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多様な背景を持つ子どもと向き合う教師の根本姿勢

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発達特性、家庭環境、生活リズムなど、さまざまな背景を持つ子どもたちへの関わりが問い直されています。宿題未提出という一点だけで子どもを否定する姿勢がいかに人権意識を欠くか、そして表面的な「できなさ」の奥にある背景を構造的に見取ることがなぜ必要か。診断や薬を単純に否定せずに大人の管理欲求によるレッテル貼りを警戒しながら、その子の現在地から一歩を設計し続けること——そして最後には、どの子にもよりよく生きようとする光があると信じることが、生徒指導の根幹にあるべき姿勢です。

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多様性は「増えた」のではなく「見えるようになった」

「現代はいろんな子がいる」とよく言われます。しかし正確には、多様な背景を持つ子どもたちが「増えた」のではなく、「出てこれるようになってきた」というのが実態に近いでしょう。

かつては黙殺され、「間違っている」と否定されて終わっていた子どもたちがいました。マイノリティとされてきた人たちにも権利があり、生きる権利があるという人権意識が社会全体に育ってきた——そのフェーズにいま私たちはいるのです。発達障害、精神疾患、家庭環境の困難、性的多様性。こうした課題がクローズアップされ、関連する法律や指針が整備されてきたのも、その流れのなかにあります。

12章「性に関する問題」も、13章「多様な背景を持つ児童生徒への指導」も、生徒指導提要が改訂されて取り上げるようになったのは、それだけ見えるようになってきた存在を包摂していく方向性を、教育が明確に示そうとしているからです。「自分が自分であるとき最も輝く」ということを、みんなでシェアして包摂していく——それがこの時代の教育観の中心に据えられつつあります。

一点の否定が学級全体の空気を変える

こんな事例を考えてみてください。ある保護者が連絡帳に書きました。「うちの子が、宿題をやっていないことをクラスのみんなから責められて、学校に行きたくないと言っています」。

宿題をやっていない一点で、その子が学校に行きたくなくなるほどの言葉と表情と態度を向けられている。そしてそれを「宿題をやるのは当たり前だ」という理屈で正当化する声があります。

しかし、立ち止まって考えてほしいのです。教師が宿題をやっていない子を否定すると、その否定の眼差しは確実にクラスメイトに伝播します。 教師が「間違っている」と示した子を、子どもたちも「間違っている」として扱うようになる。これは学級の空気が形成される基本的なメカニズムです。

これは人権意識の欠落です。さらに言えば、「麻痺」の姿でもあります。学校という世界はどうとでも説明できる——その説明を一方的に押しつける存在として麻痺してしまうと、子どもの人権を傷つけたり踏みにじったりすることへの違和感がなくなっていきます。医師が手術に慣れすぎて患者の痛みへの感覚が鈍くなるように、教師も「これが正しい」という確信のなかで、その行為が誰かの居場所を壊していることに気づかなくなる。そういう構造を、まず自覚する必要があります。

表面的な「できなさ」の奥を見取る

では、宿題をやってこない子に対して、どう向き合えばよいのか。

大切なのは、「できなさ」や「やらなさ」の背景に何があるのかを、深く観察して洞察することです。 その子の命がいまどういうバランスで成り立っているのか、を見ていく必要があります。

たとえば、習い事が多くて毎日疲弊しきっている子がいます。学校から帰ってくる頃には体力も気力も残っていない。そういう子に、家で自由な時間がたっぷりある子と同じ水準で「宿題をやってこい」と求めることが、本当に適切でしょうか。外部的な家庭環境だけでなく、内的な側面もあります。「自分で家での学習を起動する」ということが、発達段階や特性として本当に難しい子がいます。それは、50メートル走で12秒かかる子に「なぜ8秒で走れないんだ」と怒るのと、本質的には変わりません。

あなたは最も輝く
あなたは最も輝く

足の速さは目に見えます。でも、学習を起動する力の個人差は見えにくい。見えにくいがゆえに、「やればできるはず」「鉛筆を持てば誰でも書ける」という感覚で同一に扱ってしまいやすい。しかしその子が悪いという一点で片付けるのではなく、その子の在り方や行動が、周囲の環境とその子との相互作用のなかで現象として現れていると捉える——これが構造論的な見取りです。

発達支持的生徒指導とは、その子の環境・内面・バランスを観察し洞察したうえで、その子だけに一歩進めるような支援を個別に設計していくことを指します。

診断・薬・合理的配慮——手段か、管理か

障害者差別解消法の成立以降、合理的配慮や発達障害への理解が求められるようになりました。自閉症、注意欠陥多動性障害、学習障害——こうした枠組みは、その子の特性を理解するための一つの手がかりになることがあります。薬についても同様で、その子の苦しさを軽減し、人生を送りやすくするための手立てとして機能するケースは確かにあります。

