暴力行為は止めなければならない問題行動です。しかしそれは、子どもの人格や尊厳まで否定してよいということではありません。暴力を起こす子を「異常者」として処理しようとする指導は、その子の自己像を傷つけ、前向きな努力への動機を根こそぎ奪います。教師の本質的な仕事は、事件化してからの処理ではなく、その前段にある発達支持的生徒指導——衝動や特性を前提に、社会生活の中でどう自己調整していくかをその子と一緒に作ることです。
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暴力行為とは何か
文部科学省の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」では、暴力行為を「自校の児童生徒が故意に有形力(目に見える物理的な力)を加える行為」と定義しています。その対象によって、対教師暴力・生徒間暴力・対人暴力・器物破損の4種に分類されます。
小学校においては増加傾向にあり、現場での関心も高まっています。しかし数字や事案の深刻さに引きずられて、指導の向かう先を見誤ってしまうことがあります。「どうやって止めるか」の前に、「その子をどう見るか」が問われているのです。
「止める」と「否定する」は別のことである
暴力行為をした子に対して、毅然と向き合うことは必要です。しかし、暴力という行為を問題にすることと、その子の人格まで否定することは、まったく別の話です。
「暴力を振るうからダメなんだ」という論理で人格まで否定し、矯めようとする指導は、ほぼうまくいきません。
ことわざに「角を矯めて牛を殺す」という表現がありますが、まさにこの構図です。角(その子の尖り)が社会生活上不都合を起こしているからといって、その角を力で折ろうとすれば、その子自身が弱ってしまう。ホリスティックに、全体の中の特性として見てあげなければならないのです。
暴力行為の背景には、脳の特性として「すぐ手が出てしまう」という衝動を持つ子もいます。それは本人の意志だけでは簡単に変えられない特性の一つです。陰口を言ってしまう子、意地悪をしてしまう子がいるように、衝動的に手が出てしまう子がいる——それは個性の範囲として受け止めることが出発点になります。その子のバランスとして、特性を前提にした社会生活の過ごし方を一緒に模索していくこと。それが指導の方向性です。
「異常者扱い」ではなく、「同じ土俵に立たせる」
暴力行為への指導で最も避けるべきことの一つが、「お前が異常者で、みんなが健常者だ」という見方をさせてしまうことです。この見方は、その子の人格的な尊厳を深く傷つけます。
人間は誰でも、社会的に受け入れられないような衝動や欲求を、大なり小なり持っています。それを何とか自分の中でコントロールしながら、社会的に不都合が出ないよう自己調整して生きているのです。これはすべての人に共通することです。
暴力行為として顕在化した子は、その衝動がたまたま「人を殴りたい」という方向に偏って持っており、かつ学校という多くの人が集まる環境がその衝動を表出させやすくしているにすぎません。仮に動物の毛皮に強い執着を持つ人がいたとしても、学校という環境ではその衝動が出てくる場面がないから見えていないだけです。みんなが「普通に見える」のは、それぞれが現れにくい環境にいるからであって、誰もが何かしらの衝動を抱えているという点では変わりありません。
「みんな同じ土俵で、みんな同じように自己調整学習をしているんだ。だからあなたもそういうところで自己調整をしていかなきゃいけないよね」——この見方が、その子を孤立させず、変化への道筋を開きます。「普通なんていない、それぞれの思いや感情やこだわりがある」という多様性の前提を学級の土台にしていくことが、こうした指導の実地になります。
自己像を守ることが、前に進む出発点になる
具体的な指導の第一歩は何か。それは自己像を否定しないことです。
否定から始まって前に進もうという気持ちを起こす子は、ほとんどいません。「悪い子」と烙印を押され、人格を否定されたところから、前向きな努力が生まれることはほぼないのです。
自己像が守られているとき、初めてその子は「前に進もう」「変わってみよう」という気持ちを持てます。厳しく向き合いながらも、その子の存在そのものは信じて、任せて、認める——この姿勢がなければ、どんなに正しい言葉を重ねても届きません。
