論点資料06「情報活用能力の抜本的向上」を読み解きながら、生成AI時代における情報活用能力の本質を問い直します。AIやデジタル技術は、個人の思いや願いを具現化するチャンスを大きく広げています。しかしその力を使いこなすには、まず自分の内側にしっかりとした願いや思いが育っている必要があります。情報活用能力をタブレット操作やタイピングの習熟に狭めてしまうと、本質を見誤ります。学習の基盤となる資質・能力として捉え直し、QNKSとけテぶれを通じて「情報を扱う学びの技術」として位置づけることが、これからの教育実践に求められています。
生成AIが広げる「具現化するチャンス」
論点資料06は、冒頭にこう記しています。「生成AIなどデジタル技術の発展は、多様な個人の思いや願い、意思を具現化するチャンスを生み出している側面がある」。
この一文は、AI・デジタル活用を考えるうえで、本質的な視点を示しています。個人の思いや願い、意思を具現化するチャンスがかなり広がっている——それが、生成AIという技術の最も重要な側面です。前向きに捉えるとしたら、核心はまさにここにあります。
ではここで、立ち止まって考えてみてください。自分の思いや願いが何なのかを把握できていない子どもに、AIは使えるでしょうか。AIに「何をお願いするか」を決めるのは、最終的に自分自身です。「タブレットを操作できること」と「AIを使いこなせること」は、まったく別の話です。情報活用能力の議論が「タブレットポチポチ能力」の育成に矮小化されてしまうのは、この一点を見落としているからです。
情報活用能力の本質——「タブレット操作」ではない
論点資料には、情報活用能力の定義も明示されています。「世の中の様々な事象と情報とその結びつきを踏まえ、情報及び情報技術を適切かつ効果的に活用して、問題を発見・解決したり、自分の考えを形成したりしていくために必要な資質・能力」。
この定義をよく読むと、「コンピューター」という言葉はほとんど出てきません。続く具体的な記述にも「学習活動において必要に応じ、コンピューターなどの情報手段を適切に用いて情報を得たり、情報を整理・比較したり、得られた情報を分かりやすく伝達したり、必要に応じて保存・共有したりといったことができる力」とあります。ここで言う「情報手段」とは何でしょうか。
教科書も情報手段のひとつです。図書館の本も、先生への質問も、友達との相談も、すべて情報手段です。その一つとして、コンピューターがある——という構造です。ところが現場では「情報活用能力を育てる=タブレットを使わせる」という読み替えが起きがちで、そこにずれの源があります。
情報活用能力とは、情報をどう扱うかという技術であり、その中核はQNKSです。 QNKSは、情報を得て・整理して・比較して・表現するという学びの技術そのものです。「情報技術」をコンピューター操作と同一視するから話がずれる。情報技術とはQNKSのことだ——という読み直しが、論点資料の記述とも整合します。

情報活用能力は、言語能力・課題発見解決能力と並ぶ「学習の基盤となる資質・能力」として学習指導要領に位置づけられています。学習の土台を育てることと、端末操作を練習させることは、本質的に異なります。各教科の特性に応じてQNKSを計画的に実施すること——それが、情報活用能力の育成を現場に落とし込む、最も実践的な答えです。
情報収集においても同様です。コンピューターで検索すれば、フィルターバブルの中でパーソナライズされた情報空間に投げ込まれます。小学生が調べても大人向けの情報が出てくる現状のなかで、子どもの学年と習得文字に合わせてルビが振られ、文章構造も整えられた教科書こそ、最もよく設計された情報媒体のひとつです。ノートを見せ合えばそれは情報の共有です。保存・共有のためにタブレットが必須な場面ばかりではありません。
心マトリクスで見る——AIはどこに位置づくか
AIとデジタル技術の本質的な位置づけを考えるうえで、心マトリクスの構造が助けになります。
心マトリクスの中心には「地球」——自分の願いや思い、「自分が自分であるとき最も輝く」という根本的な自己承認の領域があります。そこから月の方向へ「やってみる⇆考える」の軸が伸びています。「考える」という動きは、地球(自分の深い願い)と接続されたところから始まります。

