認知的徒弟制の実践者との共同研修をきっかけに、教師が持つ技術やスキルを子どもたちと共有することの重要性を考えた。研修のなかで出会った先生方の「違和感」――ワークシートで活動が回っても、けテぶれやQNKSで子どもが楽しそうに動いても、いい子すぎて指示通りに動く教室を見ても感じる引っかかり――は、実践が次の段階へ深まろうとするときの重要なサインだった。この違和感の根にあるのは、教育行為が人権侵害になりうるという感覚であり、一人一人の自己選択・自己決定が保障されているかを問う人権意識である。人権の視点は特別な授業の一時間ではなく、全教科・全時間の授業設計に染み渡るべきものだ。
教師の技術は、子どもたちのスキルになる
認知的徒弟制の実践者とともに、「主体的な学びに伴走する在り方」をテーマにした共同研修を行いました。認知的徒弟制の視点からけテぶれを眺めてみたり、けテぶれの視点から認知的徒弟制を眺めてみたりと、お互いの実践をぶつけ合いながら考えた時間です。すでに2回目の開催で、次も予定されているという積み重ねのある場です。
そのなかで出てきた枠組みが、共感・整理・提案・触発というプロセスです。子どもが置かれている状況に共感し、状況を整理し、整理から見えてきたことを提案し、実行できるような触発をする。これは認知的徒弟制における関わりの流れとして示されたものですが、私が聞いた瞬間に思ったのは「これを先生だけのスキルにしてしまうのか」ということでした。
教師にとって大切なスキルが、子どもたちにとっても大切でないはずがありません。友達の相談に乗る場面、勉強をサポートしたい場面でも、共感と整理がなければうまくいきません。「こうしたらいい」という提案だけが先走って、その手前にある「何が分からないのかを一緒に整理する」段階が抜けてしまうことがある。現在地を把握することがあって初めて、次の一歩が見えてくる。 それは対人との関わり、つまり協働的な学びの技能として扱うべきことです。
教師だけがこの枠組みを持っていては「教師がやってあげる」という世界から出られません。教師として大切な技術は、語りによって子どもたちに提示し、みんなのスキルにしていくことが自由進度学習の場をつくる上で欠かせない。 これは一部の子が上限解放でやっていることも、教師が教材研究でやっていることも同じです。

けテぶれも、QNKS(問い・抜き出し・組み立て・整理)も、もともとは教師が教材研究でやっていることです。それを語りとして提示し、子どもたちが共有のスキルとして使えるようになっていく。そうして初めて、それぞれの子どもの主体的な学びが育ち、やがて協働的な学びへとつながっていきます。
三つの「違和感」――実践の深まりを告げるサイン
研修後の懇親会で、印象深い話をいくつか聞きました。
ある先生は、「自分は違和感から入っていった」と言っていました。教師のパフォーマンスで引っ張り回す授業への違和感から出発し、自由進度的な実践を模索する中でまずワークシートで学びの場を整理する実践をした。子どもたちが指導なしに活動を継続できることは確認できた。でも、そこにもまた違和感があったと言います。
> 「ワークシートという非常に狭い手のひらの上で、なんとなくうまく転がされているだけではないか」
活動が途切れなくなっても、子どもたちが迷わず動けるようになっても、果たしてそれは主体的な学びなのか。そこからさらにけテぶれへとたどり着いたのだと話してくれました。
別の先生は、けテぶれ・QNKSをひととおり実践して、それなりにうまくいっているけれど、何か語りきれない違和感をずっと抱えていると言っていました。100%納得して前向きに動かせているかというと、微妙に引っかかりがある。そのために今日は来ました、と。
またある先生は、「子どもたちがやれと言ったらサクサクとやってしまう。真面目で前向きなんだけれど、本当に主体性を発揮した姿としてけテぶれやQNKSに取り組んでいるのかどうか、微妙に分からない。本当に主体的な学びを考えた時に、これでいいのかな、という違和感があります」と話してくれました。
この三つの違和感には共通の構造があります。実践がうまく回っているとき、子どもが楽しそうに動いているとき、ほど違和感を感じることは難しい。 しかし、引っかかりを感じているということは、失敗の証拠ではありません。実践が次の段階へ向かうための力が育っているサインだと思います。
一度立ち止まって見えてくること
「一度止まると書いて正しい(一止)」という言葉があります。一度立ち止まって見ないと、世界はどうとでも語ることができてしまう。正しいことが見えてこない。逆に、立ち止まらずに進み続けていると、少しずつずれていく歩みに気づかないまま進んでしまう可能性があります。