「その子の尖りをどう折るか」ではなく、「その特性を前提にして、社会生活の中でどう過ごすかを一緒に模索すること」が、教師がすべき仕事の中心です。尖りを折ろうとする方向に進んだとき、いい未来はほぼありません。
プロの教師の仕事は「事件の前」にある
暴力行為が重大事案になれば、警察や関係機関との連携が必要になります。それは否定しません。ただ、警察に通報することは「教育」ではありません。それは事件の処理であり、その経験の中でその子が立ち直るかどうかは、もはや教師の仕事の外に出ています。
プロの教師の仕事は、その前にあります。
生徒指導提要では、未然防止・早期発見・早期対応・課題解決の観点が示されています。意図的・計画的に、暴力行為が実現しないような関わりや環境・見方を作っていくこと——それが教師として取り組むべき本質です。
多様性を前提にした子ども観を持ち、一人ひとりの衝動や特性を異常として排除するのではなく、「普通なんていない、誰でも何かしらを抱えて調整して生きている」という見方を持つこと。それがすべての土台になります。
組織で動く前に、職員間で「見方」を共有する
暴力行為が起きたとき、既存の生徒指導部会で対応するか、プロジェクトチームを作るかという組織的判断が必要になります。しかしその前提として、職員間に子ども観・指導観が共有されていなければ、チームで間違えることになります。
「悪い子はしっかり締め上げればいい」という指導観を持つ人たちへの相談は、連携ではなくエラーの増幅になります。若手教師がトラブルを抱えたとき、こじれる原因の多くはここにあります。専門知識の共有と、子ども観の共有——この二つが組織的対応の実質的な前提です。
組織を動かす仕組みを整える前に、「この子をどう見るか」についての共通理解を職員間で育てていくことが、生徒指導の質を決める根本になります。
学校の役割を見極め、関係機関と連携する
少年非行や家庭内虐待など、学校だけでは抱えきれない領域が確かにあります。学校外での問題行動が続く場合や、虐待の疑いがある場合は、医療機関や警察など関係機関との連携が不可欠です。
そのとき大切なのは、学校ができることと、外部に任せることを明確に切り分けることです。夜間の見回りや地域の巡回まで学校が引き受けてしまえば、毎日登校している子どもたちへの教育がおろそかになります。それは公教育が本来果たすべき役割を失うことになります。
学校の強みは、毎日子どもの生活を共にしていることです。虐待の兆候や心身の変化を早期に発見できるのは、学校という場に日常的にいるからこそです。その目を持ちながら、情報を関係機関に共有し、大人として動く——その動きと、子どもへの直接の関わりを並行して進めることが、学校の役割です。教育的合気道、つまり教員ができることとできないことを見極めて、線引きするところは線引きするという姿勢が、現場を守ることにもつながります。
厳しい環境にいる子への関わり:解釈と認識を一緒に作る
家庭的に困難な状況にある子の場合、親に直接働きかけることには限界が伴います。親への言及が逆上を招き、状況がエスカレートするケースもあります。
そのとき教師が関われるのは、やはり子ども本人です。
「今の状況、今の環境を、君はどう解釈して、そこから何を学び取って、どう立ち上がっていくか」——この問いを一緒に考えていくことが、現実的に最も有効な関わりになります。
変わらないものは変わらない。他者はそう簡単に変えられない。だからこそ、その状況をどう解釈して、自分の中でどう振る舞い、行動するかが、その子の人生にとっての核心になります。
世界はどうとでも説明できます。同じ状況でも、その子がどう意味づけるかによって、そこからの一歩はまったく違ったものになります。その「解釈と認識」を、その子と一緒に作っていくこと。自己調整の土台を、その子の現在地から丁寧に育てていくこと。これが発達支持的生徒指導の核心であり、現場にいる教師だからこそできる仕事です。
おわりに
暴力行為への指導の核心は、問題行動を止めることと、その子の人格の尊厳を守ることが両立するという認識を持つことから始まります。
「尖りを折る」方向に進んでも、いい未来はありません。その子の特性を前提に、社会生活の中でどう自己調整していくかを一緒に模索していくこと——それが発達支持的生徒指導の実践であり、プロの教師として取り組む本質的な一歩です。
現場にいるからこそ、この問いと正面から向き合うことができます。子ども観・指導観を職員間で共有しながら、一人ひとりの子どもの自己像を守る関わりを積み重ねていきましょう。