AIは、この構造のなかでどこに位置するでしょうか。「考える」の上半分——思考を整理し、情報を処理し、アイデアを具体化するところまでは、AIが強力に支援できます。そして「やってみる」の部分も、文章生成・コード生成・楽曲制作など、かつては人間だけが行っていた領域へとAIは着実に拡大しています。
しかし、「考える」の下半分——自分の深い願いとつながっている部分は、AIには代替できません。 「自分が何を願うか」「何者として生きるか」——これは、最終的には自分しか決められないことです。
AIは会話の履歴をもとに「あなたはこういうことが好きではないか」と提案するようになってきます。それはあくまでも提案です。しかし、自分の内側にしっかりした思いや願いが育っていなければ、その提案に飲み込まれてしまいます。外側から不安を煽るコンテンツに振り回されるのも、根は同じことです。外側から来るものに一喜一憂しないだけの、深い願いを持つこと——これが、AI時代に教育が守り育てるべき核心です。
「AIが自分の今日の食事を提案してくれる」という世界は、確実に来ます。認知負荷を下げるためにそういう使い方をすること自体は、合理的な選択です。問題は、コストを節約した先に、自分の深い願いに向けた「考えてやってみる」があるかどうかです。あらゆることをAIに委ねて自分では何も決めないとしたら、考えてやってみるという経験が蓄積されず、人は自分を見失っていきます。
「プロセス」こそが教育の核心
AIが便利になるほど、教育の本質的な価値が問われます。
たとえばピアノを弾く人を考えてみてください。今やAIが歌詞付きの楽曲を生成できる時代です。「いい音楽を聴きたいだけ」なら、それで事足ります。それでもピアノを弾く人が弾くのは、その行為・プロセスそのものを楽しみ、経験したいからです。
同じことが学習にも言えます。学力を「結果として伸ばす」だけならば、AIドリルに任せれば効率よく実現できてしまいます。しかしそのとき、子どもたちが失うものは何か。プロセスです。考えて、やってみるという過程です。
「考えてやってみる」という形跡・経験が蓄積されないと、人は自分を見失います。何も自分で決めてきていない、何も試行錯誤してきていないという状態では、「自分が何をしたいのか」「自分が何者であるか」が分からなくなります。これが、AIが深い願いの領域まで侵食してきたときに最も怖い姿です。
公教育が子どもたちにもたらしているのは「結果」ではなく「プロセス」だということを、今こそ明確にする必要があります。苦手なことにも得意なことにも、自分で試行錯誤して向かっていこうとするプロセスの中にこそ、生きる力を育む栄養価が含まれています。そこに、人生にわたる学びの種が埋まっています。AIに代替されるプロセスを嘆くのではなく、教育はそのプロセスを子ども自身に残すことを担う——という発想へと転換していくことが、これからの実践者に求められています。
QNKSとけテぶれ——情報技術と問題解決の両輪
ここで改めて、QNKSとけテぶれの位置づけを整理します。
情報活用能力の定義には「問題を発見・解決したり、自分の考えを形成したりする」という記述があります。問題の発見解決は、けテぶれ(計画・テスト・分析・練習)の構造そのものです。自分の考えを形成するために情報を得て・整理して・比較して・表現することは、QNKSの構造です。

けテぶれとQNKSは独立した装置ではなく、両輪として機能します。けテぶれが「やってみる」側の試行錯誤を支え、QNKSが「考える」側の情報処理を支えます。これらは「学びのコントローラー」として、学習の基盤となる資質・能力を実装する具体的な装置です。
論点資料が求める「情報活用能力の系統的育成」「探究的な学びとの連携」への、最も実践的な回答はここにあります。コンピューターの操作練習の時間数を増やすことや、プログラミング体験を設けることが、論理的思考や情報活用能力に直結するわけではありません。論理的思考は国語・算数・理科・社会——全教科の学習の中で、QNKSを通じて育っていきます。各教科の特性に応じてQNKSを計画的に実施することが、情報活用能力の育成の核心であり、これは特定のデジタル機器に依存しない実践です。
デジタル化の負の側面——身体への影響も見落とさない
論点資料は、フィルターバブルやエコーチェンバー、情報モラル、偽情報への対処など、デジタル化の負の側面を取り上げています。これらはいずれも重要です。しかしもう一点、そこで明示されていない側面があります。身体への影響です。
全授業でパソコンを使い続ける環境に置かれた生徒が、肩こり・首こり・視力低下を訴えるという声は現場から届いています。一日中PCに向かうとその影響を実感することは、大人でも変わりません。猫背でモニターに顔を近づけながら端末を操作する教室の風景を見て「不健康だ」と感じる直感は、正しいはずです。
現行の45分授業は、紙の教科書とノートを使う前提で設計されています。その時間をすべてデジタルに置き換えたとき、子どもの集中持続時間や視力・姿勢に与える影響については、まだ十分な検証が行われていません。モニターの光は自然光とは異なり、目の負担や休憩の適切なタイミングも紙と異なります。こうした身体面の議論が、デジタル活用推進の議論と並行してなされる必要があります。
デジタルの力はリアルな学びを支えるための手段であり、リアルな学びを隠す道具であってはなりません。 リアルな学びが貧弱なまま端末だけ整備しても、それは表面的な対応にすぎません。情報活用能力の抜本的向上を語るとき、ハードウェアの整備や操作技能の習熟だけでなく、子どもたちの心身全体に目を向けることが、実践者としての責任です。
現場から未来を作る
論点資料の方向性を批判的に検討しながらも、公的な議論が「情報活用能力は学習の基盤となる資質・能力である」と明示し、各教科横断的な取り組みの重要性を強調していることは、実践の積み上げと方向を同じくしています。
QNKS・けテぶれ・心マトリクスは、その方向性を具体的に実装するための装置です。「情報活用能力の系統的育成」「探究的な学びとの連携」という目標は、こうした実践を通じてはじめて現場に根を下ろします。
生成AIが進化し、「考えてやってみる」プロセスをAIが代替できる範囲がどんどん広がっていくとしても——いや、だからこそ——教育の現場でやるべきことは変わりません。子どもたち一人ひとりが自分の深い願いに敏感になり、その願いを起点に「考えてやってみる」プロセスを自分で歩む力を育てること。自分が自分であるとき最も輝くという姿を、AI時代においても実現するための学びを作り続けること。
世界の動向に振り回されながら追いつけ追い越せを繰り返すのではなく、子どもたちの内側に向き合うリアルな実践を積み重ねながら、中央の議論を踏まえ、さらにその先を現場から作っていくこと——それが今、実践者に求められていることです。