。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、子どもが自分の学びを自分で動かすための道具です。それぞれがバラバラに存在しているのではなく、互いに連動しながら、子どもを学習の主体者として育てる仕組みとして設計されています。この学校では、その全体像を教師が共有したうえで、各教室での実践に落としていました。だからこそ、若い先生が13分で「後は自分たちで」という展開を作れる。共通言語が、現場の判断を支えているのです。
直接会って語ることの意味
今回の研修で、私自身も深く考えさせられたことがあります。VoicyでもYouTubeでも情報は届けられます。本を読んでいただければ、内容はそこにあります。ではなぜ、わざわざ現地に行って話すのか。何を届けられるのか。
参加してくださっていた先生の一人が、哲学を専攻されていた方で、こんなことを言ってくださいました。「直接会って分かることがある。本で読むのとも、Voicyで聞くのとも、全然違う」と。
言語が人のコミュニケーション全体に占める割合は7%ほどだとも言われます。残りの93%は、声のトーンや表情、その場の熱量として伝わっていくものです。
語りには、情報を伝える以上に、実践への確信を渡す機能があります。「本を読んで一定納得している、でもまだ疑わしい」という状態の人が、実際に話を聞くことで「やってみよう」という確信に踏み込める。それは情報量の問題ではなく、「本物かどうか」という問いに、その場に居合わせることで答えが出るからだと思います。
誰にとっても直接会うことが決定的な転換点になるわけではありません。でも、「一定の納得はあるが、まだ確信が持てない」という状態の人にとっては、語る場が確信を生むプロセスとして機能することがある。この学校で私はその実例をいくつも目にしました。語りにそういう機能があるとすれば、私がどんな内容を、どんな場で話すかということの責任もあわせて考えなければならないと感じています。
初任期に入る畑が、教師の育ち方を変える
もう一つ、この学校を訪れて強く感じたことがあります。
この学校の若い先生たちは、教師になった最初の日から、けテぶれ・QNKS・心マトリクスが共有されている環境の中に入っています。4月1日の校長のプレゼンが、教師としての第一歩と一致しています。
これはとても大きいことです。
私自身、初任期に学び合いを実践している学校に配属されたことが、今に至る実践の起点になっています。最初から「子どもに任せる」という世界の中で動き始めたからこそ、その延長でけテぶれやQNKSの必要性に気づいていきました。自由進度学習だけでは回りきらない部分に、どんな手立てが必要かを徹底的に考えた結果が、今の実践につながっています。
種をどの畑に植えるか、という話です。同じ種でも、根が張れる環境があるかどうかで、育ち方はまったく変わります。ダンスで低音が響かないスピーカーを使っていれば、低音に反応した振りはできない。それは振りの能力ではなく、環境の問題です。この学校の若い先生たちは、けテぶれ・QNKS・心マトリクスが共通言語として機能している畑に、教師一年目から入っています。
バイアスなく、最初からその世界で動き始めることができる。それはやはり、10年後にどんな教師になるかという問いに対して、大きな違いを生むはずです。
さらに言えば、今この学校にいる子どもたちが、もし6年間この環境で学べるとしたら、「自分で学ぶ良さ」を体の中に持って卒業することになります。その中の誰かが教師になったとき、その人は最初から別のスタート地点に立てるかもしれない。ボトムアップの変化は、こういう積み重ねの中で少しずつ実現していくのだと思います。
公教育はまだ変わりうる
Voicyでは「公教育はやばい」「沈む」という話をすることもあります。でも、この学校を訪れた夜、その言葉は自分の中で少し塗り替えられました。
沈む気配はどこにもありませんでした。生き生きと、それぞれの実践を紡いでいる先生たちがいました。現場レベルで「けテぶれを聞いたことがある」「知っているよ」という人が増えてきていることを、先生方から聞かせてもらいました。一時の流行りとして消えることなく、問い続けている人たちのところにある実践として、少しずつ根を広げていることを感じました。
公教育をボトムアップで変えるという旗は、もう掲げてしまっています。だからこそ、こういう学校と出会い続け、それぞれの現在地から一歩を踏み出すためのお手伝いを続けることが、葛原学習研究所のミッションとして本当に大事なのだと、改めて感じました。
全国には、まだ実践が始まったばかりの学校も、どこから手をつけたらよいか分からないという学校も、たくさんあります。今日訪れた学校が「こうでなければならない」という正解を示しているわけではありません。それぞれの学校の現在地から、どうすれば一歩を踏み出せるか。そこに関わり続けることが、自分にできることだと思っています。まだまだ捨てたもんじゃない、と思えた一日でした。