PISAで学力面の好成績が確認されても、不登校の過去最多更新や教師の精神的負担の深刻化という現実を見落としてはなりません。公教育の課題は学力の高低ではなく、子どもの自己決定がどれだけ尊重され、社会的な豊かさとともに育っているかにあります。目的・目標は学習指導要領や法律で示されていますが、手段には大きな自由度があります。その自由度を活かして個別最適な学びと協働的な学びを両輪で実現することが、子どもの幸福と教師の働き方の改革に同時につながる道筋です。
PISA好成績の陰で見えていないもの
PISA(国際学習到達度調査)の結果が発表されるたびに、日本の学力の高さが注目を集めます。現場の先生方の努力が形として示されることは喜ばしいことです。しかし、学力が高いだけで満足していていいのか、という問いを避けては通れません。
その同じ時期、教師の病気休職者数は過去最多を更新しています。子どもたちの不登校も過去最多であり、しかもそのグラフは急勾配で増え続けています。未成年の自殺率の高さも深刻な問題です。学校が子どもたちにとって安心して過ごせる場であれば、不登校はこれほど増えないはずです。
ある数値が良くても、別の指標が悪化し続けているなら、教育の構造そのものを見直さなければならないシグナルだと言えます。公教育として、学力と幸福の両方をどう同時に実現するかを問わなければ、部分的な改善に終わります。
この課題は国の政策レベルで語られることが多いですが、一担任であっても、一教育者であっても、考えていかなければならない喫緊のテーマです。目の前の教室から変えていくという姿勢が、公教育のボトムアップ改革につながります。
教育は「人権に触れる」営みである
なぜ子どもたちはしんどいのでしょうか。その根本に向き合う時、まず認識しておきたいことがあります。それは、教育という行為は本質的に、子どもの自由・人権に触れる営みであるという事実です。
「あれをしなさい」「これはダメです」「言うことに従いなさい」——こうした関わりは、無自覚のうちに子どもの自由を制限しています。もちろん、教育の場では一定の指示や方向付けは欠かせません。しかし、その自覚のないまま命令や否定を積み重ねることは、日常的に子どもの人権を傷つけることになります。教育の名のもとに何でもやっていいわけではなく、それを丁寧に慎重に扱うことを許されているのが、教える立場の責任です。
人権とは、自分の意思で思考と行動をコントロールしたいという、人間の根源的な在り方に関わるものです。自由の相互承認、つまり「私も自由であり、あなたも自由である」という相互的な尊重が健やかな関係の基盤となり、そこに主体性が育ちます。逆に、その主体性が毎日踏みにじられ続ける環境に置かれた子どもが、学校を辛いと感じるのは当然のことです。
だからこそ、子どもたちの自己選択・自己決定の余地を最大限に残すことが、子どもの幸福を支える根本的な土台になります。それは「放任」ではなく、目的と目標をしっかり見据えながら、手段の自由度を広げるということです。
目的・目標は固定、手段には自由度がある
ここで重要な整理をしておく必要があります。学習空間には「目的・目標・手段」という三つの要素があります。
公教育では、教育基本法・学校教育法・学習指導要領によって、目的と目標はほぼ法律レベルで確定されています。学校は義務教育の範囲でそれを達成しなければならない場です。この点は、担任一人の判断でどうにかなるものではありません。

