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AI時代に残る教育の本質は、教師と子どもの「存在」を育てること

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AIや学習支援アプリが教育現場に広がるなか、授業づくりの主体がいつの間にかシステム側に移ってしまう危うさが生まれています。機能的な授業の上手さや教材知識はAIに代替されうる一方で、教師や子どもの「存在そのもの」の価値は代替されません。実体験と試行錯誤の中で好き嫌いや願いを紡ぐプロセス、リアルな相互作用のなかで自分を知っていく経験、そして遅さやめんどくささが生む気づき──これらは公教育が守るべき核心です。AIを使うためにも言葉の力が必要であり、教師も子どもも、AIに負けないための能力競争ではなく、「自分は何をしたいのか」を問い続けながら変わり続けることが、これからの教育の中心になります。

授業の主体は誰か ── 使いこなす側に立つために

さまざまな学習支援アプリケーションが教育現場に入ってきたとき、気づけば「授業作りの主体が教員からシステムに移っていないか」という問いが浮かびます。「このアプリでやる授業」ではなく「このアプリによって授業をさせられている」状態──ツールを目的化し、そのシステムに引っ張られる形で授業が設計されていくとき、教師の主体性は少しずつ削られていきます。

教師の主体性が失われると、授業も従属的になり、教育される子どもたちにもその影響が及びます。

「課題と目標のまとめ」といったパターンに授業が従う状態も同じ構造です。教室の外側から要請を受け続けているうちに、自分が何を大切にしたかったのかが分からなくなっていく──そのような経験を持つ教師は少なくないでしょう。「自分が授業を考えて教えているようで、実は自分が考えていない授業になっている」という感覚です。

重要なのは、ツールそのものへの賛否ではありません。教育支援ツールはあったほうがよく、教員の事務負担を減らすAIの活用も意義があります。問題は、ツールを使っているつもりが、ツールに使われている状態になることです。

授業の基盤となる資質能力がしっかりあれば、「ここではAIを使おう」という判断を自分で下せます。それが学びのコントローラーとしてのあり方です。授業の設計を自分が握り、そのプロセスの一部としてツールを選ぶ。この順番が逆になったとき、主体は失われます。子どもたちについても同じことが言えます。学習の基盤となる資質能力がしっかりあれば、あとは自分の判断でツールを使えばいい、という教室に近づきます。

機能はすべて代替される。では「存在」は?

AIの進化を正面から受け止めるなら、こう問わざるをえません。「教師の機能はいずれAIに代替されるとしたら、何が残るのか」と。

授業が上手い、教材に詳しい、子どもとのやりとりをつなぎ合わせられる、必要に応じてスピードを落とせる──これらはすべて「機能」です。そして機能はおそらくすべて代替されると考えてよいでしょう。

ではAIに代替されないものは何か。それは「存在」です。

ある先生のことが好きな子は、その先生の授業スタイルや声色や考え方をすべてコピーしたAIが現れたとしても、それでは満足しません。「あの先生だからよい」という関係性は、機能の再現では埋まらない。これが存在の価値です。

あなたは最も輝く
あなたは最も輝く

だからこそ、「自分らしい先生になってください」という言葉が力を持ちます。それしか残らないし、それはAIがどれだけコピーを重ねても残り続けるものです。「自分が自分であるとき最も輝く」という命題は、AI時代においてより切実な意味を帯びています。何度コピーされても、自分は自分です。

そして自己探究の価値もここにあります。自分はどれだけ魅力的に認識できているか。先生が「自分ってこんなに素敵なんだ」と思えていることが、子どもたちに伝わります。すると子どもも「自分って素敵かもしれない」と感じ始める。それがAIとの適切な距離を測る力にもつながっていきます。

実体験と試行錯誤の中でこそ、願いが育つ

子どもの個性や願いは、AIが先回りして整えることで育つものではありません。自分の試行錯誤や、嫌いなこと・好きなこと・得意なこと・苦手なこと──それらを実体験の中から紡ぎ出していくプロセスが、「自分はこれがしたい」という願いを育てます。

「国語が好きだから国語の授業がしたい」と言えるような子を育てたい。こういうことがしたいから自分はこう生きる──そう言えるような願いの育ちを支える場が、教室には必要です。

やってみる⇆考える(学ぶ)
やってみる⇆考える(学ぶ)

「やってみる」と「考える」は、学びを動かすふたつの車輪です。行動し続けるやってみるフェーズと、自分のこれまでの経験・行動を全部振り返って「自分のコアにあるものは何か」を問い直す考えるフェーズ。この往還を繰り返すことで、自分のコアが少しずつ浮かび上がってきます。「なんかわからなくなってきたな」と感じたら、やってみるを一度止めて振り返るフェーズに入る必要があるのかもしれない──そうメタ認知できること自体が、自己省察の入口です。

けテぶれの実践では、週末10問の漢字テストに自分で試行錯誤して向き合った子どもたちが、本当に涙を流して喜ぶことがあります。それは点数の話だけではありません。自分でやって、もがいて、できた──そのプロセスの味わい方を身につけた子どもは、友達の成果も一緒に喜べるようになります。計算問題ができないところからできるようになる、そのプロセスの味と、やりたいことに向き合い続けた先の達成感は、根っこのところで同じものです。学習空間の中で経験させてあげたいのは、まさにそうした「自分への信頼」の種です。

