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公教育を動かすボトムアップ改革の設計図

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公教育の改革は、トップダウンだけでも、ボトムアップだけでも前に進みにくいものです。自治体が掲げるビジョンや目的・目標がなければ、現場の実践はばらけます。一方で、現場が扱える具体的な方法がなければ、抽象的な方針は教室の変化につながりません。

必要なのは、自治体の方向性と現場の具体実践を橋渡しする研修のデザインです。その鍵になるのが、学び方の見方・考え方を共通言語として持つことです。けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、各地の実践を同じ原理原則で読み解き、協働可能にしていく三本柱として位置づけられます。

公教育のボトムアップ改革は、一人の中心人物が全体を動かすものではありません。動く人が動き、その様子を見て次の人が動き、やがて地域を越えて実践が共鳴していく。その一人一人の実践こそが、改革の心臓部になります。

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トップダウンだけでは届かないもの

兵庫県三木市での研修を起点に考えたいのは、公教育をどのようにボトムアップで変えていくかということです。三木市では、教育委員会と連携しながら、研修のデザインを通して、地域の教育を現場から動かしていく取り組みが始まっています。

ここで最初に確認したいのは、トップダウンの限界です。

教育委員会や自治体が、具体的な手法を強く下ろしすぎると、現場からは「そこまではできない」「自分たちの実態に合わない」という反発が起こりやすくなります。では、反発を避けるために抽象的な文言にとどめればよいのかというと、今度は「具体的にどうすればよいのかが分からない」と言われます。

つまり、トップダウンは、具体に寄せても、抽象に寄せても難しさを抱えます。これは、トップダウンが不要だという話ではありません。むしろ、自治体としての方向性や目的・目標は、公教育において欠かせないものです。ただし、それだけでは教室の実践にはなりにくいのです。

トップダウンは方向性を示す力を持っていますが、現場が「どうやるのか」に答える力までは持ちきれない場合があります。

ここに、研修のデザインの重要性があります。自治体が目指す子ども像や授業のあり方と、現場が扱える具体的な方法を結びつける必要があるのです。

ボトムアップだけでも改革は進まない

一方で、ボトムアップだけでうまくいくわけでもありません。

「先生方、それぞれ自由に実践してください」と言ったとしても、現場では二極化が起こります。できる先生はどんどん進み、できない先生は何をすればよいか分からないままになる。さらに、できる先生同士であっても、それぞれの実践が違う方向に進み、全体としてどこを目指しているのかが見えなくなることがあります。

これは、ボトムアップの否定ではありません。現場の実践から変化が生まれることは、公教育の改革にとって欠かせません。しかし、各教師が好きなことを自由に行うだけでは、公教育としての方向性を持った改革にはなりにくいのです。

だからこそ、トップダウンとボトムアップは対立ではありません。噛み合って初めて、教育は前に進みます。

自治体のビジョンは、方向性をそろえる役割を持ちます。現場の具体実践は、「では、どうやるのか」に答える役割を持ちます。この二つを橋渡しする位置が必要です。

三木市の場合、自治体として掲げている柱には、主体性・協働性・創造性があります。これらは、三木市だけの特殊な目標ではありません。学習指導要領を共有している以上、多くの自治体や学校が、表現の違いはあっても、かなり近い方向を目指しています。

個別最適な学び、協働的な学び、主体的・対話的で深い学び。これらもまた、日本の公教育全体で共有されている方向性です。だから、三木市の話は三木市だけに閉じるものではありません。全国の自治体や学校が、同じ土俵に立つことができる話なのです。

目的・目標・手段をつなぐ橋渡し

公教育においては、目的・目標・手段を切り分けて考える必要があります。

自治体が掲げるビジョンや目的・目標は、「どこに向かうのか」を示します。三木市でいえば、主体性・協働性・創造性という方向性です。これは全員で共有すべきものです。公教育は、各自が勝手気ままに進めてよい場ではないからです。

もちろん、自治体の方針に対して批判的に考えることは必要です。しかし、批判にも作法があります。まずは、共有された目的・目標が何であるかを理解し、そのうえで、よりよい実現の仕方を考える必要があります。

では、手段はどうするのか。ここで現場の具体が必要になります。

「主体性を育てましょう」と言われても、現場はすぐには動けません。「協働性を育てましょう」と言われても、明日の授業で何を変えればよいのかが分からなければ、実践にはなりません。

そこで必要になるのが、「どうやるのか」です。

たとえば、子どもたちが授業を自分たちの力で進めていく。日々の持ち物や宿題についても、子どもたちが自分で考えながら整えていく。小学校中学年以降でも、そうした教室をつくっていく方法はあります。

重要なのは、それを特定の教師だけができる特殊な技として終わらせないことです。できる人だけができる状態では、公教育の改革にはなりません。できる人が何を見て、何を判断し、どのようなプロセスで教室をつくっているのかを、他の教師にも見える形にする必要があります。