しかし同時に、別の問いも立ちます。

注意欠陥多動性障害という診断は、「今の学校という空間で生きにくい」ことを意味しているのであって、その子が「間違っている」ことや「病気である」ことを直接意味するわけではありません。 コツコツと淡々と、同じことを繰り返すことを求める環境では生きにくい——しかしそれは、その子の才能や特性が別の方向を向いているということでもある。思いつきで素早く動き、チャレンジしていく力も、現代では確かな資質です。社会や文化の枠組みが変われば、「障害」の境界線も変わります。

問題は、大人やその文化的枠組みにその子を押し込めたいというコントロールの欲求が暴走した結果として、安易に病名のレッテルを貼り、薬を用いることです。学校でおとなしくさせるために薬を使うということと、その子本人の苦しさを和らげるために薬を使うということは、まったく異なります。学び方としてのインクルーシブも、「その子のニーズを考える」ということが中心にある以上、診断名や薬の是非ではなく、何がその子の人生と学びを支えるのかという問いから出発する必要があります。

圧力から始めること、そして手段を更新すること

では、宿題をやってこない子に対して、何もしないでいいのかというと、そうではありません。

教師が「宿題をやることがこの子の成長に必要だ」と根拠を持って信じているなら、それを語ることが求められます。そして最初の1回、2回、1週間から2週間のなかで、注意をしたり言葉をかけたりすることは、全然悪いことではない。それが出発点であることは確かです。

問題は、その後です。何度繰り返しても有効でないとわかったのに、同じ手段を使い続けることは怠慢です。「片付けなさい」と言い続けても片付けない子に、永遠に「片付けなさい」と言い続けることは、関わりではなく惰性です。 子どもたちの成長を支える専門職として、その反応を見て、次の関わり方を更新していくことが求められます。

これは教師自身が、1年間をかけてその子への関わりを自己調整学習していくということです。こうしたら反応するな、こういう入り口ならその子はエネルギーを発揮できるな——そうした試行錯誤の積み重ねこそが、生徒指導の本当の肝になります。竹槍一本で同じことを繰り返し続けることとは、対極にある姿勢です。

心マトリクス
心マトリクス

その子のバランスを見取るとは、緊張と緩和、頑張るときと休むときの両方がその子の生活のなかにあってこそ、人生をご機嫌に過ごすことができるという視点です。宿題ができないという一点から出発して、その子の命全体がどんなバランスで成り立っているのかを観察することで、関わりの設計は変わっていきます。

その子の行動は「世界との相互作用」として現れる

子どもの問題的な行動を見たとき、「この子が悪い」という一点で閉じてしまうことが、いかに多いか。

しかしその子の在り方、その子の行動は、その子の内側の要素だけが発現しているのではありません。その子が生きている世界——家庭、学校、人間関係、文化的な圧力——との相互作用のなかで、現象として現れているのです。 これは哲学的な話ではなく、実践的な見立てとして機能します。

この子はなぜこうなっているのか。その子が悪いのではなく、何かがかみ合っていない。どこかでボタンが掛け違っている。そう見立てることで、初めて介入の糸口が生まれます。反対に「この子が悪い」で閉じてしまうと、問いも解決策も生まれません。

世界はどうとでも説明できるという認識は、教師にとっての武器でもあり、落とし穴でもあります。自分の説明を唯一の正しさとして押し付けていくとき、その教師は子どもの人権を踏みにじることへの感覚を失っていきます。説明を持つことと、その説明を疑う構えを持つことは、両方が必要です。

どの子にもある「清らかな炎」を信じる

最終的に、生徒指導の根本に戻ってきます。

どの子も、全力で生きようとしています。どの子も、自分の人生をよくしたいと思っている。表面上そう見えない子であっても、その奥には、清らかで純粋な炎が灯っています。

これはロジックでもあります。生まれながらに他者を傷つけることを望んでいる子が、クラス全体の大多数を占めるはずがない。リンゴを食べるとき、毒が入っている可能性をほとんどゼロとして手に取るように、目の前の子を「清らかな光を持つ存在」として前提に置くことのほうが、確率論としても妥当なのです。

もしその光が曇って見えているとしたら、それは周囲の環境との相互作用のなかで何かがねじれてしまっているということです。 その光がどこでなら輝けるのかを探し、輝きを曇らせている圧力から子どもを守ること。そしてその奥にある前向きな命の炎があると信じて関わり続けること。

信じて、任せて、認める——これが、生徒指導の根幹に置かれるべき姿勢です。どの子の内側にもある「よりよく生きたい」という光を手がかりに、その子の現在地から一歩を一緒に探していく。そこに、教育の専門職としての仕事があります。

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