学校という場が守るべきもの ── リアルな相互作用と現在地

社会全体がAIに飲み込まれていくとすれば、学校もその流れを止めることはできないでしょう。けれど、学校という場が守り続けなければならないことがあります。

「家でインターネットさえつながれば学べる」という時代が来ても、学校にいるからこそ得られるものがあります。リアルな空気感、友達の学びの今の現在地を知れること、そして「自分ってどういう子だろう」という問いを、他者との触れ合いの中で見つけていけること。これらはオンライン空間や個人AIが代替しにくい体験です。

自分の経験が大事なんだ、と言ってあげられる場所は、公教育しか残らないかもしれない。

家に帰れば親もAIに飲み込まれ、社会全体が「AIに聞けばいい」という方向に向かったとき、「そうじゃない。あなたがやることが大事なんだ」と言い続けられる場所として、公教育には強いプライドが必要です。ツールなしに子どもの試行錯誤を支え、それが子どもの人生を支えるのだという信念が、学校教育の根幹になります。

子どもたちが、AI時代にあっても「自分が自分である」という感覚を持てる場所。アイデンティティの根っこを育てる場所として、学校は機能し続けなければなりません。公教育のボトムアップ改革を支える立場からも、その信念を現場の一人ひとりに届けていくことが、今問われています。

遅さとめんどくささが生む気づき

AIやICTが授業に入ることで、学習のスピードが上がります。それはひとつのメリットとして語られますが、速ければよいという話ではありません。

スピードを落とすことで気づけることがたくさんあります。手書きで文字を書く、どれだけ書けたかを目で見る、あえて立ち止まって考える時間──そうした体験の中に、自分への気づきが宿っています。低学年で国語の授業にICTをほとんど使わない判断も、書くという行為の中に子どもの手応えや自己肯定感が生まれるからこそです。

授業中に「わかる、わかる」と全員が速く進んでいく流れの中で、先生がひとこと「え?」と立ち止まるだけで、空気がすっと変わることがあります。首をかしげた子がいた、この空気は本当に全員わかっているのか──そうした空気を読む判断は、豊富な情報を瞬時に処理したうえでの直感であり、それをすべてプログラムすることは容易ではありません。

遅さ・めんどくささ・手書き・立ち止まり──これらはこれまで「効率が悪い」と見られてきたものです。けれどAI時代においては、それらが人間の気づきと自己省察を守る場所になるかもしれません。

AIを使うにも「言葉の力」が必要

AIが発達すれば、やりたいことを伝えれば助けてもらえます。ただし、そのためには「自分は何をしたいのか」という願いと、それを言葉にする力が必要です。

自分の願いがない人は、AIに何をお願いすればよいかも分かりません。それでも言葉でAIに伝えなければAIには伝わらないし、AIが返してくれたことを理解できなければ、それが叶ったことも認識できません。言葉が大事だという教育的基盤は、AI時代にもなくなるどころか、より重要になります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

QNKS(問い・抜き出し・組み立て・整理)は、思考の外化と再組織化を支えるツールです。頭の中にはさまざまなアイデアが浮かんでは消えていく。それを捉えるために、キーワードをひとつずつ出し、キーワード同士の関係を線でつないで図にしていく。このプロセスは、思考を「自分が扱えるもの」に変える技法です。いくらAIが優れていても、自分の問いを立てられない人、抜き出しと組み立ての経験を積んでいない人には、AIの返答を活かす力がつきません。

子どもたちに学習の基盤となる資質能力──問題発見・解決能力、言語能力、情報活用能力──をしっかり育てることができれば、あとはそれを発揮するツールとしてAIを自分の学びのコントローラーとして使えるようになります。道具を使う側に立てるかどうかは、その基盤の厚さにかかっています。

自分が変わり続けること ── AIと「勝負」しない

「AIに負けないように」という発想は、どこかでナンセンスになっていきます。AIはできることを問えば「全部できる」に近づいていくからです。重要な問いはそこにはなく、「自分は何がしたいのか」「AIにここは譲りたくないのは何か」を問い直すことがこれからの中心になります。

カラオケが好きな人は、AIに代わりにカラオケを歌ってもらっても満足しません。自分が歌うから楽しいのです。同じように、やりたいことは自分がやるから楽しい。教師であれば、AIが代わりに授業をしてくれても満足しない──「自分がこの子どもたちの前に立ちたい」という意志が動力源になります。

そのためには、教師自身が変わり続けることが必要です。ある時点での自分の思考や実践をすべてAIに読み込ませれば、似たようなことはAIにもできるようになるかもしれません。しかし、今日大事だと思っていたことと明日大事だと思っていることが少し変わっている教師は、AIには追いきれません。変わり続けること、問い続けること、そこに人間としての教師の価値があります。

自己探究は、教師にとっても子どもにとっても、AI時代を生き抜く中心軸です。経験を振り返って、自分の中に抱いた喜怒哀楽、好き・得意・苦手・嫌い──それらをじっくり振り返り、自分のコアにあるものを見つけていくこと。そして、その探究を魅力的に感じられるかどうかです。

主体性は子どもだけのものではありません。教師も同じくらい主体でいてほしい。子どもが何をしたいのかを大切にすると同時に、先生方が何をしたいのかも大切にされる教室であること。失敗を重ねながらチャレンジし続けること。それが子どもたちの教育を支えていく力になります。

AI時代の教育の問いは、「AIをどう使うか」以上に「自分は何者か」を問い続けることに帰着します。その問いを、教師自身が生きていることが、子どもへの最大の教育になるのかもしれません。

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