研修のデザインとは、自治体の目的・目標と、現場が扱える具体的な手段をつなぐ仕事です。

二極化を防ぐ共通言語

ボトムアップの難しさは、大きく二つあります。

一つは、方向性がばらけることです。これは、自治体のビジョンや目的・目標を共有することで一定程度解消できます。

もう一つは、できる人とできない人の二極化です。ここを解消する鍵は、共通言語です。

できる教師は、何かを感覚的に捉え、判断し、実践しています。しかし、そのプロセスが言語化されていなければ、他の教師は真似できません。「あの先生だからできる」で終わってしまいます。

必要なのは、できる人の実践を、できない人にも分かるプロセスや仕組みとして概念的に共有することです。

そのためには、「いろいろな実践があるけれど、そこに通底している原理原則は何か」を見取る必要があります。授業の見た目は違っていても、背後で働いている学び方の見方・考え方が共有されていれば、実践は協働可能になります。

ここが共有されていないと、上限の解放だけが起こります。つまり、できる人だけがどんどん先へ進み、全体には波及しないのです。優れた実践が点として存在しても、それが学校や地域の文化にはなりにくい。

だからこそ、共通言語が必要です。研修では、個々の実践をただ紹介するだけではなく、それがどのような原理原則に基づいているのかを共有する必要があります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

学び方の見方・考え方を共有することは、教師の自由を奪うことではありません。むしろ、実践の違いを楽しめるようにするための土台です。

同じ原理原則を共有していれば、見た目の違う実践同士をつなげて考えられます。逆に言えば、みんな違うことをしているように見えても、実は同じ方向を向いている。みんな同じことをしているようでいて、それぞれの教室に合った違いがある。

この状態が、公教育におけるボトムアップ改革の下地になります。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスを三本柱として見る

ここで、けテぶれ・QNKS・心マトリクスの位置づけが重要になります。

これらは、単なる個別ノウハウではありません。特定の授業技術をパッケージとして導入するためのものでもありません。日本の公教育が共有している方向性に対して、それを駆動する原理原則を説明するための三本柱です。

けテぶれは、学習者が自分の学びを進めていくためのプロセスを支えます。QNKSは、問いや納得、共有の流れを通して、学びを対話的・協働的にしていく視点を持ちます。心マトリクスは、学習者の内面や関係性を見取り、実践を支えるための視点になります。

これらが別々のノウハウとして散らばるのではなく、三位一体構造として働くことで、実践を同じ原理原則で読み解くことができます。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

けテぶれとQNKSは両輪として働きます。個の学びを自律的に進める力と、他者との関係の中で学びを深める力は、切り離して考えるものではありません。

さらに、心マトリクスを通して、子どもたちの状態や学級の関係性を見取ることで、実践はより立体的になります。ここに、ミクロ・メソ・マクロの一貫性が生まれます。

ミクロとは、一人一人の学びです。メソとは、学級や学校の実践です。マクロとは、自治体や公教育全体の方向性です。この三つがばらばらではなく、同じ原理原則でつながっていくとき、各地の実践は孤立しません。

三重県の授業公開、奈良県の全単元公開、北陸や東京での取り組み。場所は違っても、同じ原理原則を共有していれば、互いに見学し、学び合い、実践を更新していくことができます。

これが、個別実践が協働的になるということです。

三木市の取り組みはローカル事例で終わらない

三木市で行われた研修は、三木市だけの話ではありません。

なぜなら、三木市が掲げている主体性・協働性・創造性という方向性は、多くの自治体や学校が目指している方向と重なるからです。学習指導要領を共有している以上、学校教育が目指す大きな方向性は共通しています。

だから、三木市で設計された研修の考え方は、他の自治体にも接続できます。

もちろん、地域ごとの事情は違います。学校規模も、子どもたちの実態も、教師集団の状況も違います。だから、同じことをそのまま移植すればよいわけではありません。

しかし、原理原則が共有されていれば、違いは障害ではなくなります。むしろ、地域ごとの実践が、互いに学び合う材料になります。

ここで起こるのが、地域を越えた共鳴です。ある地域で動いた実践が、別の地域の教師に届く。別の自治体の公開授業を見に行く。全単元の実践を共有する。そこからまた、次の地域で実践が始まる。

このようにして、公教育のボトムアップ改革は、全国同時的に進んでいく可能性を持ちます。

重要なのは、個別の実践が孤立しないことです。各地で別々のことをしているように見えても、同じ学び方の見方・考え方を共有していれば、それらは協働的な学びとしてつながっていきます。

熱の広げ方には順序がある

改革には、熱の広げ方があります。

最初から全員を動かそうとすると、無理が出ます。前向きになれない人を責めたり、動かない人を変えるべき対象として見たりすると、場は硬くなります。

熱は、まず動く人が動くところから始まります。次に、その様子を見て「自分にもできそうだ」と思った人が動きます。そして、一定数を超えたときに、「みんながやっているから自分もやってみよう」という文化が生まれます。