今回の学習指導要領の改定では、主体的・対話的で深い学びという形で、手段の方向性にも踏み込みました。これは従来とは異なる動きです。しかしながら、それはあくまでも「このような学び方を大切にしてください」という方向提示であり、具体的な授業手法まで縛るものではありません。目的と目標は定まっているが、手段には依然として大きな自由度が残されているのです。
よくゲームに例えると分かりやすくなります。ゼルダの伝説でいえば、最終目標は広大なマップのどこからでも見える形で示されています。しかしどのルートをたどってその目的地に向かうかは、プレイヤーの自由です。広いフィールドを自分の判断で歩き、自分の意思でプレイできるからこそ、そのゲームは豊かな体験になります。教育でも同じ構造を取ることができます。目的・目標を外さず、しかし手段の自由度を子どもに与えること、それが自己決定を尊重する設計です。
自由進度学習についても、「流行りだから取り入れる」という話ではありません。子どもを一人の人格・人権として尊重するならば、自由度は増えざるを得ないという構造から、自然に生まれてくるものです。「自由進度がよいか、単線型の授業がよいか」という勝ち負けの議論よりも、なぜ自由度を増やさざるを得ないのかという根拠の理解が先にあるべきです。
個別最適な学びと協働的な学び——同じ山の二つの登山口
今、教育界で最もよく耳にする言葉の一つに「個別最適な学び」と「協働的な学び」があります。しかし、この二つを別々の施策として並べてしまうと、本質を見誤ります。
この二つは対立するものではなく、良い学びという一つの山頂に向かう、二つの登山口です。
登山で考えると分かりやすくなります。Aの登山口は「個別最適な学びを実現する」方向から登り始めます。Bの登山口は「協働的な学びを実現する」ところから登り始めます。出発点は違います。しかし山頂にたどり着いたとき、AからきたのもBからきたのも関係なく、そこには個別最適な学びも協働的な学びも同時に達成されている姿があります。

子どもたちを自立した学習者として育てることに徹底して取り組んでいると、あるとき教室の様子が変わります。自分で学びを動かせる子どもたちが集まっているのですから、誰かと話したくなり、自然と協働が始まります。個人の自立を追求することが、協働を生む土台になるのです。
逆の入口からでも同じことが起きます。協働的な学びを突き詰めていくと、個々の学びが個別最適化されていきます。他者と深く関わればするほど、自分でじっくり考える時間が欲しくなる。片方から入ったときに、もう片方がちゃんと駆動しているかどうか。そこまで見てはじめて、「山頂に着いた」と言えます。
これは3つの動的パターン——両輪の往還——が教室の中でも息づいている姿でもあります。心マトリクスの言葉を借りれば、個別最適な学びは「月」、協働的な学びは「太陽」の関係です。月の学びを突き詰めると誰かと語りたくなり、太陽の学びをすればするほど自分で考える時間が欲しくなる。その往還そのものが、豊かな学びの実体です。

特別な配慮を要する子、これまで教室に馴染めなかった子、学校に反発してきた子。そういった子どもたちも、自己選択・自己決定が尊重される場では「教室で勉強できる」と感じ始めるという経験があります。個人として尊重され、社会的にも豊かになっていける場が実現されるとき、子どもたちは安心して学べるようになります。すべてがうまくいくと断言はできませんが、その方向に向かう具体的な構造を持てることが重要です。
教師の働き方そのものが変わる
この話は、子どもの幸福だけにとどまりません。教師の働き方改革としても、同じ構造が機能します。
初任者が最も悩むことの一つが「明日の授業をどうしよう」だというアンケート結果があります。週末も授業の準備が頭を離れず、日曜の夜には翌週が怖い。そんな状態が続けば、精神的に消耗するのは当然のことです。
しかし、子どもたちが自ら学びを動かせる構造が教室にあれば、話は変わります。毎時間を細かく作り込んで「ようこそいらっしゃいませ」と出迎え続ける働き方から、子どもたちが動く大きな構造を整え、動いた子どもの学びを洞察し、そこに適切に働きかける働き方へと移行できます。
事前準備に費やしていた時間と労力を、子どもを見ることに使えるようになる。これは教師の仕事の質が変わることであり、単なる時短ではありません。子どもの学びと教師の在り方が、同じ構造の更新によって同時に変わっていくということです。
公教育のアップグレードを、現場から
PISAの好成績は、日本の教育の地力を示すものです。しかしその数字の陰で、不登校・教師の疲弊・子どもの幸福度の低さが進行しているなら、構造を見直す必要があります。「公立小学校では良い教育を受けられない」と感じてフリースクールを選ぶご家庭が増えているとすれば、それは公教育への信頼が揺らいでいるサインでもあります。
公教育をどうアップグレードするか——この問いは国全体のテーマであると同時に、一人の担任が今日の教室でどう授業をデザインするかという問いとも直結しています。目的と目標を外さず、手段の自由度を広げる。子どもの自己決定を尊重し、個人の自立と協働の両輪を同時に実現する。この構造を全教科・全領域をカバーする形で具体化していくことが、子どもも教師も幸せな学校をつくる道筋であり、葛原学習研究所が提唱し続けるミッションの根幹です。