違和感はその立ち止まりの契機です。では、その感覚はどこから来るのでしょうか。「何か違う気がする」「これじゃない気がする」という感覚は、言語化できない何かとの対比によって感じられるような気がします。哲学で言えばイデアのような、完全な形との対比によって「違う」と知覚される。それに近い構造がある。

ではその感度はどこで育つのか。この問いを考えていて行き着いたのが、人権意識という言葉です。言語化しにくい違和感の根に、人権意識があるのではないかという仮説です。
違和感の根にあるもの:人権意識
私はずっと「教育行為というものは人権侵害である、それを発動していい免許としての教員免許」と話しています。これは教師の仕事を否定しているのではなく、子どもに何かをさせること・させないことには、常に人権侵害の可能性が伴うという感覚を持ち続けることの大切さを言っています。
この人権を踏みにじっているという感覚を、正しく、豊かに持てるかどうかが、非常に大切です。
主体的な学びって、突き詰めると人権の問題です。人権侵害をしすぎているがゆえに、子どもたちの主体性や生きる力が侵害されている。「ああしろこうしろ」という統制が多すぎることへの反省が、今の主体的な学びへの問いの背景にある。そう捉えると、ワークシートの狭い手のひらの上で転がされているという感覚への気持ち悪さも、やれと言ったらサクサクやってしまう子どもたちを見た時の引っかかりも、人権的に見てどうなのか、という問いへの感度がその根にあると整理できます。
「うまくいっている授業」への問い直し
非常に統制の取れた教室を想像してください。先生が「A」と言ったら食い気味に全員が「A」と答える。手を挙げましょうと言ったら全員が目を輝かせて手を挙げる。返事は揃っていて元気がよく、子どもたちは先生の授業が楽しいと言っている。
そういう教室を見た時、「なんて指導力のある先生だ、こんな先生になりたい」と感じることは自然なことです。でも、右といえば右を向く子どもたちに育てているという状況に、違和感を感じられるかどうか、というのが問いです。
一人一人の人権が本当に尊重されているかどうか。子どもたちは楽しいと言うかもしれない。先生が大好きと言うかもしれない。最悪な教室よりはずっとよいかもしれない。でも、子どもが楽しそうに動くこと、活動が継続していること、先生が好きと言っていること、それだけでは主体的な学びとは言えません。 その教室の範囲内での最高が、その子たちの人生における自己選択・自己決定の保障につながっているかどうか、という問いがある。
教師のパフォーマンスで子どもを引っ張り回す授業も、ワークシートで活動をうまく転がす授業も、「それって一人一人の子どもの人権を保障するような場になっているか」という問いで見直す必要があります。
ここに立ち止まれないと、主体的な学びの場という発想自体がなかなか持てないだろうし、そこに向かう必要感も感じられないだろうと思います。その裏に教師のコントロール欲や統制力への憧れがあるとしたら、それを教師の目標として設定してよいのかを問い直したいのです。
人権の学びは、全教科・全時間に染み渡るもの
私はかつて、教師として最終学年に「人権の授業」の研修デザインを担当しました。どうしようかと考えながら人権的な発想の資料を読み返していたとき、「これ普段の授業そのものだ」という感覚になりました。
結果として行ったのは、普段通りの授業です。その授業を人権的な視点で見てくださいと提案し、そうすれば人権の指導として全てが当てはまるはずです、という形にしました。
道徳と同じことが人権にも言えます。人権の授業は、人権の時間に特別にやるものではない。全教科・全時間に染み渡っていないとおかしい。それくらいの学びが、人権の学びなのです。
一人一人の人権が尊重される学びの場を考えようとしたとき、ある程度の自己選択・自己決定が毎回の授業で保障されていなければならない。どこかの特別なイベントで子どもたちが盛り上がる一方で、算数の授業では終わった子が絵を描いて待たされているという状況があるとしたら、それはおかしい。そのことへの立ち止まりができるかどうか。
そのための感度が、深い人権意識です。実践を深めるための違和感を感じる力は、どれだけ豊かに人権への感度を持てるかと関わっているのではないかと思います。
おわりに
実践がうまく回っているとき、子どもたちが楽しそうなとき、ほど違和感を感じることは難しい。でも、立ち止まらなければ、ずれていく歩みに気づけません。
そのために必要なのは、教育行為が人権侵害になりうるという感覚を豊かに持ち続けること。子どもたちが自己選択・自己決定できているかを問い続けること。そしてその問いは、人権の特別授業だけでなく、全教科・全時間の授業設計の真ん中に置かれるべきものです。
違和感は弱さではありません。深い人権意識が育っているからこそ感じられる、実践の深まりへのサインです。その感覚を大切に持ち続けることが、子どもたちの主体的な学びを本当に守っていくことにつながるのだと思います。