熱の広げ方
熱の広げ方

この順序を大切にする必要があります。

動く人が動く。その実践を見えるようにする。その実践の背後にある原理原則を共有する。すると、やれる人がやり始めます。やがて、その実践が一定数を超えると、学校や地域の空気が変わります。

そのとき、前向きになれない人を責める必要はありません。

むしろ、「大丈夫です。みんなでやっています。元気が出たら挑戦してみてください」と言える構造をつくることが大切です。子どもたちが育ってくれば、その教師の授業もやりやすくなります。子どもたち自身が学び方を身につけ、学級全体の文化が変われば、その場にいる教師も支えられます。

これは、信じて、任せて、認めるという姿勢にもつながります。教師同士に対しても、子どもたちに対しても、変化を急がせすぎない。けれど、放置するのではなく、周囲の実践と子どもたちの変化によって、自然に動き出せる環境をつくる。

公教育の改革は、全員を一斉に変えることではありません。動ける人から動き、その動きが周囲に届き、文化として広がっていくことです。

上限の解放を全体の変化につなげる

できる人が自由に実践できるようになることは大切です。けれど、それだけでは上限の解放で終わることがあります。

上限の解放とは、すでに力のある教師がさらに高い実践へ進める状態です。これは悪いことではありません。むしろ、改革には必要です。

ただし、その実践が周囲に伝わらなければ、全体は変わりません。優れた実践が「あの人だからできる」で終わってしまうと、公教育のボトムアップ改革にはなりにくいのです。

だから、できる人の実践を概念化する必要があります。

何を見ているのか。どの順序で進めているのか。子どもたちの現在地をどう捉えているのか。どのタイミングで語り、どのようにフィードバックしているのか。どこを任せ、どこを支えているのか。

こうしたプロセスが見えるようになると、他の教師も自分の教室に合わせて試せるようになります。

ここで大切なのは、完全な再現を求めないことです。原理原則を共有しながら、それぞれの教室に合った形に変えていく。これが、実践の多様性を保ちながら、同じ方向へ進むための方法です。

個別最適な学びと協働的な学びをつなぐ

個別最適な学びと協働的な学びは、対立するものではありません。

子どもが自分の学びを進める力を持つことと、他者と関わりながら学びを深めることは、両輪です。自律した学習者を育てるという視点は、個別に閉じた学びをつくることではありません。

自分で考え、計画し、実行し、振り返る。そのうえで、他者の考えに触れ、自分の見方を更新する。こうした学びが、教室の中で起こっていく必要があります。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスは、このつながりを支えるための共通言語になります。

個別最適な学びを、ただ一人で進める学習にしない。協働的な学びを、ただ話し合う活動にしない。主体性を、好き勝手にやることにしない。協働性を、同じことを一緒にやることにしない。

そのためには、学びのプロセスと子どもたちの状態を見取る視点が必要です。学び方の見方・考え方が共有されていれば、授業の形が違っても、その実践がどの方向に向かっているのかを判断できます。

公教育のボトムアップ改革は一人の旗振りではない

最後に確認したいのは、公教育のボトムアップ改革の主体です。

改革は、一人の中心人物が全体を動かすものではありません。もちろん、研修を設計する人、実践を言語化する人、地域をつなぐ人は必要です。葛原学習研究所のミッションも、日本全体に向けて、学習力を公教育で育てるための理論と実践を広げていくことにあります。

しかし、改革の心臓部はそこだけにあるのではありません。

一人一人の教師が、自分の教室で動く。子どもたちの学び方を育てる。実践を見える形にする。地域の仲間と共有する。別の自治体の実践から学ぶ。そうした一つ一つの動きそのものが、公教育のボトムアップ改革の心臓部になります。

心臓が一つではない、という比喩はとても重要です。公教育の改革を、単一の中心から広げるものとしてではなく、各地で動く実践主体が共鳴していくものとして捉えることができます。

だからこそ、この改革は強いのです。

一人が止まれば終わるものではありません。各地に心臓がある。各教室に、各学校に、各地域に、動き出す主体がいる。その一人一人が、共通の方向性と原理原則を持ちながら、それぞれの場所で実践を進めていく。

それが、公教育のボトムアップ改革です。

おわりに

公教育を変えるために必要なのは、トップダウンかボトムアップかを選ぶことではありません。自治体のビジョンと現場の具体実践を、どう噛み合わせるかです。

トップダウンは、目的・目標を共有するために必要です。ボトムアップは、教室の具体を動かすために必要です。そして、その二つをつなぐためには、研修のデザインと共通言語が必要です。

けテぶれ・QNKS・心マトリクスを三本柱として、学び方の見方・考え方を共有する。できる人の実践を、誰もが見えるプロセスとして概念化する。熱の広がりには順序があることを理解し、前向きになれない人を責めず、子どもたちと周囲の実践が場を変えていく構造をつくる。

その先に、地域を越えて実践が共鳴する公教育の姿があります。

公教育のボトムアップ改革は、誰か一人のものではありません。各地で動く一人一人の実践が、改革の心臓部です。

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